短くて読書感想文におすすめの本! 村上春樹「猫を棄てる 父親について語るとき」あらすじ&書評 | ああ、無情!!masarinの読書ブログ

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猫は棄ててない

 

安心してほしいのだが、結局猫は棄てられない。

 

村上春樹が少年だったある日、父親と一緒に猫を棄てに行った。少年と父親は神戸に住んでいて、須磨海岸に猫を棄てることにしたのだ。その頃はわりとみんな安直に猫を棄てていた。まあ、そのずっと後に少年時代を過ごした私にとっても、そんな感じだったと思う。あまり目くじらを立てても仕方が無い。ペットにチップを埋め込むのが義務化されている現代とは隔世の感がある。

 

二匹の猫の意味

 

さて、このお話には2匹の猫が登場する。

一匹はこの棄てられた猫であるが、棄てた海岸から帰ってくると、猫は帰ってきていた。(猫なのだが)キツネにつままれたような感じになる。

もう一匹の猫は、子猫なのだが、春樹少年はとても好きな猫だった。ある日、無理をして木に登って、降りられなくなってしまう。少年はどうしてよいのかわからず放置してしまうのだが、そのままどこかに行ってしまう。

この二匹の猫がなんともこの本で象徴的に扱われる。

はっきり書いてしまうと、この二匹の猫は父親を象徴している。どうして猫を棄てようと思ったのかというと、持て余したからだ。子どもを作ってしまって、「そこまで飼えない」と判断して棄てようと決意する。父親を持て余していたのではなく、父親の人生について持て余していたのである。

 

父と戦争

 

春樹少年の父親は過去、第二次世界大戦中に学徒出陣をする。その時に「南京大虐殺」に父親が関わっていたのではないか、という疑念を持っていた。また、あまり父親と村上春樹は折り合いが良くない。出征中に学問ができなかった父親は、春樹に懸命に学問に打ち込むことを期待していた。それどおりの道を春樹は歩まなかった。春樹は早稲田大学出身なのだが、今の早稲田・慶応と昔の両大学は社会的な位置が異なっている。懸命に学問をしない春樹を、京都大学出身の父親は不満に思っていたのだ。

この父親との関係を持て余していたのだ。

それは棄てた猫のように、春樹を先回りして、ひょこっと現れた。

それは父親の死がきっかけだった。

 

親とは不思議な存在であって、酸いも甘いもすべてが含まって存在している。甘いだけの親、酸いだけの親というのはいないだろう。誰もが親に対して忸怩たる思いがあり、楽しい記憶もある。死んでしまうと、憎んでいたはずなのに、思いとは裏腹に涙してしまう。もちろん、そういう空気であるということもあるが、それ以上の意味合いを含んでいるのである。

 

父親の死をきっかけに、父親の人生について調べた春樹、内面で父親は本当に死んでしまった。特に物書きである春樹にとって、言葉にするというのは供養する、昇華するのと同じ行為だ。消えてしまった子猫のように、言葉にしたために父親は行ってしまったのである。

 

感想

 

さて、父親の顛末は読んで頂くとして。

村上春樹は小説よりも、こういうエッセイというか、随筆のような作品の方が、私の心を捉える。 

自分の親が平凡だと思っていても、誰もがドラマチックな人生を送っているものである。もっとも、自身の親をドラマチックに描くということはしないが。

スッと読めるのでぜひ読んでみてほしい。