村上春樹「パン屋再襲撃」 | ああ、無情!!masarinの読書ブログ

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これは、1985年に出版された短編集です。

別に短編集の中で同じテーマを持つ主人公を並べる必要はないのだけれど、この物語集には同じテーマを持つ主人公が並びます。そのテーマとはある種の「諦念」である気がします。カジュアルな言い方をすれば、「しかたがない」「やれやれ」という言葉が合う状況です。

 

短編「パン屋再襲撃」は、深夜に空腹に襲われた夫婦がパン屋を襲撃しようと画策し、実行するという話です。

 

この話の主流の読み方は、「学生運動の失敗」とされているようです。

明確に語られているかは不明ですが、村上春樹氏自身が学生運動に参加していたかどうかは不明です。

 

パン屋襲撃の一回目が60年代の学生運動の隠喩であるとされていますが、この襲撃は実際には成功しています。60年代の学生運動は一般的に不成功であったとされています。現実は何も返られていないのです。

 

空腹に耐えかねた当時の友人と主人公はパン屋を襲撃しました。ところが、パン屋の店主は襲撃犯に対して、「ワーグナーを聞けばパンをあげる」と提示されます。襲撃犯たちは「労働するのは嫌だが、それなら」と条件を受け入れ、パンを受け取ったのです。つまり、パンを強奪することに成功したというわけです。

 

ワーグナーは「革命」の隠喩です。それもかなり暴力的な革命を象徴しています。「意識革命」や「平和的な革命」、「HDD革命」などではありません。なぜなら、ヒトラーが好んでプロパガンダに使用した作曲家がワーグナーなのです。

 

1960年代まで続いた学生運動の目的を一言で表すのは難しいですが、「ベトナム戦争に反対する」というのが表向きの趣旨でした。それと同時に「学生の自治」や「社会主義運動」も存在していました。

実際にフランスでは社会主義運動が成功し、社会主義政権が樹立されました。(学生が運動を起こしたときには、社会機能が麻痺し、市民にとても不評でした)日本でも同様の動きがあったかもしれません。「自民党VS社会党」の拮抗体制とされるいわゆる55年体制から、徐々に自民党が勢力を伸ばしていったことを考えると、社会主義運動は失敗したと言えるでしょう。もちろん、ご存じの通り、自民党はしたたかに社会主義的な福祉制度などを導入します。

 

このパン屋襲撃犯は、パンを得ることに成功しています。これが大きな違いです。

なぜパン屋なのかというのが重要なポイントです。妻が言う通り、レストランで欲求を満たすのではなく、パン屋が選ばれたのです。

 

パンを作る職人は労働者です。この労働者は自分でパンを作り、それを売って対価を得ます。これは資本主義でも社会主義でも同じです。しかし、一回目のパン屋の労働者は、襲撃犯と共謀します。共謀して、上述の社会主義と資本主義における労働者の原理を逸脱します。つまりは「革命への逃避」を行っているのです。

 

この「革命への逃避」を経験したことで、主人公は社会的に「まっとう」な道へと戻ることになります。

この「革命への逃避」に主人公が忘れられない快感を与え、その快感は呪いとなります。その呪いから、夫婦で再襲撃を計画してしまうのです。妻からは、そのようなことを言われますね。

 

そして、資本主義の象徴であるマクドナルドに襲撃をかけます。

この襲撃も成功してしまいます。

マクドナルドのハンバーガーを手に入れ、それを食べて物語は終わります。

ただし、今回は共犯者はいませんでした。

 

つまり、再襲撃の時には「革命ねの逃避」は起こらずに、結局は革命は半分しか成功しませんでした。なぜなら、マクドナルドの店員は、いわゆるパン屋の店主のような労働者とは質が違ったからです。もしかすると、マクドナルドの店員は、労働者よりも一段下だということなのかもしれません。彼らは「使い捨て」の存在であり、労働の対価として賃金を受け取っているのではなく、時間を切り売りしているだけだということなのでしょう。

 

この再襲撃の一連は、どこか茶番めいて見えます。襲撃で使用するレミントンショットガンは西部警察の大門が使っていました。ここもちょっと笑ってしまいます。読んでいて、「おお、レミントン」とにやついてしまいました。

 

このお話は、「理想的な革命」と「茶番めいた革命」の二種類を描いているのだと、個人的には考えます。革命への逃避は、すべての人間を解放していますが、茶番めいた革命はただ暴力的なだけで、物理的な空腹(飢餓)を満たす程度の効果しかないということなのでしょう。