2018.04.05
一日一季語 吉原の夜桜(よしはらのよざくら) 【春―行事―晩春】
*吉原の夜桜(名所江戸百景「廓中東雲」)ネットより引用
【正岡子規】
郵便句会「十句集」発足から二年後の明治三十一年四月の題は、「遊廓十句」であった。参加者は子規のほかに渡辺香墨、竹村秋竹、佐藤肋骨、吉野左衛門、大谷繞石、石井露月ら計十六人。幹事は梅沢墨水、高点者は河東碧梧桐と記録にある。
天 吉原の桜に耻ちし白髪かな 香墨
地 花に酔ふて遊女見に行く人数哉 露月
人 繞萍の身は数ならぬ遊女かな 東洋
旅にして妓楼に遊ぶ浴衣哉 子規
子規作の高点句。浴衣の句は香墨の天、秋竹と繞石の人
*北廓月の夜桜(ほっかくつきのよざくら)
正岡子規(1867~1902)が、郵便で回覧する方法で毎月行っていた句会の作品をまとめた冊子「十句集」10冊が見つかった。
見つかった10冊は、子規が所有していたものを、3年前、子規ゆかりの個人が子規の旧宅である東京・根岸の子規庵(あん)の保存会に寄託したもの。冊子は、句会で最高点を得た参加者が所有することになっていた。
句会は十数人から二十数人の規模で、1896年から子規が亡くなる1902年まで毎月行われ、高浜虚子や河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らの弟子も参加していた。参加者は「女」「魚」「土地」などのテーマごとに10句ずつ投稿し、幹事が各句を季節ごとに整理して写した冊子を作成。郵便で一巡させた後、各参加者から送られた選句結果を幹事が改めて朱筆で書き込み、再度郵送して回覧した。
(08年8月13日読売新聞)抜粋
【季語の説明】
遊郭吉原の夜桜見物のこと。その日のためにわざわざ見ごろとなる桜を植え、終われば抜いて、明年、新に植えるという手の込んだものであったいう。
*井上安治「新吉原夜桜景」1880年-画像:東京国立博物館
【例句】
吉原の夜桜なかを通ひけり 野村喜舟
吉原の朧夜桜露もなし 夜桜 正岡子規
吉原や雨の夜桜蛇目傘 夜桜 正岡子規
半玉が燭の心剪る桜かな 夜桜 正岡子規
【吉原の夜桜】
江戸一の歓楽街・吉原では、非日常、夢の世界を演出するために、七夕や月見など様々な年中行事が執り行われました。中でも最も殷賑を極めたのが三月の夜桜。満開の桜の下に山吹を植え、青竹の垣で囲み、提灯でライトアップするという粋な演出でした。実はこの夜桜には驚くべき仕掛けがありました。「江戸遊覧花暦」によれば、「毎年三月朔日より、大門のうち中の町通り、左右を除て中通りへ桜数千本を植る」とあります。つまり、毎年花見の時期に合わせ、わざわざ千本もの桜を移植していたのです。さらに、1ヶ月の花見期間が終ると、花が散った桜をそのままにしておくのは無粋と、全て取り去っています。これを請け負ったのは高田の長右衛門なる植木職人で、費用は150両。現在に換算するとおよそ1500万円!それもそのはず。移植した桜を植え傷みしないよう見事に咲かせるには、相当な技術を要するのです。豪華絢爛、吉原の夜桜は植木職人の技があってこその一大スペクタクルだったのです。
【吉原の夜桜】
今では忘れ去られた桜の名所がある。それが「吉原遊郭」だ。
吉原と一口に言っても、吉原(元吉原)と新吉原がある。
江戸に幕府公認の遊郭「吉原」が誕生したのは、元和3年(1617年)のこと。葦屋町東側隣接地(現在の日本橋人形町2・3丁目辺り)に開設された。当時は湿地帯だったので葦原(よしわら)と名付けられ、その後「吉原」になったといわれている。
幕府が許可を出すときには「傾城(けいせい)町」という名称が使われた。遊女も傾城と呼ばれたりするが、城を傾けるほどお金を使わせるということだ。
