幸田露伴『努力論』より「序」 | まさきせいの奇縁まんだらだら

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原因不明の「声が出ない症候群」に見舞われ、声の仕事ができない中で、人と出会い、本と出会い、言葉と出会い、不思議と出会い…

瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』というご本を真似て、私の「ご縁」を書いてみようと思います。

なんとなくブログの続きにストップがかかってる感じなので、ミキサーからの勧めもあり、数年前に書いた『努力論』の超超超訳とでもいうべき「『努力論』より」を載せることにした。

これは私が、上智大学の教授であられた故渡部昇一さん編述の『人生、報われる生き方(三笠書房)』という本に出会ったことから始まった。

三軒茶屋のブックオフで、適当に選んだ10冊ほどの中に含まれていた1冊で、しばらく読まないで積んであったのだが、何気なく開いてみると、幸田露伴の『努力論』を現代語に訳したというか、渡辺さんのまえがきによると編述だそうで、どうあれ私には目から鱗なことばかりだった。


まえがきによると、「この名著を現代の読者に読みやすい形にして、『努力論』のエッセンスを若い読者にも伝えておきたいと思うようになった」そうだ。実は私も、同じことを考えた。

全く恐れ多いことだが、まさしく私のような愚か者路線を歩んできた輩にこそ、必要な内容だと思った。それもできるだけ若い内、10代後半から20代で出会えれば、ラッキーこの上ないのではないか?

幸田露伴が『努力論』を書いたのは明治時代の終わり頃で、初出からすでに115年くらい経ってると思うが、岩波文庫版も1940年が初版で80年は前なので、それから何度か改訂され、その時代の人が読めるように配慮がなされている。

しかし、私が持っているのは2001年改訂の恐らく最新版だが、正直読めない。

それで渡辺昇一さんが現代語訳されたわけだけど、渡辺先生のご本さえ、本をよく読む習性を持つ私世代が、かろうじて理解できるレベルの高尚な言葉が多く、20代の頃の私に読めたかどうか疑わしい。正直、今でもわからない言葉があるし、調べても出てこないような単語は原文のままのことも多い。

そこで、いっそ思い切りカンタンにリライトして、音読してYouTubeで公開しよう!と思い立った。YouTubeなら、本を読まない人のところにも届くんじゃないかって思ったんだ。私の声も、まだ出ていた頃のこと。声が出せなくなってきたところで、本文の方も止まっている。

だから、耳で聞いてわかるレベルの日本語、現代語になっていると思う。今回は、当時長さを調整して端折った部分も、あらためて書き足した。

渡辺先生のご本を参考に意味を確認しながら、2001年版岩波文庫「幸田露伴『努力論』」から直接構成している。

誰かの何か思うきっかけになれば幸いだ。

まずは「初刊自序」から。

岩波文庫「努力は一である。しかしこれを察すれば、おのずからにして二種あるを観る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。」

渡辺昇一「努力には二種類あって、一つは「直接の努力」で、もう一つは「間接の努力」である。」


まさきせい

「幸田露伴『努力論』より」

はじめに。

一言に努力と言っても、努力には二種類ある。ひとつは、「直接の努力」で、願望を叶えるために、そのことに向かってひたすらがんばること。もうひとつは「間接の努力」で、一見そのことには関係が無さそうに思えても、実は、自分の基本レベルを上げるというような準備の努力で、才能の基礎となり、源泉となるものである。

私たちはよく、どうせ努力したってダメだ、努力なんて無駄なだけ、と決めつけて、最初からあきらめてしまうことがある。だけどそんなことは、本当は誰にもわからない。やってみなければわからないことを、やらないで決めつけてしまわない方がいい。

本来、努力とは、やりたいと思うからやれるものであって、努力したくない願望は、だいたい本望じゃないことが多い。無理矢理に努力しても、続かないから成功するのは難しい。だから、努力できることを、努力すればいい。

少しでも努力すれば、結果となって現れることは誰でも経験があるだろう。最初の頃は少しの努力で、見違えるように上達したりするものだ。

でも時にいい結果ばかりでなく、思ったより難しいとか、うまくいかないと思い知らされることもある。それは、努力の方向が悪いか、または「間接の努力」が足りてないということで、がむしゃらに「直接の努力」ばかりをがんばっても、いい結果は期待できない。

そもそも、キュウリのツルに茄子を成らそうというような、無理な願望に努力するのは、努力の方向が悪いのでやめた方がいい。

いくらがんばっても努力の甲斐が見えない時は、「間接の努力」に目を向けてみるべきだ。

方向が悪いことはそうそう無いが、間接の努力が欠けている場合は多い。

特に、音楽や美術など芸術は、がむしゃらに「直接の努力」ばかりしても、いい作品は生まれない。机に向かって方法論ばかり勉強しても、キャンバス上で色を探して絵の具をこねくり回したり、カラオケボックスで歌いたいように歌うばかりでは、人を感動させるような作品を生み出すのは難しい。

