努力論3 『努力論』より 第3章「新しい自分になる方法(上)」(自己の革新) | まさきせいの奇縁まんだらだら

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原因不明の「声が出ない症候群」に見舞われ、声の仕事ができない中で、人と出会い、本と出会い、言葉と出会い、不思議と出会い…

瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』というご本を真似て、私の「ご縁」を書いてみようと思います。

三が日中にアップしようと思ってたのに、直しを入れていたら今日になってしまった。でもちょうど年始にぴったりの内容なので、松の内ということで、あけましておめでとうございます。

全く、私自身のことで、本当に耳が痛い。これを最初に読んで以来、少しは変われたと思うが、さて。

長いので上下2回に分けた。あらためて読んでみると、原本、参考本と見比べて、本当に私自身が書いたのか?と思うばかり。誰かが私を使って伝えようとしているんだろうな。

目鱗間違い無しなので、是非ご一読くださいまし。


幸田露伴『努力論』より 第3章「新しい自分になる方法」(自己の革新)



年をひとつの区切りで考えると、元旦に始まり、大晦日で終わる。大晦日には一年の総決算をやって、年が明ければ、新たなる一年に願いを託し、一年を暮らして、また大晦日を迎える。

年の初めに計画を立てて、年末に振り返るのは、古い時代からなされてきた自然な習慣だが、多くの人が「今年こそ!」と年初に思い、毎年同じような一年を繰り返している。

一歩の前進も無く、毎年同じような場所に立っているのでは情けない。それではまるで、何度も同じ芝居を繰り返す舞台公演中の俳優のようだ。

とはいうものの、それではどうすればいいのだろうか。

自分が俳優で、舞台の再演があると仮定しよう。同じステージで同じ役であれば、前回の芝居の繰り返しになっても仕方ない。では確実に違う芝居をするには、どうなればいいのだろうか。

そう。役が変われば、芝居は絶対に変わる。

人生のステージにおいても、同じことが言える。少しでも違う場所に立ちたいと思うなら、自分が変わればいい。新しい自分になればいいのだ。

同じ貨幣は、同じ価値を持っている。100円玉は、去年もおととしも100円で、おそらく来年も100円だろう。100円だから、100円の価値がある。人間も同じで、去年やおととしと同一の自分であれば、今年受け取れる運命は、やはり去年やおととしと同一のものとなる。つまり、新しい自分が造り出されない限り、新しい運命は手に入らない。同一の自分は、同一の状態を繰り返すだけなのだ。

それどころか、貨幣は物価の上昇にともない、その価値を下げていく。人間も同じで、気付いたら何も得られないまま年老いていた・・・なんてことになりかねない。

とはいえ、変わりたいとは思っていても、簡単には変われない。変わる努力はしているのに変われないから、毎年同じことを繰り返してしまう。

なぜ、努力しても変われないのか。

決して、何かが邪魔してるとか、運命だからとかではなく、多くの人は新しい自分を造ることに適さないやり方で、試行錯誤ばかりしているのではないだろうか。つまり、やり方が間違っているということだ。

では、いったいどうすれば新しい自分になれるのだろう。

まずやり方として、道は二つある。自力でがんばるか、他力を頼るか。

ここに、一つの石がある。それは硬い硬い石、例えばダイヤモンドで、これまで自然の中で、割れもせず削られもせず、一切変わることなく長い年月を繰り返してきた。この石に新しい運命を与えようとするなら、この石を新しく生まれ変わらせればいい。磨いて輝かせれば、高価なアクセサリーとして大切にされるだろう。石は自分で自分を磨くことはできないから、これは他力によって自分を新しくし、新しい運命を手に入れるという一例だ。

またここに、弁護士を目指す人がいて、何度も何度も司法試験にチャレンジしては失敗していた。今のままでは、自分はいつまでたってもダメだと悟り、一念発起して猛勉強し、みごと司法試験に合格した。自力で自分を新しくした、ということだ。

自力で自分を新しくできれば、人に頼ることなく気が楽なので、自力でなんとかしようという人が多いと思うが、それで毎年同じことを繰り返しているのなら、結局自力では難しいということだろう。そう自覚するならば、他力を頼ることを厭わない方がいい。

うまく成功している人や尊敬できる人、自分が目指す場所の近くにいる人など、しっかり自分の足で立っている人を見極め、その人に寄り添いその人の為に働けば、これまでと違う生き方を体験できる。

その人に身を寄せ心を託して、その人の役に立ち、その人の運命を共に歩むということだ。

ここで最も重要なことは、他力によって新しい自分を造る為には、自分はその人の一部分でしかない、ということをしっかり認識することだ。

まず対等では無いという意識を持つこと。その人が本体であり、自分は第2第3の手や足だ。常に一歩引いてその人を観る、という謙虚な心が重要だ。

自分がその人の手足となり、または脳や目や耳として、その人の為にすることは、全て自分の為でもあると常に感じながら、その人と共に発達し進歩することによって、その人の運命の分け前をもらい、それによって自分も道を得ていく。

