努力論2 祝!『ONE PIECE』1000回 『努力論』より「運命と努力」 | まさきせいの奇縁まんだらだら

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原因不明の「声が出ない症候群」に見舞われ、声の仕事ができない中で、人と出会い、本と出会い、言葉と出会い、不思議と出会い…

瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』というご本を真似て、私の「ご縁」を書いてみようと思います。

『ONE PIECE』が1000回記念で、ワノ国編が見放題になったので一気見した。有料でもそろそろ見ようと思ってたので、ラッキーこの上ない。

あらためて、『ONE PIECE』1000回おめでとうございます!

ルフィたちとの再会は、何も変わること無くただただ懐かしかった。
1000回は見ている側の記録でもあるから、見始めた頃のことなども思い出したんだ。

オープニングが「ウイアー」だったから、もちろん一緒に歌った。本心では、ずっとこの曲だったらいいのにな~と思う。

さて、『努力論』だが、次をすぐアップできるかと思っていたら、いろいろお仕事をいただいて、宅録でナレーションもした。声が思うようにならず苦しかったけど、久しぶりにナレーターとして原稿に向き合った。

感謝しかない。古P兼D、ありがとうございました!

『努力論』も書き直そうとして止まっていた部分があったが、『ONE PIECE』のおかげでうまく繋がった。

本家の『努力論』には、絶対無い具体例だけど、直訳したってつまらないもんね。わかりやすくなれば、その方がいいと私は思ってるので、あえてこうした。

少々長いので、上下構成にしようか迷ったけど、原本では一遍なので、『ONE PIECE』にちなんで、ひとつながりにした。
 

。。。。。

幸田露伴『努力論』 第1章「運命と努力」(原題:運命と人力と)

『運命』というものは、あるのだろうか。そしてそれは、生まれながらに決まっているものなのか。

もし本当に運命というものがあるのなら、個人や組織に限らず、この世界全てが運命に支配されているわけで、どこかに運命帳のようなものがあって、それに従って全てが動いているということだ。

しかし、昔の英雄や豪傑は言ったものだ。

「我は運命に支配されるを好まず、我が運命を支配すべきのみ」

頂点に立つ者なら、造物主が絶対権を持つように、自分の人生は自分が造るべきものだ。うまくいかないのは、自分の力が足りないからで、運命のせいだと言って弱音をはくのは、ダメな凡人のやることだ。

これは、困難を前にして、自身を鼓舞するという意味合いもあっただろう。

そもそも英雄になろうとするなら、このくらいの気概が無ければダメだよね。

海賊王になると宣言して海に出たルフィも、有言実行して火影になったナルトも、わざわざ自分から困難な目に遭いにいき、生死を賭けるほどの努力や粘り強さで乗り越えてきた。『ONE PIECE』や『NARUTO』は創作だけど、現実でも困難を乗り越える為の努力や粘りは自分次第。耐えきれなくて止めるのは自分の選択だ。

彼らは決して運命だからとあきらめない。勝つことだけを選択した者が頂点に立つということだ。

そんなリーダーだからこそ、人がついてくる。生死を賭けた戦いに、運頼みの大将では自分の命を預けるに忍びない。

サラリーマンだって生活がかかっているとすれば、会社は生死を賭けた戦場(いくさば)に違いない。


世間では、誕生日や血液型、また顔の骨格や手のしわを見て、運命を論じる占いが大人気だが、それをそのまま鵜呑みにして、自分の不運や不幸せは生まれた時から決まっているから仕方ない、と思い込んでいるとすれば、それこそ悲しむべき不幸である。

なぜなら、そういう悲観的な考えこそが、不運を招き、幸運を遠ざけるものだからだ。占いについての是非はともかく、そういうことで悩んだり、苦しんだりするのは時間の無駄だ。

2000年以上も昔、中国の思想家である「荀子」という人の『荀子非相』という本の中で、人相手相と運命は関係しない、と書いてある。また漢の時代に、「王充」という人が書いた『論衡』という本の中には、生年月日と運命は関係しないとある。

