『私のきっかけ体験s(「着手の処」補足)』  | まさきせいの奇縁まんだらだら

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原因不明の「声が出ない症候群」に見舞われ、声の仕事ができない中で、人と出会い、本と出会い、言葉と出会い、不思議と出会い…

瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』というご本を真似て、私の「ご縁」を書いてみようと思います。

それにしても、久しぶりにたまたま着けたテレビで、古い知人と会えるとは、天に発破をかけられたかな?

さて、『努力論』前回の「着手の処」の補足として、私の実体験を書いてみる。自分でも不思議と思ってるので、不思議まんだらにした。

。。。。。

それまでずっと、私は本物のおバカだった。

大学を卒業してバカとは言いにくいが、そういう学力系ではなく(いや、勉強はキライで、学力も無かったが)、「生きる」ということに、とんでもなく無頓着だったんだ。

食事は、お腹が空くから食べるんだと思っていたし、肉体が食べ物からできているなんて、考えもしなかった。生きているから自然に存在してるんだと思ってた。

私は死なないし、不幸にも遭わない。根拠の全く無い万能感を持って、やりたくないことはできるだけやらず、流れのままに生きていた。

仕事も遊びもスポーツも、できるからやれる、できないものは私には縁の無いもので、努力してやれるようになるなんて考えは、1ミリもなかった。

さすがに仕事では上を目指そうと高望みしたが、難しいとスグあきらめて、その結果会社を作ってやらなくていいようにしたのだから、潔いと言えば聞こえはいいが、努力したくなかったというのが正直なところ。

そんな私が、30代前半ころ、ひきこもりになって、どんどん下を向いていって、下を向きすぎて、ついに自分の中に落ちてしまった。

ああ、このまま消滅するのかな、と思っていたら、その先に扉のようなものがあって、そこが開いたら、宇宙空間が広がっていた。

そっからね、「考え」が声のように聞こえてきたんだ。ああ、宇宙の叡智ってヤツかなって思ったけど、その時だけで、以降、声として聞こえることは無いから、それが何だったかはわからない。

でもその時に、目が開いたというか、自分が無知だってことに気づいたんだ。

私はもともと無知だったけど、自分が無知だって知らなかった。

無知だって思ってないから、食事が必要な理由を考えないし、私にはなんでもわかるし、できると思ってた。とにかく自分に都合のいいように考えてたというか、辻褄を合わせてたように思う。

ところが気づいてしまったんだ、無知だって。

それ以来、胃の上あたりが宇宙に開いてる感じで、ぐるんとひっくり返せば周りが宇宙、みたいな?

自分でも何書いてんだ?って感じだけど、まあそれ以来、ずっと宇宙と繋がってて、なんかいろいろインストールされてくるというか。自分じゃとても考えないような文章とか書けちゃったりして、『努力論』も、書けてる第4章まで読み返したら、なんか立派。

そんなだから、降りてこないと書けなくて、今のところ途中で止まってるけど、まあ書ける時、書けるとこまで、ということで。

で、「着手の処」だけど、これは私自身が、40才直前に入学した声優スクールで杉山佳寿子先生に師事した「メソッド演技法」がきっかけで、「演技ってこういうことか」ってわかった経験が元になってる。