実際に、さほど能力があるとも思えなかった人が、他力を経て、能力のある人になり頭角を現すという事例は多い。その頃にはすでに、成功して不思議は無いという風格さえ身につけている。大人物に身を寄せたことにより、新しい自分ができあがり、新しい運命を手に入れたのだ。

だから、張り合って自分の考えを主張し反論したり、自分の知恵でやり方を変えてみたりしては、台無しだ。自分とは違うやり方や考え方に倣うというのが肝なのだ。

また、その人を信じ切れず、目先の小さな利益にとらわれて、別の良さそうな方に誘われてしまえば、もうその道からは外れたも同然。それが本当に良い道ならいいが、悪い道なら目も当てられない。

他人によって、自分を新しくしようとするなら、昨日までの自分は、きっぱりと捨ててしまうこと。人に頼って新しい自分になろうと思いながら、自分は昨日のままの感情や習慣を守って、自分の意見を認めてもらおうとするのは矛盾しているし、結局、衝突し反発するのでは大変に迷惑だ。認めてもらえないという思いで、自分も傷ついてしまう。自分を捨てる覚悟が無いなら、人を頼ろうなんて思ってはいけない。

自分の考えや能力が信じられる人は、なかなか他人を認めることができず、何かと反発し、つい反論したくなるだろう。そういう人は、「他人に頼る」ことは考えないで、信念に基づいて、独立してがんばればいい。それが例え、茨の道であったとしても、自分が捨てられないのなら、しょうがない。

また柔らかい樹木なら矯正できるが、化石ではどうにもできない。中には、化石のような自己の人がいて、他人を頼っているつもりでも、実は自分を固く守ってしまっていることがある。もし、化石的自己を持っていると自覚するなら、人を頼ることはあきらめた方がいい。どんな教えやアドバイスも、見る目聞く耳がなければ、また自分を変える勇気がないなら、意味はない。

自分が薔薇で、薔薇のプライドを捨てたくないなら、蘭の講座に参加しても、得るものは少ない。青色の自分が、赤色になりたいと思えば、青色のままでは赤には染まれない。

もし、藤の木に生まれたなら、竹に交じってどんなに努力しても、真っ直ぐ上に伸びるようには生えられない。一方ヨモギは、真っ直ぐ生える麻に交じって育てば、上向きに真っ直ぐ伸びる。

ヨモギ的自己の人は、優れた人達に交じって、自己を捨て、自分がそうありたいと思う人に従って、その人の為に働き、いずれそのポジションを継ぐ存在になるということもあり得るだろう。これは、合理的で賢い選択とも言える。

藤の木的自己の人は、運命を受け入れ、自分らしい道を見つけるしかないが、赤くなりたい青色の人も、まず無色にならなければ、きれいな赤にはなれない。蘭の生き方を取り入れたいなら、薔薇のプライドは邪魔なだけだ。

他力によって新しい自分を造るには、他人の考え方や常識の中に自分を投げ入れ、その考えや常識を受け入れ認めることが、何より重要だ。その世界では、これまでの人生で得た知恵や知識はいったん頭の奥にしまい、まっさらの状態で臨むこと。

自分を良く見せようと余計な知識をさらしたり、何より知ったかぶりや反論はするべきじゃない。

しかし、中には、どうしても自己を捨て切れない人がいる。また藤の木的運命の人もいる。そういう人は、自力でなんとかするしかない。他力を頼るのは、飛び込んでさえしまえば、後は人につき従うだけだから、ある意味簡単とも言えるが、自力で変えようとするのは、とんでもなく難しい。何故かといえば、

そもそも、これまでの自分がダメだから新しく造ろうというのに、それを造るのが、そのダメな自分だからだ。

それで、同じ毎年を繰り返してしまう人が多い訳だが、しかし、自力で前進しようという心意気は、讃えられるべき気概でもある。失敗ばかりでも、結果が良くなくても、逃げずあきらめず、信念を貫いて進めば、ひと月ならひと月分、1年なら1年分、目標に近づく。どんなにのろい馬だって、前に歩けば、前に進むのだ。

自分で自分を新しくする、ということは、言い換えれば、自分個人の理想を実現しようとする努力であるが、実際にはそれはその人だけのことではなく、そういう高邁な努力があってこそ、世の中が進歩するのであって、実に社会全体にとっても大切なことなのだ。

自分で新しくなろうと努力する人が少なくなれば、国は老境に入ったということだ。現状に満足するということは、進歩の途絶を意味する。

現状に不満で、未来を良くするために自分を新しくするという意思が強烈ならば、すなわちそれが、人間として生を受けたことの理由に他ならない。

自分を良くしたいと考える生き物は、地球上に人間だけなのだ。

 

(下に続く)