自分自身が、絵や美しい風景を見たり、美しい音楽や自然の音を聞いたりして感動することが重要で、料理にダンス、音楽に宇宙、他にも全く関係無い業界で働くとか、知らない土地へ旅するなどといった、遠く離れた分野の知識や経験が生きてくる場合もある。「間接の努力」とは、人生で体験できること全てだったりする。

そういう意味では、本で知識を得たり、学校で勉強するといったことは価値が低いように思われる。それで、そんな努力はしたくないと、そういった勉強努力を一切しない人もいる。

確かに、たいした努力も無しにすごい作品を突然発表する人もいるのだから、努力が万能とは言わない。インドの言い伝えにあるように、天才の頭には芸術の神様・伎芸天が生まれつき宿っていて、眠っている間に作品イメージがどんどん湧き出してくるのかもしれない。

それに、ガンガン努力すれば必ずいい結果が得られるというなら、この世は成功者であふれかえっているはずだが、実際はそうでもない。芸術のみならず、スポーツの世界では、よく目の当たりにする現実だ。

だからといって、努力してもしょうがない、という理由にはならないし、余計に間接の努力の重要性が増してくる。

例えば芸術なら、自身のタレントプロデュース、つまり「自分らしさの確立」、世に知られ「時代に求められること」、感覚を研ぎ澄まし「身のうちに感性をみなぎらせること」、思う通りに表現でき「オリジナルを産み出せる創造性」・・・

そんな高みを目指すには、直接の努力ばかりでは到達できないということだ。

また、「いい商品さえ作れば」とか「実力さえあれば」というのは直接の努力の結果だが、どんなに素晴らしい商品でも、天才的な実力があっても、それだけで確実に売れるわけではない。いい商品も実力も、営業努力なくして世に出たためしはない。

SNSで口コミを広めたり、YouTubeで先に自分自身が有名になるなんてことも、自分を高めるより売る為の努力だから直接の努力と思うかもしれないが、これだってれっきとした間接の努力だ。

会社員で上を目指そうとするなら、上司へのゴマスリだって、自分を認めてもらう為の手段として、立派な間接の努力だろう。

だが、どんなに営業やゴマスリをがんばって売れても、商品や自分が良くなければ、結局は飽きられてしまうし、メッキははげてしまう。間接の努力だけでは、よほどの天才でない限り難しい。やはり直接の努力で技術や知識を磨くことは必要だ。

つまり、直接の努力だけでも、間接の努力だけでもいけないということだ。

だいたい人は努力したい生き物であり、たとえ成功に結びつかなかったとしても、いろいろな体験をすることによって、人生を実りあるものにしてくれる。

人は、生きている限り、自然に努力している。それを嫌がる必要はないし、努力がかっこ悪いなんてことは、絶対にない。努力できるなら、した方がいいし、努力はできる者勝ちなのだ。死ぬ頃には、もう努力をしたくなくなる。努力は、生きている証でもある。

努力は素晴らしい。でも努力するということは、自分の中に、自分の思う通りでない部分があって、それを思う通りにしようと鞭で脅して従わせるようなものだから、人としては不純なようにも思える。

努力している、努力しようとしている、ということを感じないで、自然と努力してしまっている状態が、幸せな努力のしかた、醍醐味である。「努力して努力する」というのは、あんまり楽しくない。「努力を忘れて努力する」というのがいい。

しかし、その境地に至るには、努力すること自体が楽しいとか、この道こそ人生と他一切をあきらめるとか、なにかしらの決心がいる。そうでないと、「努力して努力する」時間が長く続いてしまい、人生をあまり楽しめない。

この本では、そういった境地に至る方法は、説いていない。
内容として、「運命と努力」「自分を新しくする」「福の増やし方」「成功する為の事」「地球との関係」「気について」というようなことを紹介している。

努力に関することが多いから『努力論』と題した。

幸田露伴『努力論』より 構成:まさきせい


※幸田露伴著『努力論』(岩波文庫)を元に、現代語訳と意訳の間くらいで構成しました。

『努力論』を元にしていますが、ほぼ全編、私の言葉に置き換わっています。具体例のほとんどは私のオリジナルで、意に沿わないとすれば、私の読み違いです。また現代の状況に合わせて私見も加えています。

『努力論』ではない、と思っていただいてもかまいませんが、私の完全なオリジナルでもありません。

ご了承ください。