川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

私はいまだに「漫画」の大ファンである。特にさいとうたかおのゴルゴ、鬼平犯科帳、藤枝梅安、そして弘兼憲史の黄昏流星群などだ。この流星群の今月号に掲載されている204ページの文章には特に驚き、感動した。「おー、ええ感じで苗が出たな」「じゃ、今からこの箱苗を踏んでくれ」「え!せっかく伸びた苗を踏むんですか?」「そうだ、麦踏と同じで踏むと苗が負けまいとして強く根付くんだ」「人間と同じで甘やかして育てたらロクなものは出来ん」「いじめていじめて、そこで立ち上がらせるんや!」

今の社会の問題は「教育」です。社会を支配しているこの「エリート教育」では単に点を取って「試験」に合格し、有名学校に進学すればよい、これでは記憶力の高いものだけが断然有利だ。全国に一万校以上もある「予備校」のビジネスが盛んになる一方だ。そしてここの勝者が官僚、弁護士、医者などの「エリート」となり、国を動かしているのだ。残念ながらこの「予備校教育」では、「人間の心」「哲学」を学ぶことはできない。このような時間があれば「テスト勉強」に向けるほうが賢い。と考えている。ここまで社会環境が大きくなるともう誰も反対できない。この流れに沿って我々「愚か」な国民は生きていくしかないのだ。ゆえにこの社会の「エリート中のエリート政治家」を観察したら良く理解できる。彼らは本当に国を愛し、国民の幸福のために戦っているのか、残念ながらそのような政治家は見渡らない。皆、自分のことばかりを考えている人たちだ。彼らにあるのはとてつもない「野心、名誉欲、金銭欲」だ。

重ねて、私はこの弘兼先生の流星群の作品の大きさに感激する。先生の作品はいずれもわれわっれ人間の中に存在する「欲、醜さ、その中でもやさしさ、おおらかさ」を実に巧みに表現している。

「ところで田植えはまだなの?」「うん、明日かrさ始める。明日は小学生も来るぞ!」「なんで?」「子供たちにコメつくりの楽しさを体験させようと思っているんだ」「わー!」「きゃー!」「冷たいよ!」「ほら、遊ばないで!ちゃんと心を込めて植えなきゃ良いコメは出来んぞ!」「おじさん!このお米食べられるの?」「食べられるけれど、このお米は山田錦といってお酒を造るための米だ!」こうして子供たちに「お米を作る」大切さも教育する。

私には3人の孫がいて2人は隣の家の息子夫婦の子供だ。故にあえてこのような「素敵」な漫画を紹介する。今までの努力が少しは実ったのか。今日も「じじ!」「今日バスケットボールのフリースロー大会で優勝したよ!」と言いながらメダルを見せてくれた。自分たちを明白に表現する知恵と勇気を身に着けているようだ。この一歩一歩の積み重ねが真の教育だと確信する。

 

 

 

 

哲学の道 (特)ウナギを大きく育てる

 

ウナギは私にとって最も大好物の食べ物である。小学校4年、5年の孫がいるが「一番好きな食べ物を言ってごらん」すぐに「ウナギを食べたい」尋ねた以上連れていくがなんとその値段は3000円以上する。こうしていつも大変な出費をする。しかし孫たちの満足そうな笑顔を見ると「これもじーじの役割だな」と微笑んでしまう。

それが今日の新聞に「愛知県の水産試験場などが、通常だと9割以上オスになる養殖ウナギをメスに育てる技術を開発した。メスはオスより実が柔らかく、大きく育つ。稚魚であるシラスウナギの不漁が続く中、資源の有効活用につながると期待されている。

このニュースに驚きかつ喜んだ。「これで値段が下がるな、孫たちにいっぱい食べさせてあげることが出来る。」

今までは「ウナギ」は我が国の独占上だったが、最近は中国などが大変なブームで需要が追い付かないありさまだ。ヨーロッパのスペインなどはシラスウナギをそのまま食べてしまう料理がある。実にもったいない話だ。

 

 

 

国会議員便宜供与

 

政府関係者が語る。「公的用務で外国を訪問する場合でも、休日等に私的目的で地方や観光地の視察を行う場合には、公用車の配車や館員による同行は、原則として実施できません」政府の内部文書の文書の内容である。

