村上春樹「象の消滅」 | ああ、無情!!masarinの読書ブログ

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前回に続き、短編集「パン屋再襲撃」のなかにある、一編「象の消滅」を紹介します。村上春樹を固め打ちで読むという経験をしたことがなかったので、今回やっていますが、いくつか意図せず短編集を読んでいくうちに、「村上春樹とは隠喩を多用する作家なのだ」ということを思い知らされました。つまりは、「わからねえ」をそのまま放置せずに、「どうしてわからない部分があるのか」、「何を書いているのかを考えなければならない」ということです。

 

この「象の消滅」は特にわかりやすい形で隠喩が入っている作品です。この小説を読んで、その特質に気づきました。

 

あらすじ

ある市の動物園を廃止して、マンション型の分譲地を建てるという計画があり、実行されます。動物園にいる動物たちは、様々な形で売却されます。しかし、ある老いた象だけは、買い手がつきません。なので、市はその象を死ぬまでマンションの敷地の中で飼うことに決めました。

ところが、野党が危険性や経済合理性の観点から、老いた象を飼うことに反対します。この作品はバブル前夜くらいに発表された作品ですが、今現在にも通じる、野党の無責任さが発揮されているのです。

 

老いた象は老いた飼育員が世話しています。マンションでこの象と飼育員はある種の名物になっているのですが、ある日忽然と一頭と一人は消滅します。

主人公の男は、この事件に注目します。なぜなら、この男は最後にこの一頭と一人を見た人間だろうからです。

老いた象は野党が指摘する危険性のために、フェンスによって過剰に防護されています。人々が見られる時間帯が終わった後、フェンスの向こうからは象の様子はうかがえません。しかし、主人公はその一頭と一人が見える場所を見つけます。それは、裏手の崖の上にありました。

崖の上から見た一頭と一人は、人々の前にいるときとは違う、仲睦まじさがありました。その微笑ましさを見た後に、消えてしまったのです。

 

感想

主人公は最後に象と飼育員を見ているのですが、それゆえに象と飼育員に肩入れしてしまいます。その数十年後に「卵と壁」という有名な演説をします。

 

 

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。」

 

というのが、感動的な部分ですよね。多分に「きれい事」の匂いがしますが、やるやらないは別として、こういうことに不快感を抱かない人間にはなりたくないというのは、よくわかります。

とかく、「おれが(あたしが)ただしいのだから、おまえは(あなたは)黙って殴られなさい」という理屈を言われがちな下品な世の中になってしまいましたが、私もそんな世の中がいやですね。

 

さて、この「老いた象」と「老いた飼育員」はこの文脈に沿っている話です。二つの存在は社会にとって無駄なものです。演説の中でいうところの「卵」です。これを切り捨てるのが、野党というのが面白い。時代によって、野党の主張や役割は変化します。長年生きてくると、それは無責任なように感じてしまいます。

 

バブル直前の時期を鑑みると、金にならないものが無駄なものになります。こういうものは、むげに切り捨てていいような空気が、この時代以降もずっと続いていきますね。

 

主人公はこの話を、仕事で出会った女性ジャーナリストに話します。そのジャーナリストは、話に食いつくのですが、これも意味ありげですよね。結局ジャーナリズムに公正性はなく、自己の主張と合致するかどうかが、「書く」か、「書かない」かの分かれ道です。

正義とか不正義では、本当は判断していないのですね。

 

この話は、結構図式的に書かれていて、そこにある寓意を読み取るべき話です。

 

近くにいる国語教師によると、寓意も隠喩も何かを間接的に表しているのはもちろんですが、寓意とは物語全体で何かを表現しているものだということです。たとえば、イソップ童話の「蟻とキリギリス」では、蟻とキリギリスの話を使いながら、「労働の尊さ」を説いています。こういうものが寓話です。

隠喩とは、一文でそれを表現していくこともあります。それが違いなようです。

 

この「象の消滅」では、この象と老飼育員は社会にとって「無駄なもの」ですが、大事にかけがえのない存在でもあります。当たり前ですよね。消えたら作り直せないものですから。それに対する寓意があるのですね。

そして、主人公は前回も言いましたが、この状況に対して、戦うこともなく抗議することもなく、「諦め」ているのです。