能登半島に光を。 | マサミのブログ Road to 42.195km

マサミのブログ Road to 42.195km

走る・観る・聴く・読む・歩く・食べる・楽しむブログ

今から49年前の1975(昭和50)年の9月、大学1年生だった私は夏休みを利用して、能登半島1周の旅行をしました。高校時代の同級生だったO君、H君との3人連れです。言い出したのはO君。なぜ能登半島1周なのか?その理由とか、まったく思い出せません。宿の手配とか回るコースとか、すべてO君にお任せでした。

 

1泊目が金沢、2泊目が輪島、3泊目が和倉温泉だったと思います。金沢までは電車。そこから能登半島をバスでぐるっと回り、確か最後は岐阜羽島まで来て新幹線で帰ったのでした。

 

私が育った家では家族旅行というものをしませんでした。父方の親戚がある山形県へ一度、母方の親戚がいた茨城県へ二度ほど、私が幼い頃に行っただけ。これは旅行ではないですよね。なので考えたら、この時が私にとっては生れて初めての「旅行らしい旅行」だったと思います。その時のネガを探し出して来ました。

 

 

2日目、輪島駅前でのO君。(数日後に消すので写真にはモザイク無しにしますね)

 

 

これも輪島駅前だったと思います。19歳のワタクシ。高校時代から写真は好きで、この時も父から譲ってもらったペンタックスの一眼レフを持って行ったはずです。でもカラーフィルムはDPEが高いので、もっぱらモノクロフィルムでした。

 

 

輪島の朝市。こんなふうに、道端に新聞紙を広げた上に野菜を並べただけで商売をしているお婆さんも、普通にいた記憶があります。

 

 

同じく朝市。何か買ったんだったかなぁ?

 

 

朝市をやっている通りからちょっと横を向くと、すぐそこに岸壁。そして海でした。

 

 

確かここが輪島で泊った民宿…かな? 朝市の通りのすぐ近くだったような。

 

輪島では朝市で少し時間を過ごして、すぐバスに乗って移動したと思います。とにかく能登半島内の移動はすべてバスで、ひたすら海沿いの道を走る旅でした。

 

 

H君とO君。H君とは会わなくなりましたが、O君とはその後もテニスやスキーで一緒に遊び、いまだに半年に一度は高校時代の仲間数人で集まっています。

 

 

 

 

 

記憶に残っているのは、能登半島を左回りにぐるっと1周しましたから、進行方向の右側はずーーーーーっと海。反対に左側はずーーーーーーーーーっと山なんです。山というか崖のような感じ。その崖の斜面にへばりつくようにポツンポツンと家が建っていました。

 

失礼な言い方になってしまいますが、横浜のような大きな街で生まれて育った私には、「いやぁ、よくこういう所に住めるなぁ…俺には無理だわ」というのが第一印象でした。

 

そういう景色が、2日目も3日も、延々と続くんです。その中をバスに揺られながら走っていると、私の心境に少し変化が起きたことをハッキリ覚えています。「人間って、いくら不便でも、生まれて育った土地を簡単には離れられないものなんだな」ということ。19歳の私にとっては人生上の大きな発見の一つでした。

 

ちょうどパール・バックの『大地』という作品を読んでいる途中だったことも影響していたかも知れません。『大地』って、中国に住む貧しい農民が懸命に働いて少しずつ土地を買っていって…という物語で、ノーベル文学賞を受賞しています。タイトル通り、「土地と人間の結びつきの強さ」が心に響く小説でした。

 

 

そして3泊4日の旅でいちばん印象に残っているのがここ。確か輪島から和倉温泉に向かう途中だったと思いますが、「白米千枚田(しろよねせんまいだ)」。写真は借り物です。ここでバスガイドさんが説明してくれた話、いまだに鮮明に覚えています。

 

「昔々ある時、お殿様がこの千枚田を見物にやって来ました。そして『本当に田んぼが千枚あるのか、数えてみよ』と、家来に言いつけて数えさせました。ところが、何度数えても999枚しかないのです。あと1枚がどうしても見つからない。するとお殿様は怒って『なんだ、千枚田というのはウソではないか。けしからん。もう帰る!』と言って、立ち上がりました。すると…お殿様が座っていたお尻の下に、最後の1枚の田んぼがあったのです」

 

いやぁ、私はこういう小咄が昔から大好きでしたね。面白い話は一発で覚えてしまうんです。この話も49年前にたった一度聴いただけですが、深く心に刻まれています。

 

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

その後、金沢には仕事で何度か訪れましたが、能登半島の先っぽの方へは一度もお邪魔する機会がありませんでした。でも輪島の古い町並みや、延々と続く海沿いの道は、半世紀が過ぎた今でもしっかり目の奥に焼き付いています。

 

あの輪島の町が…海岸線を走る道路が…むごいほど破壊されてしまった映像を見るたびに胸が痛みます。日本海に突き出した半島という地形ならではの被害の過酷さが、時間を追うにつれて分かって来ますね。

 

被害に遭われた皆さんには心からお見舞い申し上げます。何も出来なくてもどかしいし心苦しいのですが、ささやかながら、いま用意できる範囲で義援金をお届けしました。今はまだ「復興」なんて言うのは早すぎますよね。可能な限り早く、一人でも多くの人に、温かい食べ物と落ち着ける環境が用意されますように。この冬が少しでも暖冬傾向であるよう、祈るばかりです。