その後吉原は発展を続けるが、明暦2年(1656年)に、幕府から浅草にある浅草寺の北側の千束(せんぞく)村に移転を命じられる。その辺りは、当時は浅草田んぼと呼ばれる田園地帯で、そんなに遠くては営業にならないと反対の嘆願を出すものの、明暦3年の大火もあって移転し、「新吉原」が誕生する。
以後約300年、昭和33年(1958年)に廃止されるまで、随一の遊郭として歴史を刻むことになる。
新吉原は、東京ドーム2つ分ほどの広さの長方形の土地で、周囲は黒板塀で取り囲まれ、外に「お歯黒(おはぐろ)どぶ」と呼ぶ堀で囲うようになっていた。そのため、出入り口は「大門(おおもん)」と呼ばれる1カ所だけ。
この大門を入ると「仲ノ町」というメインストリートが、およそ245mの長さで続いている。
旧暦の3月1日(今の3月末ごろ)になると、この仲ノ町の通りの中央に、植木職人が桜の木を持ち込んで植えた。『江戸名所花暦』には、千本植えたと書かれているが、突如、美しい桜並木が出現するのだ。
この時期には、江戸っ子だけでなく、地方からの観光客や参勤交代の武士などが大勢見物に訪れ、葉桜になっても見物客は絶えなかったという。花見の季節が終わると、また別の花を植え、お盆には灯籠(とうろう)を飾りと凝りに凝っていた吉原は、江戸のアミューズメントパークだったのだ。
*明治初期?吉原大門
歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」
吉原の遊郭を舞台にした歌舞伎や落語は多い。それだけ関心が高かったということだ。
しかし、桜といえばやはり「助六由縁江戸桜」(通称:助六)だろう。
ストーリーはシンプルだ。主人公は、吉原一のモテ男だが、あちこちでケンカを売る暴れん坊「花川戸助六」と、その恋人で吉原一の人気を誇る花魁(おいらん)「揚巻(あげまき)」。その二人の恋愛ドラマと、実際に起きた、日本三大仇討ちのひとつである「曽我兄弟の仇討ち」を関連づけた物語だ。
【今日は何の日】
ヘアカットの日
1872(明治5)年のこの日、東京府が女子の断髪禁止令を公布しました。
これに反対した女性たちが、この日をヘアカットの日にしました。
横町の日
「よ(4)こ(5)ちょう」の語呂合せ。
小笠原返還記念日
1968(昭和43)年4月5日。
当時、小笠原諸島の立法、行政、司法権を握っていたアメリカとの間で小笠原返還協定が締結され、同年6月に、日本に復帰されました。
デビューの日
1958(昭和33)年、読売巨人軍の長嶋茂雄がデビューしました。
これにちなんで、その年デビューした新人にエールを送る日。
主な出来事
1722年 オランダ海軍提督ヤコブ・ロッゲフェーンがイースター島を発見
1947年 第一回知事、市長、区、町、村長選挙実施
1955年 英国のチャーチル首相が辞任
1975年 TV番組『秘密戦隊ゴレンジャー』放送開始
1975年 ザ・ピーナッツが引退
1976年 四五天安門事件(北京)
1978年 東京・池袋に「サンシャイン60」完成
1988年 人気ロックバンド「BOOWY」解散
1998年 明石海峡大橋開通
4月5日が誕生日の主な有名人
1916年 グレゴリー・ペック(俳優)
1940年 板東英二(元野球・タレント)
1942年 畠山みどり(歌手)
1943年 ファイティング原田(元プロボクサー)
1946年 吉田拓郎(歌手)
1960年 谷口浩美(マラソン)
1969年 千堂あきほ(女優)
1971年 西川史子(医師・タレント)
以下の図書、ホームページを参考、引用しています。
(合本俳句歳時記 第四版 角川学芸出版)
(カラー図説 日本大歳時記 講談社)
(大人も読みたい こども歳時記 長谷川櫂監修)
( 季語と歳時記の会編著 小学館刊 )
(ウイキペディア)
(575筆まか勢)
(俳句のサロン)
(一般社団法人日本記念日協会)