またまた、長らく間が空いてしまいましたが、戦国期の九州地方のお話の続きを書きたいと思います。
前回までのお話は こちら をご参照ください。
さて、織田信長が中央部を収めようとして、傀儡と化していた事を良しとしない将軍足利義昭の、脱信長に向けた信長包囲網に対して悪戦苦闘していた時期の1570年代前半における九州は
北東部を大友家
北西部を龍造寺家
南部を島津家
という勢力分布になっていました。
そして、前回にも書いた通り信長が何とか中央部を抑えて足利義昭を京より追放した事で、信長の目は南に向き出しました。
しかし、九州へ進行するには、西国の唯である毛利家が手前に控えていて、毛利家との衝突が起きていました。
また、この時期に毛利家を中国地方の唯に押し上げた毛利元就が死去します。
この事で毛利家は九州侵攻を断念して、対信長に専念する事になったのです。
これにより九州地方は、中央勢力から切り離された状況になり、大友家、龍造寺家、島津家による覇権争いが始まり
『九州三国志』
と言われる状況が生まれたのでした。
これまではタイトルの通り、ざっくりとした九州の状況を書いて来ましたが、ここからはあまりざっくりと進めても解りにくいので、九州の覇を競う事になる三家の事を少し書いて行こうと思います。
まずは、この三家の中で一番の新参勢力だった、龍造寺家に付いて書いてみようと思います。
これまでにも書いてきた通り、龍造寺家は、大友家、島津家と違い九州に大きく栄えていた家柄ではありませんでした。
北九州の筑前、肥前は少弐氏という氏族が抑えていた地区でした。
この少弐氏に仕えていた小さな豪族が龍造寺家でした。
この龍造寺家をこの時期に、島津家、大友家と供に覇権争いが出来るまで栄えさせたのは、龍造寺隆信とう武将でした。
この隆信は、祖父と父を主家である少弐氏に謀反の疑いをかけられて殺されてしまいました。
そんな中で、何とか少弐氏の手から、逃げる事が出来た隆信でしたが仏門に入る事になります。
その後に還俗して、龍造寺家の分家を継ぐ事になり、少弐氏との戦において活躍します。
そんな中で本家の当主が亡くなると、その未亡人を強引に娶って龍造寺家の主の座を乗っ取ります。
この乗っ取りに対して、家臣達で従わない者も多くいた為に、当時の九州で大きな勢力を誇った大内家(西国に本拠を持つ)に、援助を求めて強引に家中をまとめました。
しかし、その大内家も内紛により、政(まつりごと)に興味を示さなくなった当主の大内義隆が家臣の諏訪晴賢に討たれました。
この事で大内家は九州を撤退して行く事になり、再び後ろ盾を失い家臣の謀反で一時的に龍造寺家を追われます。
しかし、執念でまたも龍造寺家の当主に返り咲いた隆信は、その勢いから肥前東部を抑えて行きます。
これ以後の龍造寺隆信の躍進は、このシリーズで書いて来ましたので割愛しますが、こうした裏切りと復帰の繰り返しを得て勢力図を広げて行った為に
『肥前の熊』
の異名で皆から恐れられる存在になっていました。
そしてこの過酷な生い立ちから、かなりのイケイケで残忍な性格となり暴君とも言われ出していました。
この強引でイケイケな隆信を支えたのが、従妹でこの時期に龍造寺家の家老職を務めていた鍋島直茂で、彼の人望と隆信の勢いが上手くあいまって、勢力を伸ばし
『九州三国志』
の時期を迎えていたのでした。
鍋島直茂肖像画
しかし『肥前の熊』の暴君振りがこの後に、九州の覇を争う中で、龍造寺家の災いとなって行くのでした。
続きは コチラ