過激な年寄りになろう | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

年末年始の非日常に耐えきれずにいる。何がめでたいんだろう。何が嬉しんだろう。ごった返す買い物客を見て、世の中には華やいだこの時期を忌み嫌って、息をひそめて過行くのを待っている人も多くいるんだろうな、と思うとこのにぎやかさの闇を見ずにはいられない気になる。本当にこの時期って楽しいのかい。しんどいだけではないのか。

「雪かき」作業はもちろん重要だし、名もない日常を営々と築き上げてきた先人たちに敬意を表する気持ちも強い。

ただ「餅つき」とか「おせち」とか「初詣」とか「年賀状」とか「あけまして云々」とかいうあいさつとか、なにかと儀式、形式に近い日常生活に欠かしても罪はないようなものに労力を払うことにぼくは消耗している。

もっとなにかその労力を世界の平和や地球環境のことなどに世の中の人々が使ってくれればもっと住みよい社会になるような気がする。

大晦日も「WBC]や「オオタニ」賛歌の番組が組まれ留飲を下げる人々で溢れていたんだろうなあ。

思えば僕の日常も下世話な志の低いガキのような争い事や、幼稚としか言いようのない低レベルの会話が渦巻いている。

もっと人間のレベルの高い話しがしたい。

生きることの基本姿勢、哲学について。本来人間はこうあるべきだよな、というような本質的な部分の話しを深める年にしたい。

レベルの高い生き方をしよう。本質に迫るラジカルな鬼気迫るような雰囲気の人間になりたい。

ただのチビだと思うなよ。

今、23時41分05秒。今年も何とか生きて通過できそう。大事なのはその中身だけれど。