努力論4 『努力論』より 第4章「福について考える」(幸福三説) | まさきせいの奇縁まんだらだら

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原因不明の「声が出ない症候群」に見舞われ、声の仕事ができない中で、人と出会い、本と出会い、言葉と出会い、不思議と出会い…

瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』というご本を真似て、私の「ご縁」を書いてみようと思います。

もともと、芸事向上のヒントになれば、と思って書いていたこともあって、後回しにしたのを忘れていた。

これが当時書いたさわりで、ほとんど直訳だ。

「船を出して、風に遭うのは、ごく普通のことである。それが、自分の行こうとしている方向へ吹いていれば順風と呼んで喜び、逆の方向へ吹く時は逆風と呼んで、その不利を悲しむ。また順風でも逆風でもなく、横風に遭う時は、操舵の技術や船の善し悪しによって程度の差はあるが、この風だって利用することはできるので、有利不利はあまり言うべきではないし、また運不運、福無福を一概に語ることはできない。

南風は、北へ向かう船には福となり、南へ向かう船には福とはならない。順風を喜ぶ人に吹いている風は、逆風に悲しむ人に吹いている風と、同じ風なのだ。福となる風は、すなわち福でない風でもあるのだ。」

今回書くに当たって、本を見ながらこのまま直訳するか迷ったが、原本は幸福の三説を別章に立てて、文庫34ページに渡り長々と説いているので正直くどいのと、史実の人物が何人も登場するが、具体的な話が無く、あれは良くなかったというのみで、歴史に詳しくない私にはちんぷんかんぷんなので、今章も思い切って、書き換えさせてもらった。

歴史がわかる方は、是非原本を参考に見て欲しい。内容としては外れてないと思うので、これを読んでいただいてからなら、名前だけでわかるんじゃないだろうか。

また、この章が書かれたのが日露戦争直後で、当時の軍や社会に関する部分は、現代の会社や社会情勢に置き換えた。

今回も上下に分けるか迷ったが、キリのいい部分が見つからないので、1回にした。

長いが、おつきあいいただければ幸いです。


幸田露伴『努力論』より 第4章「福について考える」(幸福三説)

ヨットで海に出て、東に行きたいと思ったとしよう。風はうまい具合に西から東へと吹いている。その追い風に乗れば、早く目的地に到達できる。

同じ時に西に行こうとしている人がいたとしよう。西から吹く風は向かい風で、ヨットはなかなか進めない。

同じ風なのに、一人には順風で、一人には逆風となっている。

つまり同じことが、自分の立ち位置によって、福となったり禍となったりする。決して高級な船だから順風に乗れたわけでも、古い船だから逆風にさらされたということでもない。

一人には福の風が、もう一人には憎たらしい向かい風なわけだが、風自体は同じ風で、もともと風に良いも悪いも、福も不福も無い。

一人は運が良くて、一人は運が悪かったということかもしれない。

しかし、天気予報などを参考に風の予測を立てることはできるのだから、運が悪かったで済ますのは手抜きが過ぎる。

逆風でない時を選べるなら、不運や不福を避けることは十分に可能だし、順風の時を待てるなら、自ら運を引き寄せる、すなわち「福を招く」ということだ。

さて人間の社会において、一般的に「福」と言えば、社会という海上において、目に見えない追い風が吹いて、たいした苦労もせずに地位や権力や富を手に入れたり、自分に都合良く事が進んだり、努力の結果が得られたりと、希望が現実になることだろう。

できる限り容易にというのが重要で、苦労の末に得るのではあまりありがたくない。

そう考える人は多く、初詣にご利益のありそうな神社やお寺に「福」を求めて大挙して押し寄せる。神頼みで望みが叶うなら、それほどの「福」は無いのである。

初詣には、一年の計を誓うというような意味合いもあるから、もちろん大事な行事と考える人は多いし、「福」を授かったと思えばお礼に参ったりして、ちゃんと礼節を保つ。

ところが、「福」を得る、すなわち望みを叶えることばかりが目的になってしまい、生け贄を求めるような邪神を崇拝したり、悪魔に魂を売ったりするのは、自分のことしか考えない愚か者で、醜悪で恥ずかしいのでやめておこう。

しかしそれでも多くの人が、心を苦しめ、身を苦しめ、試行錯誤してもがいているのも、結果として「福」を得て幸せになるためと思えば、「福」について考えてみることも無駄ではないだろう。

太上(たいじょう)とも呼ばれる最優良の人間は徳を重んじ、その次の人間は功績や手柄を、その次は知識や教養を重要視するという。彼らにとって禍福吉凶など結果でしかなく、そもそも論じる価値も無いものなのだ。