易発祥の地であり、日常的に風水が採り込まれているような中国において、「運命は決まっている」という思想に屈服しなかった荀子や王充のような人がいたというのは、素晴らしく頼もしい。それなのに現代人が運命を決まっているものと考えるのは、情けなく残念である。顔は似ていても考え方は違うし、大災害に遭った人が全員同じ生年月日という訳もない。

どうあれ、運命前提論など受け入れたくないというのが、人の自然な感情だろう。しかし本当は、運命というものがあって、人は運命に支配されているのかもしれない。それでもやはり、運命に支配されるよりは、運命を支配したいと考える。

その証拠に、人は古今の東西を問わず、自分のがんばりで困難に打ち勝ち、事を成し遂げる話が大好きだ。日本の漫画やアニメが世界中で人気なのも、そういった側面からかもしれない。

正義(主人公)が勝ち、努力は実を結ぶ。主人公は修行してどんどん強くなり、巨悪に打ち勝ったり、優勝したり、リーガエスパニョーラで活躍したりする。

誰にだってチャンスはある。だったら何も好き好んで、自分はダメだ、なんて思わなくていい。ただちに、自分の道を進み、運命を切り開いていくべきだ。これを英雄的気性といい、運命に立ち向かい事を成し遂げた人を「英雄」という。

日本には二次元的英雄が大勢いる。是非、三次元英雄も増えて欲しいものだ。


もし運命というものが無いならば、人の未来は全て数学的に測ることができ、さざんが9、ごご25となるように、明白に、今日の行為をもって、明日の結果を知ることができるはずだ。

しかし、人間関係は複雑で、世相は様々だから、同じ行為が同じ結果を生むとは限らない。そこでまた運命という大きな力に翻弄されているような気分になる。

ある人は運命の女神に微笑まれ、ある人は運命に虐待されているように見えることがある。自分一人を考えてみても、順風満帆でなんでもうまくいく時と、逆風で進めなかったり、失敗ばかりが続いてしまう時がある。これを運命と捉えて、運命とは、人間が逆らうことのできない大いなる力として、私たちの心に固定観念として刻まれているのである。

ところが、世の中をよく見てみると、成功者の多くは、自分の意思を通し、智恵を使い、よく考えよく勉強し、人への親切や思いやりなど徳の力によって、いい結果を得たと信じており、逆に失敗者は、運命に負けた、という人が多いようだ。

つまり、成功者は自己の力で成功したと解釈し、失敗者は運命の力に負けたと解釈している。これは、どちらが正しいか正しくないかはわからないが、どちらも実感していることには違いない。

成功者には自己の力が大きく見え、失敗者には運命の力が大きく見えた、ということだろう。これはまさしく、どちらの考え方も半分ずつ真実で、両方を合わせると本当の真実となる、ということではないだろうか。

つまり、運命というものは存在していて、人間を幸不幸にしているが、個人の力も確かにあって、やはり人間を幸不幸にしている。ただ、成功者は運命の側を忘れ、失敗者は個人の力を忘れて、それぞれ一方しか見ていないということだろう。

例えば、二人の受験生がいるとしよう。二人は試験会場に向かって、同じ電車に乗っている。ところが電車がトラブルで止まってしまった。二人とも別ルートを使って開始時間には間に合ったが、試験の結果は、一人は合格で、一人は不合格だった。

合格者は事前にいくつかの行き方を探って複数のルートを知っていたので、たいしたトラブルとも思わず、余裕で試験を受けることができた。不合格者は一般的な行き方しか知らなかったので、違うルートを探すのに手間取り、ぎりぎり間に合ったが、焦って回答欄を間違えたことに気づかなかった。

合格者は、たいしたトラブルと思ってないから、一生懸命勉強したことによる自分自身の努力のたまものと考え、不合格者はたまたまのトラブルに、運が悪かったと考えたとしよう。これはどちらも本心からの感想であって、どちらが正しいということは言えない。天運も実際にあり、個人の力も実際にあったのだ。

ただ合格者は運命とは考えず、自分の努力が実を結んだと思い、不合格者は自分の準備不足を棚に上げて、運命を呪っているに過ぎない。


運命というものに何かの法則があるとするなら、その原則を知って幸運を招き不運を遠ざけたいというのは、誰でも思うことだろう。そこで易者や人相見や占い師の登場となるが、彼らが語るスピリチュアルについて論ずるのは、とりあえずやめておこう。私たちはあくまでも、誰もが納得できる理知の言葉を使って明らかにすべきである。