私はそれまで、頭でセリフをイメージして喋ってたんだ。ナレーターだったからね。

だけどセリフはナレーションとは違ってた。

セリフって全身で喋るんだってわかったんだ。

説明するのが難しいのだけど、ある劇団では「胸が開く」って表現してるらしいし、「心の窓が開く」って言う人もいる。

とにかく、これが開くことが、役者としての第一歩なんだそうな。

開けば自分でわかると思う。生まれながらの天才は、最初から開いてるってことかもね。


もひとつ、私がナレーションがわかった瞬間。こちらは24~5才の頃で、当時所属していた事務所の方針でアナウンスアカデミーに通わされたことがあった。

仕事(現場)帰りに行きたくないし、今さら勉強なんて面倒だし、自費だしで、ホント渋々、結局6回か9回のコースで2~3回行ったきりだったんだけど、

その中で、不意に聞こえてきた講師の一言がきっかけで、「あ!」って気づいた。

「自分の言葉で喋る」

誰もわかってるようで、案外わかってないように思うんだけど、実はこの頃、私は原稿とはどう読むのが最適か迷い始めていて、この時ナレーターとしての正解を得た。

作るんじゃなく、自分の言葉でいいんじゃん。

その後、スタジオのナレーターに転身できたのは、このおかげに他ならない。

セリフがナレーションと同じと思ってたのは、ナレーションもセリフも私自身の言葉だから。けど、ちょっと違ってたね。これについては機会があれば。

「着手の処」って、こういうことかなって思ってる。

私にとってのナレーションとセリフが違うように、全てのことにおいて、そして人それぞれに、みんな違うと思うから、その人にとって何がきっかけになるかわからないけど、

演技では「メソッド演技法」が、その為のことだって言われていて、取り入れてる演劇集団や養成所も多いんじゃないかな。

この「メソッド」は、ある意味、芝居用に心を作る為の訓練なので、どうしても精神が不安定になってしまうようで、賛否両論ある。

これも私の経験だが、『カッコウの巣の上で』という劇に、「ラチェッド」という大役をいただいて出演した時のこと。もう15年近く前になる。

私にとって初めての本格的な演劇で、舞台用の動きが身についてない私が、いきなりの大役で、共演者にずいぶん反感を買われたのだけど、役どころの印象もあったと思う。

『カッコウの巣の上で』は、ジャックニコルソン主演でアカデミー賞を受賞した映画として有名だ。この映画で主演女優賞を受賞したルイーズフレッチャーの役が「ラチェッド」という精神病院の看護師長で、ラストで主役マクマーフィーをロボトミー手術によって廃人にしてしまうという役どころ。

もちろん自分で手を下す訳じゃないけど、芝居ではラチェッドの決断によって手術が行われることになるので、その決断に至る過程が不自然じゃいけない。

私は、ロボトミー手術とは殺人と同義と考えて、つまりラチェッドは殺人を選択しないといけないので、そこまでの憎しみを増長させる為には、とにかく相手をとことん嫌いになる必要がある。

ところが、その共演者は、演出家が、その人がいるからこの芝居を選んだという程の魅力的な座長俳優で、惹かれることはあっても、理由も無しに嫌いになることができない。ましてや、その人を憎み殺すなんてことは、私にはとてもできないことだった。

私の中では、マクマーフィーを殺す=その俳優を殺す、なので、ものすごい葛藤が起こって、稽古の合間に何度もトイレで泣いた。

殺したくないのに殺さないといけない。
この人を殺したくない。
でも私が殺さなければいけない。
死なせたくないよお・・・

本当に死なすわけじゃないのに、バカじゃない?って思うかもしれないけど、役作りに慣れてない私は、「メソッド演技法」でつかんだやり方に従い、とにかくラチェッドの心にならなきゃ役に入れないって思ったんだ。

人気者の座長をそんな風にする私は、他共演者やスタッフさんから見れば、憎むべき対象だったんだろうな。「役になりきってたことの証拠だよ」って言ってくれる人もいてありがたかったが、もう舞台演劇はまっぴらゴメンと、それ以来観ることさえしていない。

でもこの経験こそ、私にとってはトラウマになりそうな体験だったけど、役者としては重要なことだったんだ。

「役になる」という感覚。

役になれてこそ役者、と考えれば、これが、私が役者になれたきっかけだった。

役になるって、自分の心を殺すことなんだなって。このラチェッドという役でなければつかめなかっただろうし、この体験が無ければ、今もまだつかめないままかもしれない。

恐ろしいよね。自分とは違う人になるんだもん。舞台なら区切りがつくけど、映画やドラマはそうはいかない。役によっては自分と役の境目があいまいになってしまいそうだ。

俳優って、こういう仕事だからしょうがないとは思うけど、実は『カッコウ』後、まだかなり不安定な時期に、こういうケアが必要じゃないかって、ある大手芸能プロダクションのプロデューサーの友人にメールで詰め寄ったんだ。

たぶん、かなり泣きが入ってたし、壊れておかしくなったと思われたかもしれない。実際おかしかったしね。返信は無く、以来、音信不通。

役者じゃないとわからない感覚だろうし、役者主導でやるしかないんだろうな。


以上が私の体験だけど、こんな役者修業のような、精神を壊すような修行ばかりでは無いにしても、どんな業界のどんな仕事でも、大成するには何かしらの努力は必要。

「コツをつかむ」とか「目から鱗が落ちる」とか、表現はいろいろあるけど、行き着く先はだいたい同じじゃないかな。

「コツをつかむ」のは、「少しずつわかってくる」。
「目から鱗」は、「突然ひらめく」。

「目から鱗」だって、実は少しずつわかるようになってきてるのに自分が気づいてないだけかもしれない。

どちらにしても、きっかけに到達するための入り口ややり方を間違えないようにしないといけないわけだ。

仮に、俳優になりたい2人がいて、一人は感受性が強い感性タイプ、一人は鈍感タイプだとすれば、感性タイプが「メソッド」のような強制的に心をコントロールする訓練をすれば、精神に異常を来してしまう可能性があるし、

鈍感タイプが、場面を想定して演じる「エチュード」の訓練ばかりでは、場面が違うだけで同じことの繰り返しなので、上達するまでに何年もかかるだろう。

感性タイプは指導者が見極めてあげなければいけないし、自分が鈍感タイプと思えば、自分から刺激に挑戦してみればいいんじゃないかな。

何がきっかけで開眼するかわからないから、やりたいってちょっとでも思えば、なんにでも手を出してみればいいと思う。

いずれにしても、自分のものにできるように、努力は大事。
「直接の努力」と「間接の努力」だね。