また、どんな人でも、ただ福を得ることのみに腐心すれば、まず何も生み出せないし、議論や研究をするにしても「どうすれば福が得られるか」ということのみにこだわれば、それこそ邪教のような道に入り込んでしまう恐れもあろう。

本来から言えば、正しいか正しくないか、善いか悪いかを意識すべきで、福無福や運不運や幸不幸についてなど、論ずる必要も無いことだ。

しかし、自分の能力だけを信じ正邪や善悪ばかりを考えていると、心が狭くなり、自分の考えに固執して、人の意見を聞かない人になってしまう。かといって見えない力だけを崇拝し福や運についてばかり語っていては、何も事を成せないちっぽけな人間で終わってしまう。

ここに記す幸福の説は、これから自分を良くし前進しようとしている人々に送る私個人の考えで、どうか良い道に進んで欲しいという思いからに他ならない。きっぱり断言できるものではないので、皆がそれぞれに判断して、それぞれに役立ててもらえればである。


さて、幸福か不幸かというのは順風と逆風が同じ風であるように、自分の立ち位置によって変わるのだから、決まったルールや定説は無い。

しかし、幸福そうな人、不幸そうな人を客観的に観察すると、なんとなくだが、共通点のようなものが見えてくる。

それを《幸福三説》として、挙げてみる。

一、「惜福(せきふく)の工夫」
二、「分福の施し」
三、「植福の貢献」

植福ができる人は、分福も惜福もしているし、分福は惜福がなければいけない、というように一番の基本となるのは惜福だが、三説は切り離さない方がいいようなので、惜福を中心に同時的に説く。

まず何にせよ、福は惜しんだ方がいいようだ。

1億円あるからといって、考え無く1億円を全て使い尽くしてしまうことは惜福の工夫が無いということだ。

必要なことだけに使用して、残れば貯金するのが惜福だ。

かといって、ケチケチと相手が泣くほどに値切り倒しては「分福の施し」が無いので良くない。相手が喜ぶ程度に支払うことが「分福」である。字の通り福を分けるということで、さらに残った分を福の親種にして次の準備に使えば、福の種まきで「植福」となって、福をまた増やしてくれる。

一方、貯金するばかりで使わないのは、自分だけが独り占めで「分福」が無く、1億円は死んでいるも同然で「植福」の貢献も無く、動かないのだからそもそもの「惜福」が無い。

会社で福と言えば、会社、従業員、取引先や消費者の全員がウィンウインという関係だろう。

かつてバブル景気に乗って大きく稼いだ会社が、さらに大きくなろうと儲かるための大きな投資をしたり、社長だけが豪邸に住み使い切れない程の財産を手に入れたにもかかわらず、バブル収束とともに破産してしまったというのを、当時あちこちで耳にした。

もしそんな会社の半数でも、稼いだ分の一部を社会に還元していれば、日本は今とは違っていたかもしれない。

また、かつて日本は、従業員を働かせるだけ働かせて残業代も払わず、身体を壊せば本人の責任として、簡単に使い捨てにしてきた。

人材とは福に他ならず、これも「惜福」が無いということだ。

会社を発展させることができるのは、人なのだ。人=福をないがしろにすれば、会社がダメになるのはあたりまえ。従業員こそが会社の財産であって、彼らが幸せに働ける環境こそ、福を大事にしているということだろう。

神社やお寺で神頼みより先に、まず人を大事にすることが何より優先されるべきことなのだ。「人=福の化身」と考えれば、そう難しいことでは無いだろう。

また、会社が大きくなれば、社内の発展ばかりでは「分福」が足りないから、客や取引先はもとより、全く関係なさそうな人にも福を施せることが、会社のリーダーの器量であり、より大きな発展には欠かせない意識ではないか。文化活動を支援する企業のメセナ活動なども、企業のイメージアップや宣伝にもなり、日本でも広まってきた。

お金を出して幸運を呼び込むと考えれば、損どころか、この上ない福だろう。

これは会社などの組織だけでなく、国にとっても同じことが言える。国民が幸せでなければ、国に未来は無い。

昨今はSDGsと略される「持続可能な開発目標」というのが地球規模の目標として掲げられていて、国も企業もそれに準じた取り組みを求められている。

この先、自国のみ良ければいいという考えの国が増えれば、駆け引きがやがて対立になり、戦争を引き起こすきっかけに繋がる。

かといって、国同士の協調ばかりを考えて自国民をないがしろにしたのでは、国は憔悴し滅びの道をたどる。

かつての戦国武将達の命運を分けたのも、福の扱いによるところが大きいように思う。

中でも徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉の豪快で華やかな雰囲気に対して、地味な印象を受けるが、その実、家康はちり紙一枚、ムダにすることはなかったという。こうした惜福の工夫があって、大金を残し、以降300年にも及ぶ江戸時代の礎を築くことができた。

