セールを、おろす時 | マサミのブログ Road to 42.195km

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この記事はもっと早く書くつもりでしたが、なんとなくタイミングを失って、今ごろになってしまいました。

 

結論から言いますと、私マサミは、ヨットから降ります。1981(昭和56)年から、ブランクを挟みつつ40年以上続けて来たヨットは、引退することに決めました。

 

理由は「(転覆)したフネを起こす体力がなくなった」ということです。

 

 

ヨット(小型ヨット=ディンギー)は、ちょっとしたことで簡単に沈します。上の写真が沈した状態。でも少しも珍しいことではなく、沈したらフネを起こして乗り込んで、また走る。それだけのことです。

 

 

こんなふうに↑沈したフネのセンターボードによじのぼって体重をかければ、フネは起き上がってくれます。しかし、この「沈起こし」が、私にはもう出来なくなってしまいました。海の中から腕力だけでセンターボードによじ登ることが、どう頑張っても出来ないんです。詳しくはこの記事に↓書いた通り。

 

 

去年の9月16日に起きたこの出来事は相当にショックでした。腕力が落ちて来ていることは数年前から実感していましたが、ここまでとは。で、このあと数カ月いろいろ考えましたが、結論として、キッパリ引退を決意した次第です。去年のうちに友人や知り合いには伝えましたし、今年の年賀状でも公表しました。

 

いい機会なので、ここで私とヨットの歩みをまとめておきますね。

 

 

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私が初めてヨットに乗ったのは1980(昭和55)年だったと思います。高校の同級生だったU君が、彼の友だちと共同でヤマハのシカーラというフネを購入し、三浦半島の西岸、相模湾に面した秋谷海岸というところのヨットクラブに保管したんです。何度か乗せてもらい、ヨットの楽しさ、気持ち良さにすっかりハマってしまったのでした。「こんなに気持ちいいものがあるのか!」って言うぐらいの快感でした。

 

 

これが↑U君が購入したヤマハ・シカーラ。大きくて安定していてたくさん人が乗れたので楽しかったです。

 

 

U君のシカーラでティラー(舵)を持たせてもらっている私。いや、持っているというか、図々しくも膝に挟んでいますね。まだ安全に関する認識が甘く、ライフジャケットも着ていません。お恥ずかしい。

 

1980年といえば私は社会人になった年。学生時代から始めたテニスが縁で、春から秋はテニス、冬はスキーで一緒に遊ぶ仲間がたくさん出来ていました。就職してもテニス・スキー活動は続いていたので、社会人2年目となった1981(昭和56)年、私は仲間のなかから二人を選び「ヨット、やってみない?」と声をかけ、3人でヤマハのシーマーチンというフネを共同で買うことにしたのです。

一人は私と幼稚園から中学まで一緒だったY君、もう一人は私と就職先で同期だったI君でした。Y君とI君も、すでにテニスやスキーを通じて互いに顔見知りになっていたので、話は早かったです。私が「ヨット、買わない?」と訊くと二人とも「うん、いいね!」みたいに即決だった記憶があります。根回しとか、何にもなしの直球だったのに。

 

 

 

 

 

はじめはこんなふうに↑、I君の家のガレージにヨットを置き、I君のクルマ、スカイラインジャパンの屋根に積んで海へ向かいました。行き先はやはり秋谷海岸でした。しかし何回か通ううちに「やっぱり決まった置き場所があったほうがいいな」と思うようになり、ヨットの先輩のU君と同じ秋谷海岸のヨットクラブに保管することを決めたのでした。

 

なので、この「カートップ時代」はほんの数カ月しか続きませんでしたが、海に行く前の晩にはY君と私がI君の家に泊めてもらい、ワイワイ合宿するような雰囲気でとても楽しかったことを思い出します。遠足の前の夜みたいにワクワクしちゃって、あんまり眠れなかったけど。

 

時代背景にも、ものすごく恵まれていました。当時はヤマハがヨット事業を拡大する方針を打ち出し、次々といろんなタイプのディンギーを発表していました。同時に全国各地にヨットの保管場所を整備すべく、補助金を出していたのです。

