顔はごまかせない | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

落としどころを探し出す。いわゆる妥協点。白黒つけずに曖昧にしようとする。

どちらかと言うと悪い癖だと思うが、組織や集団を維持するためにはそういう玉虫色の解決策と言う曖昧さも必要なんだと自分を納得させる。

要するにね、誤魔化せるものは誤魔化したい、って思うんですよね。(昨今のジミントウの裏金のように、昨今の松本人志のセクハラのように)誤魔化せないですよ。証拠があるとかないとかではなく、漂う腐臭が隠しようもなく、人々の嗅覚に入り込んでいる以上、もう無駄な抵抗です。「顔に書いてある」とはよく言ったもので、本当のことはほば間違いなく顔に出ているから不思議です。

またしても長いト書きから始めましたが・・・。

ぼくの生き方を動物に例えるなら「コウモリ」深く深く自覚している。最近も相手によって180度違うことを平気で言っている。クソのように妥協の産物で生きているし、それを持ってしか語れない僕の越してきた人生。

交通違反の取り締まりに捕まったら、判で押したようにその言い訳をしていた。「急いでいた」「急に電話が鳴って・・・」・・・もう何を言っても無理な時にさえ“ひょっとして許してもらえるのでは・・・”とか思うんだ。見苦しさの極み。

日常生活の様々な場面で、言い訳して自分を正当化して、相手が悪い、と言い募って自分の非を一切認めない人っている。いつも悲劇の中心に自分がいる。そんな生き方している人たちと一緒に仕事などしたくない。なぜ世の人々は自分の正しさを認めてくれないのか、と思いながら生きている人って必ず顔に出る。

僕はそんな生き方を、そんな顔つきをしている人がとことん嫌いだ。(おそらくあなたが想像しているよりも、もっと嫌っている)

そんな生き方やそんな顔つきをして僕が一番嫌っている人が誰あろう自分自身である。

僕は自分の生き方がそんなに嫌いでない自分が大嫌いだ。

この間も「問題解決」に背を向けてズルズルと後回しにした。年を越してしまった。

「相手のせいだ」「○○のせいだ」「こんなに一生懸命やっているのに」とずっと思ってはずっと自己嫌悪に陥っていた。

最近も些細な同僚の間違いをネチネチを指摘し、「△△さん、おれこのこと言いましたよね」と何度も何度も相手を暗に非難している奴の言動をみて得も言えぬ嫌悪にさらされて、こんな奴と一緒は嫌だと嘆いている。嘆くだけで何にも行動しない。嘆いている自分を正当化する。「ぼくがこう思うのは仕方ないこと」と考えている。

仕事終わり、実家の用事や仕事場の後片付け、買い物、掃除などする。

最近思う事は「家人の顔色」その次は「○○の顔色」である。掃除などしたくないがその無関心が元で各所にひびが入ることを経験上知っているから言われるまでにする。それだけだ。年末だから大掃除、という観念がないし、そういう風習は変だと思っている。初詣の風習も変だと思っているが、ここでそんな「信念」めいたものを貫こうとも思わない。怖い人たちの顔を思い浮かべて妥協して生きていくんだ。

こんな腰抜けはそうそういない。

そんなことを感じては十分落ち込む年の瀬である。