村上春樹「ファミリー・アフェア」の寓意と現代社会の消費文化: あらすじと解説 | ああ、無情!!masarinの読書ブログ

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あらすじ

主人公は家電メーカーの宣伝担当として働いている社員。妹と同居しています。妹が大学生の頃から、兄は新入社員の頃から一緒に住んでいるのです。同居のはじめのころは、兄妹は都会のスノッブな生活を楽しんでいます。

しかし、妹が旅行代理店に就職。数年たって、婚約者ができました。相手は、石油会社の御曹司でエンジニアをしています。けれども、兄はなんだか気に入らない。ある日、婚約者を連れて二人のすみかにやってくることになります。会ってみると、人柄は申し分ない。けれども、なんだか物足りないと兄は思っているようです。

二人がいい仲になるための時間を二時間ほど空けるために、兄はバーに飲みに行きます。そこで出会った女子大生と関係を持ちます。

帰ると寝ていると思っていた妹が起きていて、二人は話をします。妹は(兄とは違い)婚約者と関係を持ちませんでした。

 

寓意

村上春樹の短編は、「中国行きのスローボート」・「1973年のピンボール」・「パン屋再襲撃」とここまで固め打ちで読んできました。すいません。ちょっと飽きてきたので、宮城谷昌光の「諸葛亮孔明」を次に読んでしまいました。追々戻ります。

話を戻すと、この三作品では、寓意(他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと。寓喩)をかならず含んでいるという共通点があります。では、この「ファミリー・アフェア」ではどんな寓意があるのでしょうか。

 

この作品は80年代に発表されています。ここで出てきた兄妹は皆がうらやむような都会の若者です。兄は、セックスをしまくる生活をしていて、広告を作るという皆がうらやむような仕事に追われています。妹はそこそこ遊んで、旅行代理店に勤め、玉の輿に乗る。そんな人生を送っているわけですが、二人ともちっとも楽しくなさそう。

 

兄は持てているように見えて、「そろそろ潮時だ」と思い続けているし、性行為をするのもとても機械的で、最後の性行為などはもはや作業です。そんな都会的な生活を、「止めねば」と言いながらも、ちっても止める気がない。

 

妹は学生時代に、大失恋をします。そのときに、深夜二時間にわたってキッチンで泣く(トレンディドラマみたい)妹の手を、何も言わずずっと握っていた兄。それくらいの大失恋を経験して、なにかが吹っ切れてしまったのか、婚約者にはこれほどは思い入れをしていません。反対されても押し切って結婚するという感じがない。「しかたがないんだから、認めてよ、お兄ちゃん」という感情が、兄に対してある。

 

きっと、同世代の若者に対して、村上春樹が抱いていた感情なのでしょうね。

他人が羨むような人生を送っている二人ですが、なんとなく羨ましくない。「中の上の人生」がとてもくだらなく、空疎であるという話である気がしてなりません。時代に乗っただけの、気持ちのない生活が如何にくだらないか、ということが書かれているのが本作品なのでしょう。

人生自体もどこか雑紙かなんかからとってきて、消費する対象になっています。結婚も相手が先ではなく、「玉の輿婚」という結型が型が先に来ている。

主人公がなんとなく抵抗しているのも、ただ性欲に負けているだけでなく、様々な形で押し寄せる常識などの呪縛に対してなのかもしれませんね。

 

この消費する人生、ネットが登場した現代では、その呪縛の強さがはんぱじゃなくなってきています。マッチングアプリでは、異性と出会わなければならない、という型が押しつけられ、Netflixなどでやっているリアリティショーでは、やはり「上昇婚」が常識として扱われています。婚活もそうです。

 

「結婚しない主義」という型も発生しています。相手が先じゃないんですね。パートナーと幸福になるために、「結婚する」のであり、「結婚しない」わけです。形が先なのには違和感を抱きます。もっとも、様々な理由があるのは理解しますが。

 

型を押しつけている方の思考には、「道徳」や「倫理」がベースにあるわけではありません。その根底にはマスメディアが得ていた以上の「稼ぐ」という原理があります。「経済原理」なんて高等なものではなく、下卑た感覚。現代のスノビズムがあるのです。

 

おお。うまくまとまった。