逆に秀吉は、気前よく大盤振る舞いすることで「分福」を施し、それにより早く天下統一ができたと言われている。

現代日本でバブルに浮かれて浪費しまくった人たちは、秀吉の真似をしたのかどうかはわからないが、使い切れない程の大金を持てば誇示したくなるだろうし、誰かを跪かせるために大金をばらまくというのは何より手っ取り早そうだ。

秀吉のように、というと豪快でカッコイイように聞こえるが、歴史に残るような偉業を為したわけではないので、器が小さくただ浮かれていたのだと心得よう。

空きっ腹に腹八分は難しいように、お金の無かった人が突然大金をもってしまえば、反動で豪勢に使いたくなるのは理解できる。モチベーションでもあるからだ。1500円のファミレスステーキでなく5万円のステーキハウスに行けるのだし、580円のワインでなく40万円のロマネコンティだって手に入る。自慢もしたくなるだろう。

だけど、福もお金も、増えるより早く使い尽くせば無くなるし、何より取り尽くせば増えようが無い。

お金持ちはずっとお金持ちのままなのに、貧乏人がお金持ちになってもお金持ちで居続けるのは難しいように思う。お金持ちは「福」の扱いを心得ていて、貧乏人にはそれが無いということだろう。

下層階級の出身であった秀吉は、分福はしても惜福の工夫ができなかった為に、一代で福を使い尽くし没落してしまったのかもしれない。

鳥は鳥を愛し慈しむ家の庭に集まり、雑草は雑草を取りきらない家の庭に茂る。増えて欲しいものも、消えて欲しいものも、使いきらず取りきらなければ、また増えてくるし、使いきり取りきれば完了、という道理だ。

また、果樹に実がたくさん成るからといって、成るままに任せておけば、木は全ての実に栄養を行き渡らせようとして疲れてしまう。実った数は多いが、満足に大きくなれず、またあまりおいしくない。

これも「惜福の工夫」が足りないと言える。なんでも使い過ぎれば、疲れ擦り切れ寿命を縮めるのだ。

全ての実に十分に栄養が行き渡る程度に数を減らして木への負担を減らし、さらにもう少し減らしてやれば、いい実が実り、果樹は余裕で翌年もまた素晴らしい実りをもたらしてくれるだろう。

水産資源だって同じだ。かつて日本の沿岸にはラッコやオットセイがいて水辺を賑わしていたのに、今ではもう水族館でしかお目にかかれない。浜名湖に豊富にいたワタリガニは、乱獲が原因でいなくなってしまった。

山林にも言える。伊豆山では、山林を乱伐し開発を優先して福を惜しまなかった結果、大規模な土砂災害が発生し、大勢の犠牲者を出した。

惜福の工夫を、国や自治体が真剣に考え、取り組んだなら、土砂災害や水害は減り、自然資源は活力を取り戻し、より豊かな福の国となって、国はますます栄えるだろうと言うことだ。

そうなれば惜しみなく、国内はもちろん海外にも「分福」できるというものだ。国民にも余裕ができて、海外への援助や投資もに寛大になれるだろう。

個人としてなら、主君の義に殉じ果てる覚悟の人でも、そこに高齢の両親やお腹を空かせた幼子がいれば、話は違ってくる。義でお腹は膨れない。

だから、桃太郎のようにきびだんごで釣るというのは効果的だし、義より感謝されることは間違いない。秀吉が愛されたのも、この分福の賜物だ。自分ではあからさまと思っても、もらう方は感謝しかない。こうしてより一層、主君のために働いてくれるのだ。

給料を上げることで、優秀な人材が集まり、会社はより発展すると考えれば、目先の出費をケチってリストラしたり給料を下げるというのは、一時の対症療法でしかないとわかるだろう。

昨今、進出してきた外資の会社が、アルバイトを雇うのに破格の金額をつけたら、優秀な人材が大勢集まり、売上が驚異的に伸び、会社は大きく発展したという話もある。

「分福」を巡って、骨肉の争いになるというのはよく聞く話だ。分福しなかったばっかりに、殺傷沙汰になってしまったというのもドラマの中だけの話じゃない。分福しないことで、禍(不幸)を引き寄せてしまうという典型的な例だ。

分福しない人は嫌われ、憎まれる。そうして自ら不幸を引き寄せてしまうのだ。こうなればもう、福がどうとか言っていられるレベルじゃない。

逆に、分福すれば、感謝され尊敬される。そういう人を蔑ろにする人はいないだろう。もっと分福してもらおうと、その人の為にさらに役に立ってくれるに違いない。

分福してもらった側も、それをあたりまえと思ってしまえば、惜福が無い。もらった分の何分の一かでも返すことが惜福になる。その時はもらったのと同じ物や事でなく、違う形で返せば良い。

