努力論3 『努力論』より 第3章「新しい自分になる方法(下)」(自己の革新) | まさきせいの奇縁まんだらだら

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原因不明の「声が出ない症候群」に見舞われ、声の仕事ができない中で、人と出会い、本と出会い、言葉と出会い、不思議と出会い…

瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』というご本を真似て、私の「ご縁」を書いてみようと思います。

最近めっきり本を読まなくなった。小説もノンフィクションもエッセイも、全く興味が湧かない。本屋にはそれでも月1~2回は行って、何か出会いがないかとサーチするのだけど、目に付くのは静岡ローカルな喫茶店とかグルメとか。

ここ1年で買った本は、アニメージュやニュータイプなどアニメ月刊誌やレイルマガジンなど鉄道本、『はたらく細胞図鑑』『ゆるキャン△ムック』『アニメディスクガイド』など、仕事の資料用がほとんどで、だいたい写真やイラストがメインの雑誌が多い。

他は、『東海日帰りハイキング』や『近場で日帰り温泉』、『スキレットレシピ』『日本の仏教』、『バンクシー作品集』・・・

文字系で、ブルーバックス『我々はなぜ我々だけなのか』、クーリエ・ジャポン編『変貌する未来』、『オードリー・タン天才IT相7つの顔』『世界最高の話し方』などビジネス書などもそれなりに買ったが、ほとんど読めていない。

かつて本が無ければ生きられないとさえ思っていた本の虫の私が、信じられない。

小説は一冊も買ってないが、母から何冊か借りたのでなんとか読んだが、「読もう」と努力しなければ読めない。話がつまらない訳じゃない。読む速さは変わらず、読み始めればあっという間だが、全く読みたい気が起こらない。

だからか、このブログ用に文章を書いて、メールを2~3通も書けば、もう脳内は真っ白で、全く文章が浮かばない。人と喋ることも、挨拶やルーティンな会話はできても、世間話では言葉も満足に浮かばない。頭が真っ白になって口ごもってしまう。

以前から、なぜみんなはメールがすぐ返せるのか不思議だったが、同じように、かつてのペラペラ喋っていた自分が信じられない。

これも新しい自分ということなんだろか?勝手に変わった場合、他力だろうか?自力だろうか?

思い当たるのは、断捨離。

確かに、流れを「変えたい」と思っていたら、身体が勝手に動いて断捨離が始まったんだ。

自力な気はしないけど、客観的に見れば自力だろうな。


幸田露伴『努力論』より 第3章「新しい自分になる方法」(自己の革新)



他力に頼って自分を新しくするにしても、自分の明確な信念に基づいていればこそで、他力を頼る中には、やはり自力の働きがある。自力で自分を新しくするにしても、自分を省みる知恵は、参考書やテレビなど外から得た賜物なのだから、自力による中にも他力の働きがある。自力他力といって、厳正にしっかり区別するのは難しい。

他力だろうが、自力だろうが、さて、どうすれば自分を新しくすることができるだろうか。できれば、過った方向へ向かって遠回りすることなく、やり方も間違わないで、正しい道を進みたい。ずいぶん行った所で、また一から出直しなんてことはしたくない。

自分を新しくするための一番の工夫は、新しくしたいと思う自分の古い部分を、ばっさりと斬って捨てて、一切を無くしてしまうことである。

例えば、雑草が茂っている畑で、新しく野菜を育てようと考えても、雑草の一部でも残っていれば、野菜に交じって、雑草もまた伸びてくる。やがて、雑草の方が勢いを増し、いい成果は期待できない。いい野菜を収穫したければ、雑草は根こそぎ取り去ってしまわなければならないのだ。

新しい自分になろうとするなら、古いものは敵である。自分らしさ、と自分では思っている部分も見直して、「古いものはなんでも敵」だと捉えよう。古いものを残したままで、新しい自分になることはできない。

子供の頃からの習慣や、いつの間にか染み込んでいる考え方や思想など、それでこれまで生きてこられた訳だから、棄てろと言われて、そう簡単に棄てられるものではないが、これまでの自分ではない自分になろうという以上は、習慣でも思想でも何でも、悪い古いものは全て棄てる必要がある。

前に何か残っていれば、次の新しいものは登場できない。乳歯を抜いてやらなければ、永久歯はまっすぐ出てこられないのだ。

去年の自分は、新しくなる自分の敵、くらいに考える。何を斬って棄てなければならないかは、人によって違っているが、どの部分を斬るべきかは、当人である自分が、一番よく知っている。例えて言うなら、不健康な人が、その原因である不摂生を、よく承知しているようなものだ。

また、健康になろうと思って、いきなり運動をしてみても、よけい不健康が進むばかりでいいことはなく、健康になろうと思えば、先にその原因である不摂生を取り除かなければ、身体に負担がかかるばかりだ。

