評価は他人がするもの | 戦国好きのアドリブ雑記帳

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戦国ネタ(話)が多いですが、基本は感じたこと雑記した内容です・・はい。

人って無意識に、自己評価をしている物ですよね。



若い人(最近はそうでもないかな?)が、良く口にしている


『私って(俺って)こういう人じゃない』


なんていう様な表現には


『そんなの知らねえよ!』(笑)


っていう感じの突っ込みを入れたくなりますが、これもある意味で他人がそれを受け入れる(理解している)か?


を、無視している自分勝手な発言ではありますが、自分の性格や行いを無意識に自己評価しているという事なのだと思います。



そんな、自己評価という自分の理解は、その内容により


『自分に自信が無い』


『自信家になる』


等の性格を形成しています。



ある程度の自分と言う人間の、指向性や能力を自覚する事は絶対に必要だと思いますが、それを評価として、自分をさげすんだり自信満々になってしまうのは少し問題ですね。



自分を知って、自分の人生を作って行く事はとても大事な事です。



また、自分の指向性を知り、好きな事を突き詰めたり、行動に起こす事も自由だと思います。



けれども、その結果に対して


『自分はこんなに頑張っているのに、周りが認めてくれない』


『自分だけが物事を理解していて、周りの人達は何も解っていない』


『どうせ、自分にこんな事しか出来ないんだ』


なんて、周りに評価されない、周りをバカにする不遜な思考をする、自分を過小評価して決めつけてしまう。



なんていう考えになるのは違いますね。



評価と言うのは自分でするものでは無くて、他人がするものなんです。



こういった発言や思考になる時って、自分の評価を自分でしている時なんですよね。



物事の評価や、その人の行動は、自分の頭の中でだけで理解しないで、俯瞰した所から考えたり、他人が見た意見の方が正しいケースが多いんですね。



先日、前回の記事でご紹介した、串揚げ屋さん『立吉』へある女性と行って食事をしていた時に、こんな話をしました。



少し危ない事をしてしまったり、余り素行の良くない人達と付き合う時に、周りは心配してくれるのだけれども、実は自分は変に自信家な所があり絶対に悪い方へは行かないという気持ちがあるんですよね。



なんていう内容の話をして来ました。



確かにその彼女は、とても聡明で真面目な人でした。



私が、その話の答えとして、少し意地悪な表現で


『でも、少し気を付けた方が良いよ。そういう考え方をする人は、絶対に一定の壁の向こうへは落ちないと本人は思っているんだよね。確かにそういう人は決して壁の向こうへは落ちないのだけれども、周りの環境や状況で、その壁自体の位置が初めは基準値にあるのに、少しずつ悪い方へズレて行き、気付いたら壁からは落ちていないのだけれども、壁自体(行動基準)が相当危ない場所までズレている。なんてケースがあって、本人は「こんなハズじゃなかったのに?」なんてなる事があるからね』


と話したら、直ぐに


『それ解ります』


と賛同してきました。



どうやら、そういう人を見てきたり、自身も過去にそういった立ち位置の変化に気が付いてアレ?と感じてあわてて自分の生活環境を変えたりしてきました事があったようです。



『自分は悪い方に流されたり、壁の向こうへは落ちない』


そういう、自分の中だけの自己評価は危険で、そんな個人の自信は俯瞰してみた場合に危険な状況へかえって自分を導く可能性があるという事を、キチンと理解できる人でした。



自分を知る事はとても大事な事ですが、その知った自分を評価するのは他人の手にゆだねる位の柔軟性が無いと、人生を生きる上では、自身の欠点に対して修正を繰り返しながら、自分の好きな事をして生きて行くのは難しい事なんだな~と、考えているマサ・村田です。




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