仕事の場合、時間ではなく効率だろう。またはアイデアや知識といった、相手が喜ぶことならなんでもいい。そうして分福返しをすることでも、別の所に分福するのでも最高の惜福であり、自分の所で止めないその行為こそが植福なのだ。

分福できる人は返してもらおうなど考えていないので、もらった側は今は貯める惜福をしておいて、機が来たら別の人、例えば後輩などに分福してあげればいい。そうしてまたその後輩が分福すれば、これこそすばらしい植福だ

植福とは、自分の持っている物やお金、情報や心遣い、智恵や知識などを、自分以外も幸せになるように、無償または適正価格で提供することだ。それによって誰かの明日が幸せになる行いを植福というのである。

植福をすれば、福はもちろん自分に還ってくるし、周りも幸せになる。福を増やそうとすることこそが植福なのだ。

世界でたった一人でも植福すれば、世界は少しだけ幸せになるだろう。たくさんの一人が植福の精神で貢献すれば、世界はたくさんの幸福であふれかえるだろう。たった一粒の種がやがて幾千本の草や樹木に増えて草原や森になるように、一粒の福を植えることが、幸福な世界へと繋がるのだ。

かつて古い時代の先人たちが、植福の精神で努力をしたから、今の私たちの文明があるのだということを忘れてはならない。

現代、世界中の富のほとんどを、ほんの数%の人が保有しているという。一説には、世界人口の1%が40%の富を独占しているとか、10%の人が76%だとか。

今の世は、そういった人たちが動かしているんだろう。

彼らは多額の寄付をして、慈善事業も推進している。でも1兆円の資産がある人が3億円寄付したからといって、割合から言えば1000万円貯金のある人の3千円という程度で、小遣いを募金箱に入れているくらいの感覚じゃないだろうか。

彼らが、どういった形でも、富を半分手放す勇気ができたなら、世界は大きく変わるだろうか。それとも貧困層は結局、貧困から抜け出すことはできないのだろうか。

智を得、功財を為し分け与え、徳を積む。

智恵や知識が無ければ、功績もあげられないし財も築けない。そうして得た智や財を他人のために使うことで、徳は高く積み上がる。

これこそが、多くの人が思い描く、人間としての最高の成功であり幸福なんじゃないだろうか。

少年の頃にたくさん勉強して、青壮年では功や財や家族の為に一生懸命働き、晩年には徳の高い人間として敬われ慕われる。

そういう人になりたいと、理想を胸に抱いたことはないだろうか?
今も心の片隅に眠っていたりしないだろうか?

「他人のためは自分のため」としっかり意識できれば、感謝できる。感謝してこそ徳になる。

「福は7度訪れる」という意味の古い諺があるように、誰にでも大きな福を得るチャンスは巡ってくるのだ。7度もあるかはわからないから、1度めからチャンスを逃さず努力すれば、次代のビルゲーツやジェフベゾスにだってなれるかもしれない。

その時を呼び寄せる為に、今すぐ惜福から始めてみよう。

まずは、近くにいる人を大事にしよう。少しずつ貯金をしよう。物を丁寧に扱おう。

目に見える形の貯金でも、見えない運のようなものと思ってもいい。そうして惜しんだだけ、将来に向けて少しずつ福が積み上がる。

そうしたら、分福しよう。ほんの少しでもいいのだ。全部を自分のものにしようとしないで、他の人と分かち合おう。

自分の時間を人のために使うボランティアは惜福だ。そこでさらに財産を提供できることが分福だ。例えば、人を派遣してその人件費とか、大規模な炊き出しを企画して材料費をもつとか、医療など専門技能を無償で提供するとか、今すでに持っているものを分け与えるということで、これは案外勇気のいることだが、福の種を手に入れようとするなら、機会としては巡り来やすい。

例え邪な心からでも、喜ぶ人がいるならそれは間違いなく福の行為だ。

そうして、福の種が手に入ったら、それを植えて福を増やそう。福の種がどんなものかはわからない。すぐに収穫できるものではなく、未来への贈り物となるものだ。

きっとその時にならなければわからないし、はっきり認識できるものではないのかもしれない。「誰かのために」と受け継がれる精神そのものかもしれない。

できれば、その福をいつか未来の世界で、私たちの子孫が受け取れるように。

福を惜しみ、福を分け、福を植えることは、すなわち福を作ること。

福の種を蒔こう。みんなで福の種を蒔こう。



まさきせい 幸田露伴『努力論』より ~幸福三説、より~