私がフネを置いた場所ももともとは地元の酒屋さんで、空いた土地にヨットを置くラックを建て、更衣室とロッカーとシャワーを設置して「ヨットクラブ」を名乗った商売を始めたばかりでした。細高酒店というお店で「ホソタカ」という屋号で呼ばれていました。今は酒屋さんは畳んで、ヨットのご商売を続けています。

 

ちなみに費用はいくらだったかというと、フネの代金が50万円ちょっと。これを3人で割って、さらに10回払いぐらいの分割にしましたので、社会人になりたての身分でもさほど負担にはなりませんでした。保管料は1年で12万円だったかな?なので月あたり1万円。それも3人で分けましたから、フネの代金の分割払いが終わると、あとは一人あたり月に数千円の負担だけでした。「ヨットって、イメージの割りに安上がりな遊びだよね?」と言いあったものです。

 

 

 

自分のフネを持った、ごく初期の頃の私です。1981~82年ごろかな。さすがにライフジャケットは着るようになりました。

 

 

その数年後。なんかやけに派手ですねぇ(笑) このライジャケは借り物です。

 

こうして3人で一つのフネを共同所有して楽しく海で遊ぶようになりました。私たちがヨットを置くようになる以前から、秋谷海岸はいくつかの大学のヨット部が練習で使っていました。はっきり覚えているのは青山学院大学と学習院大学。あと、どこかの歯科大学?もいたかなぁ。明治大学も近くに合宿所があったので、秋谷の海を走っていたかもしれません。

 

大学のヨット部はヨレヨレのジャージとボロボロのTシャツ姿で、朝から晩までスナイプや470に乗っていました。お昼時にはいったん浜に戻ってきて、マネージャーの女子がリヤカーで運んで来たお弁当を食べます。練習の初めと終わりには砂浜に一列に並び、上級生(OB?)の訓示を直立不動で聴いていました。

そういう姿を見ていると、私は「ヨットって優雅なイメージがあるけど、ヨット部は、いろんな部のなかでいちばん“体育会の雰囲気”があるんじゃないか?」と思ったものです。

 

 

これは↑その当時たまたま撮った1枚ですが、どこかの大学のヨット部が練習の終わりにレスキュー艇をかついで運び上げているところ…かと思います。

 

 

これは同じポイントから撮った一枚。左側にたむろしているのは、フネの片づけを終えて、細高酒店さんのシャワーの順番待ちをしている私の仲間たち。右側の「げんた」は、食堂や雑貨店を兼ねた海の家でした。その後に「赤い帆」という店になり、今では個人の住宅になっています。

 

こういう時間が数年続きましたが、やがて私がヨットに乗るきっかけを作ってくれたU君が経済的な事情でシカーラを手放すことになりました。また私の仲間だったI君も茨城県へ転勤となり、離脱。シーマーチンは私と、すでに結婚していたY君夫妻で保有することになりました。フネの費用は払い終わっていたので、保管料を半分ずつ負担することに決めて。

 

同時に、私はシーマーチンに飽き足らず、もう少し本格的なフネが欲しくなっていました。いろんな友人を海へ誘うことも増えたので、もう1はい別のフネがあるといいなと思ったこともあります。そこで今度は大学の同じゼミで学んだM君に声をかけ、M君と私で新しいフネを買って秋谷に置いたのでした。シーマーチンを買ってから4年後の1985(昭和60)年のことでした。

 

 

それがこのフネ。日本オーデェイ社の「葉山12」です。シーマーチンより小さいのに、スピンネーカーやトラピーズなども備えた本格的な仕様でした。セールがレインボーカラーで、よく目立ちましたね! 金額は忘れましたが、シーマーチンよりは高かったと思います。

 

 

葉山12に乗る私。

 

 

しかしこの葉山12はとても繊細で、扱いにくいフネでした。初心者でも乗りやすいシーマーチンに比べたら、カローラとフェラーリぐらい違ったかもしれない。私のミスもあってトラブルを何度も起こし、2度も遭難騒ぎを起こしてしまったのです。私はもうこのフネは見るのもイヤになり、4シーズン乗ったあとの1989(平成元)年、メーカーに引き取ってもらいました。無償で、です。本当にこのフネには泣かされました。思い出すのもつらくなるほどです。

