明治神宮の森. 原野に国民の献木で森を作る | 川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭っている。明治45年(1912年7月30日)に明治天皇が崩御されると,御陵は京都の伏見桃山に作られたが、東京にも何かしらのよすがを、という声が多く上がり、御霊を祀るための神社として創建された。大正9年(1920年)11月のことである。都心にあってアクセスもしやすく、例年,初詣では日本一の参拝者数を集める神社として知られている。武士が支配していた江戸時代が終わり、開国をして西洋の文化をどんどん取り入れていくようになったが明治時代、天皇は京都から居を移し、都を東京に定め、近代国家へと歩みを始める。政治や経済、生活スタイルまですべてが激動の時代だ。様々な分野で、日本的なものと西洋的なものとが混じりあい、独自の文化が生まれた時期を体現しているのが明治神宮といえるだろう。候補地はいくつかあったが、代々木の地が選ばれたのは、明治天皇と昭憲皇太后にとってゆかりが深かったからだ。「江戸時代、このあたりは井伊家の下屋敷で、明治になってからは南豊島御料地(皇室の所有地)でした。現在の一角にある御苑は、かって明治天皇が訪れ、たいへん良いところなので皇后が散策できる場にしようと、自ら設計図を手に入れられたと言われています。隔雲亭(かくうんてい)という御休所を建て、水源として清正井(きよまさのいど)がありましたから,花菖蒲を植えさせられました。皇后は何度も足を運ばれて、池で釣りをなさったり、散策をされた記録が残っています。

この素晴らしい「森」を作成したのは、本田清六、本郷高徳、上原敬二の3人の林学、造園学の専門家です。当時の内務大臣大熊重信は日光の杉並木のような荘厳な針葉樹の森を、と主張したが3人は地で長く育つ森にするにはカシ,シイ、クスなどの常緑広葉樹にすべきと反論した。今の「官僚、役人」ではとても考えられない。おそらく「忖度」、ゴマを吸っていただろう。明治のころの役人、学者らは皆、気骨があった。しかも植える木は献木で賄った。木の奉納を呼び掛けたところ、国内はもちろん、サハリンや台湾から約10万本の木が寄せられた。若木だけでなくなかには村自慢の名木といった大木もあり輸送には鉄道が使われた。原宿から境内まで引き込み線を敷き、当時の鉄道、汽船会社は献木の運賃を5割引きにしたという。植樹作業にあたったのは、のべ11万人の青年奉仕団だった。

当時の日本人は皆「国に奉仕」する精神が高かった。しかしこのように日本中の国民が力を合わせて築いたこの「天然の森、明治神宮の森」は今でも我々みんなの「宝」として心を癒し続けてくれているのである。