先日、久しぶりにテレビを見たら、知ってる名前と、なんとなく覚えのある面影が映って驚いた。
松本亜樹子さん、不妊治療支援団体「NPO法人Fine」理事長として、国の支援方針が固まったというのを受けて、コメントしていた。
若い頃、よく司会やレポーター、ナレコンなどの仕事でご一緒した。
私が起業してからは、出演者としてご協力をいただいた。
私生活でもいろいろ相談に乗ってもらえる美しく頼もしい、少し先輩だったと思う。
今も美しさは変わらず、より知的に素敵に活躍されている。
当時も少しだけ、不妊治療のお話は聞いていた。彼女は、それをそのままにせず、立ち上がったのだ。
なんと素晴らしい方だろう。共に過ごした日々を誇りに思う。
次は私が協力する番だ。その為にも、早く身を立てないと。
さて『努力論』だが、私自身書いていて、全く耳が痛い。
けど、こうして古い友人がリアルに出世している。
私もしっかりしなきゃいけないね。
今回は短編になる。音読の為のリライトをした時は、後の方に一緒にしようと飛ばした2ページ分だが、あらためて読んでみて浮かんできたことがあったので、ここ数日で書いた。
原本については、後の章で露伴本人も書いているように、現代の教育は素晴らしく、内容が少し的外れになっているように思う。『努力論』が発表されてから100年以上が経って、露伴の教えがずいぶん実践されたことの結果かもしれない。ので、思い切って全く違う形にリライトした。
私が考えたというよりは、頭に浮かんできたことをそのまま文章にしただけだが、私の経験上の私見によるところが大きいので、気になる方は、岩波文庫の『努力論』を読んで欲しい。私のは深読みという感じだ。
まあだいたい、こんなことが書いてあると納得していただければ幸いだが、全然違うだろ、という場合は、別物として捉えてください。
取り入れる入れないは自由なので、悪しからず。
幸田露伴『努力論』より 第2章「お仕事的「悟り」のきっかけ」(着手の処(ところ))
人それぞれに夢があり、目標ややりたいことがあるだろう。
アイドル声優になりたい。
国際線のパイロットになりたい。
大リーガーになりたい。
起業して大金持ちになりたい。
アフリカで動物保護をしたい。
投資家で楽したい。
ゲームデザイナーになりたい。
営業成績をあげて社長になりたい。
医者になって貢献したい。
イケメンと玉の輿結婚したい。
夢や目標があれば、その大小遠近を問わず、ゴール目指して突き進めばいいのだけど、何から始めれば良いかわからなかったりする。
それで、とりあえず学校に行ってみる。パイロットや医療関係は、専門の学校を卒業しないと免許が取れないので、これは必須。行けなければ始まらない。
そこでは、仕事ができる状態の専門家に仕立てて、社会に送り出してくれる。卒業すれば即戦力として、すぐに実際の現場で揉まれることとなり、これこそ真の意味で養成所と言えるだろう。
他に養成所と名の付く学校は数多く存在するが、それらのほとんどはただ知識や技術を教えるのみという習得スクールだ。
こういったスクールは、具体的な方法や、場所や機材を提供してくれるにすぎない。ただ、起業するとかチームを作るとかなら、仲間と出会えるというメリットがある。
ではこれらは、何のためにある学校か。
アイドルや声優の事務所付属の養成所は、才能ある少年少女をふるいにかけ、一人二人のスターを見つける為の機関だ。事務所が養成したいのは天才的なスターだけ。
ITなど情報系スクール、音楽やダンスなどの教室、経営や投資などのセミナーは、すでに習得した技術をお金に換えたい人たちが講師となってお金を稼ぐ場だ。もちろん後進を育てたいという高邁な精神を持つ人も多いだろうが、優秀な講師ほど本心から育てたいのは、1言って10理解する、いや12できてしまう天才だ。
だから、学校に入ったからと行って、そのまま安穏とレールに乗っていても、ほとんどの場合、終点で降ろされて終わり。
専門の大学や学校も、良くて資格が取れて修了ということだ。
ちゃんと勉強はしたから、どこかで生かせると思っているかもしれない。だけど、残念ながらそれは無い。こういった学校でやる授業のほとんどは、天才なら生かすことができる技術の習得や訓練であって、凡人には使いこなせないものだ。逆を言えば、生かせないから凡人なのだ。
学校には、自分の知らない事を学びに行く。新しい、特に自分が目指す分野のことは、興味深く耳に入ってくる。
ところが、耳には入ってくるものの、それを理解できる能力がなければ、そのまま素通りして抜けていく。いわゆるカゴ耳と言うやつだ。
ほとんどの学校が、誰にも理解できるようには教えていないので、つまり理解できる一握りの天才しか、それを役立てることができない。天才のための、というのはそういうことだ。
では、凡人には望みが無いのか?