このフネを作った職人さんが「じゃぁ、うちの息子に乗らせますから」と言って持っていきましたが、どうなったかなぁ。M君はこれで懲りたのか、もう海には戻って来ませんでした。彼には悪いことをしたと思います。

 

こうして、またシーマーチンだけの体制になりましたが、今度はY君夫妻が一家で九州へ転勤になりました。5年後には戻れるという見込みがありましたが、その間は私だけで維持することになったのです。でも独身だったし実家住まいという恵まれた環境だったので、負担には感じませんでした。

 

 

ヨットは風がないと出せません。海へ行ってもボンヤリしているしかない。それが悔しいので、1995(平成7)年にシーカヤックを買いました。当時の勤務先で担当していたクライアントが八丁堀にあり、その近くのアウトドアショップでたまたま見かけて「いいかも!」とひらめいて即決でした。

セールで68,000円だったように覚えていますが、これが大正解!操作も簡単で安定していて、風が無くてフネが出せない時にこれで楽しく遊ぶことが出来ました。

 

さらにその4年後の1999(平成11)年には、また一つ新しい「おもちゃ」が加わりました。

 

 

フランス・ミストラル社製の「ウィンドグライダー」というものです。まぁいわゆる「ウィンドサーフィン」なんですけど、人が乗る部分だけ固いFRPで出来ていて、その周りは空気で膨らますというもの。(上の写真でシーカヤックのパドルを持っているのは、今もテニスに付き合ってくれているH君です)

たしか、たまたま夜中の通販番組で見て「これだ!」とひらめき、横浜の戸部の近くのサーフショップで買ったんだと思います。6万いくらぐらいだったかな。

 

 

H君は先にウィンドサーフィンを始めていて経験があったので、彼に手ほどきしてもらいました。これは↑買って来たその日にH君に教えてもらいながら、なんとかボードの上に立って少し前へ進むようになった私。

 

 

新しいおもちゃに期待が膨らんだんですけど、あまりもセール面積が小さいのと、センターボードも小ぶりで(ノートに挟む下敷きぐらいの大きさのが2枚あるだけ)、うまく走らせるのは難しかったです。少し強風が吹いたらマストがポッキリ折れちゃったし、とにかく作りがチャチで、どうにもなりませんでした。

 

「葉山12」と、この「ウィンドグライダー」はお金をドブに捨てましたね。ウィンドグライダーはずっと倉庫の奥でホコリをかぶっていましたが、ある年の大掃除で処分してしまいました。

 

 

こうして、またシーマーチンとシーカヤックの体制に戻り、いろんな仲間が来ては去り、来ては去りを繰り返しながら21世紀を迎えました。上の写真、自分でも信じられないほど顔がパンパンにまん丸ですね!これは最悪に太っていた頃だと思います。今より15kg以上は太っていたなぁ。

 

そして、ちょっと記憶が曖昧なのですが、たぶん21世紀になってしばらくした頃、いくつかのことがあって、私はいったんヨットから降りることにしたのでした。Y君夫妻にシーマーチンを押し付けるような形になってしまって心苦しかったのですけれど、ヨットどころか、海を見るのもつらい時期があったんです。

 

それからしばらくは海と疎遠になっていました。当時の日記も記録も無く、どういう気持ちで自分が過ごしていたのか分かりません。仕事面でのつらさ、プライベートでの出来事、両親の介護など、いろんなことが一気に押し寄せて来たのかなと思います。

心療内科(精神科)にも通っていたし、もしかしたら「男性更年期」というやつだったのかも知れません。ちょうど50代にさしかかる頃でした。

 

でも2011(平成23)年に長く勤めていた会社を辞めて新しい仕事を見つけ、2014(平成26)年にはわずか3カ月の間に両親が続けて亡くなり、のしかかっていた重荷がスーッと軽くなると、「海に戻りたい」という気持ちが湧いて来たのでした。

 

