瓢箪形穴あき銭 長濱通寳
長濱通寳 形態 : 瓢箪形穴あき銭 分類 : 御当地銭/記念銭 サイズ :縦 49mm、横 32mm、厚さ 2.8mm 量目 : 16.9g 材質 :銅 お宝度:◎◎◎◎◎作銭度:中 長浜市(ながはまし)は、滋賀県の東北部(湖北地方)に位置し、東西約25km、南北約40kmと市域は東西に短く南北に長く北は福井県、東は岐阜県に接しています。周囲は伊吹山系の山々と、ラムサール条約の登録湿地でもある琵琶湖に面しており、豊かな湖北平野と水鳥が集う湖岸風景が広がり、県内でも優れた自然景観を有しています。かつては、北國街道や、北國脇往還沿道(北國街道と中山道を最短経路で結ぶ)などが通じる交通の要衝であり戦国時代を偲ばせる長浜城や小谷城跡、賤ヶ岳、姉川古戦場をはじめ、竹生島の宝厳寺、渡岸寺の国宝十一面観音など数多くの観音が祀られる観音の里といった、すぐれた歴史的遺産を有しています。昭和18年に 長浜町・六荘村・西黒田村・神照村・ 南郷里村・北郷里村・神田村 の1町6村が合併して市制が敷かれ、平成18年に 長浜市、浅井町、びわ町 の1市2町が合併し、現在に至っています。さて今回紹介するのは「長濱通寳」というちょっと変わった形の穴あき銭ですがどうやら、そんな長浜市に因んだ銭貨のようです。裏側を見ると市制七七年令和二年四月一日とあり、市制77周年の記念銭となっています。滋賀県長浜町が周辺村と合併し長浜市になったのが昭和18年(1943)であり記念銭の発行が令和2年(2020)ということで77年であってますね~長浜というところは、元々「今浜」と呼ばれていましたが、天正3年(1575年)頃に羽柴秀吉の築城にあわせ「長浜」と改称されたもので「長」の由来は、秀吉の主君・織田信長の「長」に求める説もありますが、因果関係は不明です。また秀吉が一国一城の主となった最初の拠点であり、彼の城下町経営の基本パターンを醸成したところでもあります。中心市街は、秀吉により長浜城の城下町として整備され、小谷城下などの商人たちを集めて、楽市である城下町を作ったのが現在の長浜の基礎となっています。当初、銭貨の形が、なぜ瓢箪形なのか首を傾げてしまいましたがどうやら長浜の発展の基を築いた秀吉の馬印「千成瓢箪」から来ているわけですね。納得しましたw長浜城:織田信長が浅井長政(信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、羽柴秀吉と名乗り、はじめて城持の大名に出世しました。翌年、今浜(現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。天正10年(1582)信長亡きあとの清洲会議で長浜城は柴田勝家の甥の勝豊が城主となりました。しかし、はやくもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、賤ヶ岳合戦の拠点としました。その後長浜城は山内一豊、内藤信成、内藤信正を城主に迎えました。豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。今見られる大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓は長浜城の遺構であると言われています。現在の長浜城は、昭和58年(1983)に市民の熱意と寄付金などで建設され、内部を歴史博物館として開館しました。