先に挙げた畑では、雑草を抜かなくてもその分肥料を多く与えれば、野菜だって育つだろう、というような理屈は、理屈としては成り立つけれど、この場合正しいとか正しくないとかいう問題ではない。

これまでと変わらない習慣で生活をしていれば、身体が変わらないのはあたりまえ。健康になりたいと思えば、または理想のプロポーションを手に入れたければ、不健康な生活や習慣や甘い考えを、仇敵と捉えて斬り棄ててしまうがいい。

これまでと反対の結果が欲しければ、これまでと反対の原因を作らなければならないのだ。

飲み過ぎ食べ過ぎで胃病を患い、薬を飲んで、治ればまた飲みよく食べ、また胃が痛くなって、ああ、自分は胃が弱い、などと思い込んでいる人も少なくない。飲み過ぎ食べ過ぎと胃薬の両方を無くしてしまえば、胃は自然と健康を取り戻す。

胃が悪いと言っている人の多くは、貪食家か、乱食家か、間食家か、大酒呑みか、鈍感食いか、座ってばかりいる人で、そういった悪癖を自己弁護することは、雑草を抜かなくても肥料を多くすれば支障は無い、と言う理屈と似たようなもので、もし本当に、自分を健康にしたいと思うのなら、昨日の自分に媚びることなく、昨日までの自分とは決別しなければならないのだ。

不健康な人が、口臭や体臭が気になると言って歯磨き粉や石けんを変えてみたり、肌荒れを気にしてサプリメントやドリンク剤に頼っているのは、それこそが不健康の極みで、それよりも、酒を減らし、たばこをやめるとか、食を変え不規則な生活を見直し、睡眠を改善するとか、電車では座らないとか、車をやめて歩くとかした方が、よほど早く健康に近づき、悩みの解決に繋がるものだ。

生活や習慣は昨日のままで、明日からは違う日々が得られるなんて、都合のいい話があるはずがない。貪食家なら量を減らし、乱食家ならムラ食いを改め、間食家ならおやつを斬って棄てるがいい。大酒飲みは徳利と絶交し、鈍感食いはもったいないを考え直し、座ってばかりは寿命が縮まることを知って、座るより立つ方を選ぼう。

カフェイン好きは、1杯分をハーブティに変えるとか、スモーカーは、たばこを吸えない環境に身を置こう。

生活を新たにすれば、身体の状態は必ず変わる。激変を与えるのだから、心身共に楽で無いのは間違いないが、これができなのなら、やはり永久に、昨年、一昨年、一昨昨年のごとく、同じ不健康な自分で、同じ症状に悩んでいればよく、胃が悪い人は、胃病教の信者となって帰依し、胃病を続けるための献身的生涯を送ればいいのだから、ため息ついて不足を言ってはいけないのである。右が嫌なら左に、左が嫌なら右に行けである。

医者の判断に従い、生活状態を改善して、それで病気が治せない時は、それはすでに活力が消耗している証拠なので仕方ないが、たいていの人は生活態度に原因があって、すなわち昨日までの自分や生活に未練を残している為に、昨日通りの運命につきまとわれて苦しんでいるのである。例によって例のごとき、古い運命に生け捕られたくなければ、古い状態を改める他は無い。

偏食によって、身体が弱いと苦しんでいる人もいる。コーヒー好きで、眠れないと嘆く人もいる。目が弱いといいながら目を酷使して、疲れ目で悩んでいる人もいる。最も愚かなものに至っては、唐辛子が大好きで、痔に苦しんでいるなんていう人もいて、甚だ滑稽ですらある。

生活の為に働くばかりで、運動不足で体調を崩している、同情すべきものもある。遺伝によって先天性の体質により、薬と縁が切れない悲しむべきものもある。それでももし、自分の今に不満を感じるなら、従来の自分を改めてしまう方がいい。

ところが、「お酒の飲み過ぎが良くない」と思いつつも、「たまにはいいだろう」が頻繁になってしまうのが人の常である。とかく理屈をつけて昨日の自分を自己弁護しつつ、その結果だけは昨日より良くなりたいと望むのが人情だから、しょうがないといえばしょうがないが、それを許してしまえば、結局自分が新しくなることはできないので、意味が無い。新しくなりたければ、やはりきっぱりと英断しなければならないのだ。

例え、身体が弱くても、成功できない訳じゃ無い。身体が弱くても、意思が強ければ、一日有れば一日分の事は成せる。それがもし、身体を弱くする原因を知っていながら、改善することができない意思の弱さでは、気の毒だが、その人は自分を新たにすることは難しく、これまでの状態から抜け出すことはできない。

それは良くない。なんとかがんばって、新しい自分になるべきである。