そして2015(平成27)年、ヤフオクで探すと、かつて乗っていたシーマーチンの一人乗りタイプが出ているのを見つけました。

出品者と連絡を取り、ご自宅のある奥多摩まで行って現物を確認した上で落札!たしか4万円だったと思います。こうして、今度は自分だけのフネを手に入れたのでした。

 

 

これが新しい相棒。ずっと乗っていたのと同じシーマーチンですが、セールが1枚。一人でコントロールできるタイプです。Y君夫妻は当時、別の高性能なタイプのフネに乗り換えていたので、別々の行動となりました。

 

セールが真っ白で綺麗でしょう?30年近い船歴なのに、ちょっと信じられないくらい。あまり乗っていなかったのと、屋内保管だったからでしょうね。これが4万円で手に入ったのはラッキーでした。ただ、奥多摩から秋谷海岸までの運搬をヨット専門の業者さんに頼んだら6万円かかりましたけど(笑)

 

 

ヨット仲間や友人たちが、私の復帰を祝ってBBQ大会を開いてくれました。まぁ、何かというとBBQはやって来たんですけどね。でも嬉しかったなぁ。こんなにみんなが待っていてくれたなんて。

 

 

こうして久しぶりに海へカムバックした私。有難いことに「勘」は鈍っていなくて、今までと同じようなセーリングがすぐに出来ました。ヨット乗りには不可欠なロープワークも思い出せましたし(って、このフネはもやい結びと八の字結びしか使わないんですけどね)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分で言ってはおかしいかも知れませんが、本当に「水を得た魚」でしたね。「ヨットを得たマサミ」とでも言いましょうか爆笑 

給料はガクッと下がったけどストレスのない仕事を見つけたし、両親もなんとか見送ることが出来たし、身体の調子もいいし、幸せな日々でした。

 

 

海に復帰した翌年の2016年には還暦を迎え、10月に秋谷海岸で「還暦祝いBBQ」を開きました。東京都内や静岡、遠くは熊本から!たくさんの方が集まってくれました。裏方で奔走してくれたY君夫妻には頭が上がりません。

ちなみにこの「看板」の意味は…説明するのが大変なので略しますが、サザンファンならニヤリと笑ってもらえるはずです音譜

 

こうして2015、16、17、18と4年間にわたって「第二のヨットライフ」的な日々を楽しみました。特に事故もなく、それはそれは楽しい毎日でしたが、60歳を超えたこともあって「いつまでヨットを続けるんだ?」と自問するようにもなって行きました。

そして…この辺も自分の気持ちをうまく説明できないのですが、2019(令和元)年の夏、私は二度目のヨット引退を考えたのです。「もう、この辺でいいよね」と思ったのでしょうか。

 

 

 

2019(令和元)年8月のお盆の頃だったと思います。フネを手に入れた時と同じようにヤフオクに出品してみたところ、落札してくれる人が現れ、4年ちょっと乗ったシーマーチンは貰われていきました。

富士五湖のひとつ、本栖湖の湖畔に別荘を持っている方でしたが、「初心者なので乗りに来て教えてください」とのことだったので、9月にお邪魔してきました。上の写真は、フネを取りに来て頂き、無事に引き渡した場面。

 

 

これが本栖湖にお邪魔してのセーリング風景。私の生涯で最初で最後の「湖」でのセーリングでした。まわりがぐるっと山に囲まれているのは不思議な感じでしたが、走りにくくはなかったです。でもWSFはたくさんいるのにヨットはこのフネしかいないのが寂しかったかな。

 

本栖湖にはこの日以来行っていませんが、どうなっていますかねぇ。「いつでも乗りに来てください、大歓迎です」と言ってくれていたのですけど。

 

2019年は、たしか1回乗っただけでフネを譲ってしまったので「今シーズンで最後だなぁ」という余韻を味わう時間が無かったせいか、自分のフネが無くなってみると、無性に寂しくなってしまいました。

海が見える場所へ行くと「ああ、俺にはもう、この海に出て行く方法が無いんだ…」と思うと、とてつもない無力感に襲われてしまい、悲しくてたまりません。大げさでなく、胸をかきむしりたくなるほどの喪失感がありました。

