モンロー研究所…オリオン・ミッションNO342 | ヘミシンクピンポンパン

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ヘミシンクと幽体離脱体験記

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ヘミシンクレトリーバルは、このようなバカを大量に製造してしまう。バカでもいいではないか…そんな声も聞こえてくるのだが、本気でそんなことを考えているあなたは間違いなくスピリチュアルサイコだ。良心の欠片もなく、人を殺してみたかったという、あの名古屋の女子大生と同じだ。

(続く)

 

《オリオン・ミッション…モンロー研究所NO342》

モンロー研究所で行われたゲートウエイから帰って、しばらくするとライフラインを受講してみようとなにげに思った。ヘミシンクを始めたばかりのころは毎日騙されたとばかり思っていたのだが、これは意外や私には向いていることがわかった。

 

それは十数年前の…たぶん2008年の暮れのことだった。私は毎日ヘミシンクに没頭し異世界を彷徨し、自分の前世を探り、ガイドと語り合い、宇宙連合と交流していた。しかしレトリバーバルは見送っていた。それをすることに、どのような意義も見い出せなかった。

 

私の記憶ではヘミシンクは、ゲートウエイの次はライフラインと、コースがそのように決まっていたと思う。レトリバーバルについて、自分ひとりであれやこれや逡巡しても何も始まらないだろうと考えた私は、翌年行われるアクアヴィジョンのライフラインに参加を申し込んだ。

 

今どうなっているのか知らないが、この当時は入門者初心者のコースでしかないゲートウエイとライフラインでさえ、モンロー研究所門外不出のセミナーだった。ヘミシンクにはまだまだ謎めいた未知の雰囲気が漂っていた頃で、それは現地にまで行かなくてはならなかった。

 

私がヘミシンクをやり始めた、ちょうどその頃から、爆発的にヘミシンク人口が増え始めた日本では、モン研のトレーナー・フランシーンが訪日するという形で、国内で受講できるようになっていた。ライフラインはアメリカにまで行かなくてすむようになったのだ。

 

私はアクアヴィジョンの手違いで、国内で行われるはずのゲートウエイには参加できず、アメリカまで行くことになってしまったのだが、おかげでそれは思い出に残る素晴らしい体験となった。そしてモンロー研究所に導いてくれたアクアに感謝した。

 

それはきっと私のガイドの計らいでもあったのだ。今は全てのコースを国内でやれるのかもしれないが、一度や二度モンロー研究所に行ってみるべきだ。モン研も今どうなっているのか知らないが、あのときあそこに行けたことは私の生涯の最高の思い出の一つだ。

 

しかし片道十数時間のフライトは二度としたくなかった。国内で受講できることになり、これでいつでも気楽に行けると思った私は、やはりレトリバーバルに気乗りしなかったのだろうか。申し込んだのは翌週だった。

 

それが甘かった。参加者を募集してから一週間しか経っていなかったというのに、もうすでに定員は一杯になっていたのだ。今では想像もつかないだろうが、ヘミシンクはこのとき一大ムーブメントになり、その熱波は全国に広がっていた。私はそれにも気づいておらず実に悠然とのんびりとしていたのだ。

 

アクアに電話で問い合わせてみるとタッチの差だったらしい。次回の申込受付まで待ってもらうしかないと言われてしまった。私はキャンセルで空きが出ることを期待するしかなかった。しかしこのときにヘミシンクすることを思いついたのだ。これが私のある意味、レトリバーバル手始めのきっかけとなった。

 

《誰かがキャンセルするように》…ヘミシンクでそんなワークを行ってみたのだ。そんな自己都合や身勝手が許されるのか…これはあまり褒められたものではない。そんなことも少しは考えてみたが、これを逃せば次回のライフラインはアメリカまで行かなくてはならなかった。

(続く)

マサト