そうじゃない。そもそも、天才の為の教え方だから、凡人向きじゃないというだけだ。
肝心は、自分の目標は何なのかとはっきり見定め、そこに到達する為に、どんな知識や技術が必要か、教わった内容や今ある技術をどう生かせばいいか、自分をよく知り、よく考えて試行錯誤することだ。
そうすればいつの間にか、凡人から天才に変わっていることもある。
医大や航空大が狭き門なのは、一人一人を丁寧に養成するためだ。少数精鋭で、一人の落ちこぼれも出ないようにというのが理想だろう。
逆に、アイドルや声優の養成所は、できるだけ多くをふるいにかけたいから、多人数を集める。だから入るのはそう難しくないが、修了したからといって、どうにかなる保証は無い。
しかし学校は、自分に足りないことを見つけられるチャンスの場でもある。優秀な人と自分を比べて、自分は何がダメなのか、何が足りないのか、実感することができる。
講師も指摘してくれるかもしれない。ならばまずは、そこを徹底的に追求してみればいい。
「自分が学ばなければならないこと」は、それを「自分が学ばなければならない」と自分自身がわからなければ、習得することのできないものだ。
それにはまず、自分が天才ではないと知ることだ。
その知識や技術は、何のためのものか、何のために必要なのか、どんな場面で使えるのか。
天才は無意識に理解して自分のものにしてしまう。凡人にも、それを技術としてうまくこなせる人は多いが、何のためのことか理解していないから、応用が利かず、次に生かすことができないのだ。
それでもその道に進み、何年も経った頃、学校で教わったことを思い出し、ああ、そういうことだったのか、と後になって理解したりする。あの時は自分が理解できるレベルになかったのだ、ということがわかる。
それがわかる人は、その時点ではもうとっくに天才になっている。ほとんどの人はそれさえ気づかず、自分には才能が無かったとか、いい学校じゃなかったとか、自分本位に考えるのみだろう。
天才とは、「天の叡智」とつながり、考えが自然に湧いて、自分がすでに持っている知識や技術を応用できる人のことだ。または足りないと気づき、その部分を強化できる人だ。
なんでも事を始めるに当たっては、この「天の叡智」と繋がる為のきっかけを見つけなければいけない。
そのきっかけに導いてくれる入り口を「着手の処(ところ)」と呼ぶことにしよう。
「着手の処」とは、文字通り「最初に手を着ける処」という意味だが、漠然と始めてもモノにはならないので、それこそ、天才へのドアにたどり着ける正しい「着手の処」でなければならない。
それは、一人一人違っているから、まずはそれを見つけることだ。凡人の自分ではなかなかわからないから、これこそ学校の講師や先輩や、または先人たちの本などから、話を聞き、教えを請い、参考にしてみれば、そしてあれこれ試行錯誤しているうちに、自分にとっての「着手の処」にたどり着けるかもしれない。
学校では、習得させたい知識や技術だけを教える。個人個人の素質は考慮しないし、どういう場面で使うかなどは、自分で考えなさいということだ。
講師が授業で話すことは、天才にしか理解できないのだから、天才でない凡人は、それが理解できるようになる為に、自分にとっての「着手の処」を、自分自身で見つけないといけない。
学校でも仕事場でも、講師や上司から指示されたことをただやるだけでは、いつまでたっても上達せず、気の利かない役立たずのままだ。
その本質を理解してなければ、モノや場面が変われば生かすことはできない。つまり応用が利かないのは、その技術や知識が、自分のものになっていないことが原因だ。
「着手の処」とは、それを自分のものにする為のとっかかり、ということだ。
だから、特に学校では、それをすれば何に役立つのか、何のためのことか、など不明があれば自分から聞くべきだし、仕事場なら、本来は指示者がそのことをわかって、指示内容とともに伝えなければいけない。全体像がわかることで、期待以上の働きをする部下だっているはずだ。部下が思い通りに動かないのは、指示の出し方が悪いのだ。
あなたが部下で上司に恵まれないならば、自分がダメな上司を追い抜く覚悟を決めればいい。
「着手の処」が見つかれば、目から鱗がどんどんと落ちていき、あなたの世界は変わるだろう。
あなただって天才と同じ、この世界に肉体を授かったのだから、あなたにできないはずはない。あなたは天才になるのが遅れているだけだから、さっさと着手の処を見つけて、天才になるべきだ。
まさきせい 「幸田露伴『努力論』~着手の処、より~」