 

そういうようなわけで、「もうヨットは本当に引退」と決意したそのわずか半年後、同じ秋谷海岸でずっと長くヨットをやっていて顔見知りだったグループのメンバーに会って頭を下げ、仲間に入ることを了解してもらいました。

一時はかなりの人数がいたグループでしたが、近年は数人しか集まらず、フネはレーザーとシーマーチンの2はい保有しているのに片方しか出せない日も多く、私が役に立てる面もあったんです。

 

 

 

こうして、2019年に自分のフネを譲った翌年、私は「2度目のカムバック」を果たしたのでした。私が仲間に入れてもらったグループは、上の写真の手前の青いシーマーチンと、後方の黄色いレーザーを持っています。シーマーチンは2人乗り、レーザーは1人乗りなので、私も入れて3人いれば両方、出せるようになりました。

 

面白いことに、青いシーマーチンは、私がY君、I君と3人で初めて買った赤いシーマーチンとまったく同じタイプなんです。だから懐かしかったし、フィッティング(艤装=組み立て方)も覚えているし、とても不思議な、タイムマシンに乗って過去が現在になったような気分でした。自分が過去に戻ったのでなく、過去が向こうから現在にやって来たような感覚だったなぁ。

 

 

 

前の年まで乗っていた時と同じ格好なので、パッと見、変わり映えがしませんね。ライフジャケットを替えればよかった。黒とか。

 

 

ハル(船体)の色が白→青に変わったのが見分けるコツです合格

 

 

面白いですね。こうしてみると、私は40年以上にわたって「赤いシーマーチン」→「白いシーマーチン」→「青いシーマーチン」と乗り継いで来たことになります。トリコロールフランスじゃん。イイネ! 

 

こうして二度目のカムバックから3度目のヨットライフを楽しむことが出来るようになり、2020、21、22、23と4年にわたって良い仲間と過ごしてきたのですが、2023年の9月16日、上に挙げたような事態となり、引退を決意したのでした。

 

一気に引退しないでも…とは、少し思ったんです。自分がスキッパー(艇長)として責任を持って舵を握るのでなく、安心して任せられる仲間に舵を託して、自分はクルー(補助要員)として乗ればいいんじゃないかと。そう提案してくれる人もいましたし、それもアリだな~と思ったこともありましたが、考えた末、半端なことはするまい。スッパリ諦めよう!と決めました。

 

今の仲間も、引退を理解してくれた上で「乗りたい時が来たら、いつでも乗ってください。会費のこととか、考えなくていいですから」と、温かい言葉をかけてくれています。本当に有難い限りです。もったいないくらいです。

 

 

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というわけで、私のヨットライフは終わりを迎えました。大きな事故も小さな事故もあり、大学のヨット部や近くを走っていたモーターボート、漁船に助けられたり、仲間が救助に来てくれたりなどなど、危機一髪な場面は何度もありました。でも結果的に、取り返しのつかない悲劇は起こさずにすみました。運が良かっただけだと思います。本当に自分はツイていました。海の神様に感謝です。

 

もちろん多くの素敵な、勇気ある仲間たちのサポートがあったおかげでもあります。手先が不器用でロープワークも下手くそな私がこれだけ長くヨットに親しんで来れたのも彼らのおかげです。特に私と同時にヨットを初め、今でも夫婦でレーシングディンギーに乗り続けているY君夫妻には最大の感謝を贈ります。

 

で、ヨットは降りますが、海が嫌いになったわけではないので、これからも何とかして海と仲良くしていきたいと思っています。その方法もいくつか考え中。

このブログも、海、海岸、砂浜、渚、波、波打ち際、潮風、波音、海岸線…なんていう言葉が頻出する、私らしい雰囲気のブログであり続けたいと願っていますので、どうか引き続きご愛顧くださいますよう、お願い致します。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。ラストに、ヨットを通じて友好を深めることの出来たたくさんの、数えきれない素晴らしい友人たちの写真をあげておきますね。みんな、本当にありがとう!