運命の法則は運命のみが知っている。しかし運命と人力との関係は、私たちも知ることができる、と理知は教えてくれる。

運命とは何か。時計の針の進行がすなわち運命である。一時の次に二時が来て、二時の次に三時、四時五時六時となり、七時八時九時十時となる。このようにして一日が終わり新しい一日が来る。月が変わり、季節が変わって、一年が終わり新しい一年が始まる。人が生まれ人が死に、地球ができて地球が壊れる。これがすなわち、運命だ。

世界や国家や団体や個人にとっての幸運や不運というのは、実はそんな運命の小さな一部分であって、それに対して人間のそれぞれが、自分の思惑に沿うか沿わないかということで評価しているに過ぎない。

私たちはすでに、幸運・不運というのを見たり感じたことがあって、できる限り幸運は招き寄せたいし、不運は遠ざけたいというのは、当然の欲望だ。そこでもし運命を引き動かす綱があるなら、自分の力でその綱を引いて幸運を引き寄せればいい。

努力と幸運は結びつけたいけど、不運とは結びつけたくないというのが、誰もが思うことだろう。

世の中をよく見れば、参考になる教えがあちこちにある。失敗者を見、成功者を見、幸福な人、不幸な人を見、そして誰がどんな綱をつかんで幸運を引き寄せ、誰がどうして不運を引き寄せたのかをよく観察すれば、一大教訓を得ることができる。

幸運の綱は引き寄せた者の手を血で赤く染め、不運の綱はすべすべと手に優しく柔らかい。

すなわち、幸運を引き出す人は常に自分をいじめ、手のひらから赤い血を滴らせながら、その痛みに耐えて、その綱を引き動かして、ついには幸運の神を招き寄せるのだ。

何事によらず自身にきびしく、全ての良くないことや失敗の原因は自分にあるとして、決して部下を責めず、友達を責めず、人を咎めず、運命を呪わず、ただ自分の手のひらの皮が薄く、腕の力が足りないから、幸運を招き寄せる能力が無いと考えて、どんなに辛くても、とにかく努力するしかないとがんばる。成功者と言われる人は、こういう経験をしている人が多い。

自分を責めるということほど、自分の欠陥を補うのに効果のあることはなく、欠陥を補っていくほどに、成功者の資格を得ることができるというのは明白な道理だ。

また、自分を責めることほど人の同情をひくことはなく、人から同情されればされるほど自身の事業は成功に近づく。

前にあげた不合格者が、運が悪かったと運命を恨むより、自分が甘かったと考え、自分の智恵が足りず、不測の事態に備えていなかったと反省して、次回にその経験をいかせば、次は余裕で合格するかもしれない。

偉人伝を読めば、偉人と言われる人たちが、失敗した時に責めるのは常に自分であって、決して人を責めず、運命や何かを恨むような人でないことがわかる。

人気の漫画やアニメでは、主人公が負けた時に責めるのは常に自分の弱さであって、決して人を責めず、運命だとあきらめたり、何かに責任転嫁することはない。

逆に、不祥事を起こした人の言い分を聞くと、自分は悪くなくて、悪いのは自分をこんな目に遭わせた他人、と思う心の強い人であることがわかる。

漫画やアニメの負けた敵キャラの多くは、武器や装備が悪かったと、負けた原因を自分以外に探す。

だけど負けを認め、さらに精進して再戦すればライバルキャラに昇進する。

不運を引き寄せる人は、常に自分を責めないで、他人を責め恨むものだ。そして、自分の手が傷つかないように手触りのいい柔らかい綱を手にして、いとも簡単に醜悪な不運の神を引き寄せている。

手のひらから血を流すか、なめらかで柔らかいものだけを握るか。この2つは明らかに人力と運命の関係の良し悪しを示している。どちらの運命を引き寄せたいか、しっかりと考えるべきである。


まさきせい 「幸田露伴『努力論』~運命と人力と、より」