今から約60年前、1976年から78年までの2年間私は海外交流サービス協会(外務省の外郭団体)の派遣員としてメキシコの日本大使館に便宜供与担当官として赴任した。その仕事の内容は名のとうり国会議員、新聞記者、特に中南米の大使館に赴任した外交官の便宜供与である。ちょうどメキシコは中南米と日本を結ぶ中継地にあたり当時はJALが週3便運航していた。外交官が赴任、帰任する際どうしてもメキシコ経由となる。当日のフライトコネックションは不可能なのでどうしても2,3泊はしなければならない。大使館には便宜供与予定表が組まれており私はそれに従って動くのである。当時便宜供与のほか現地雇いの8人の運転手の手配をするのも仕事だった。その点私は19歳の時南米アルゼンチンに移住し、7年滞在し独学でスペイン語をマスターし、完ぺきに会話ができたので癖のある現地人を扱うのにはうってつけだった。これ程大変な仕事ではあったが待遇は非常に悪く給料は23万3千円当時のメキシコの通貨はペソで1米ドル25ペソであり、換算すると1000ドルにも足りなかった。本来は外交官というのは、外交官試験に合格したエリートを指すのであるが、便宜上外務省から来たすべての職員には外交官パスポートが付与され私用車にも外交官ナンバーが施された。当時のメキシコでは、輸入車に対し200%以上の税金が課せられたうえ、外交官の特権として米国から乗用車を無税で輸入できた。さらにその時期から半年を経過すると売ることができたのである。この点に着目した業者はこのアメリカ中古車をメキシコの金持ちに売るのである。ゆえに2万ドルで輸入した車を半年使いその車はなんと2万5千ドル以上で販売することができた.さらに驚いたことはこの時点でもう一台購入し、それを帰任するときに譲ることができたのである。この不思議なことが可能だったのは、この国の車の事情に依った。当時メキシコには、日産をはじめフォードやその他の外国からの工場もあったがそこで生産された車の性能はひどく粗雑なものであった。おそらく部品は現地で生産されるため外国車の品質には至らなかったのである。ゆえに金持ちはこぞって米国からの中古車を高いお金を払ってでも購入したのです。大使などの高官に対してはその滞在期間内に一台しか買うことができなかったためあえてベンツなどの高級車を買い入れ退任の際転売した。当然何万ドルものプレミアルがつく。私は彼らのこの高級アルバイトの手助けをしていたのであるから面白いわけはない。しかしながら私の身分は「オッフィシャル」で「外交官」のように外国車を無税では購入できず、一時輸入は可能だった。前任者はアメリカに返すのが面倒くさいので所有していた60年代後半のファルコンを500ドルで売りつけた。日本にいたときガイドや添乗員をして蓄えたお金の中からこの金額を支払ったのだ。仕事は実に忙しかった。特に中南米からの外交官(外務省の職員であるが便宜上)が多く、本来は彼らに対してそのような便宜供与は必要ないのだが私の上司は仲間意識が強く、飛行場のミーティングからホテルのチェックイン、翌日はシティから約50キロメートル離れたラテンアメリカで最も巨大なピラミッド、テオティワカンの見学、さらに市内見学、考古学博物館の案内までした。当然昼食込みである。今思うとこれらの莫大な経費はどこから調達していたのだろう。これも大切な国民の血税からか、となると知らなかったとはいえ小生も働いていたのだから同罪化、罪の意識はないが。さらに大使は個人的に付き合いのあった有名人や会社の経営者さえも便宜供与リストに含めた。彼らにも全く同様の便宜をしたうえ昼食もピラミッドに隣接した有名な「レストラングルータ(洞窟」を供与したが最後に「ありがとう、楽しかった」と言いながら100ドルを包んでくれた。残念にも私はその金額をありがたく頂戴したのである。情けない話である。その晩はご夫妻を特別に公邸に招いた。考えてみると当時の外交官は皆同じように自分自身の利害関係で大使館を我が物顔に使用していた。したがって日本から大臣級の大物が来ると大使館こぞって接待をした。覚えているのは、故岸首相が「人口問題世界会議」に出席のため10人もの大臣を引き連れてきたときは、私は特に彼らの宿泊したメキシコ最上級のホテル「プレシデンテ」に部屋を取りその接待係を務めた。彼らはこの時を利用して大事なサポーターらに年賀状や感謝状を贈り、自らの「誠意」をアピールするのである。私は住所を書いたり、お茶を運んだり、その手伝いに忙殺した。思い出すのは、外国特に中南米ではチップさえ渡せば領収書を入手するのは実に容易なことである。このように考えると私たちは何十年にもさかのぼってこれらのおおくの「無駄」を消費していたのである。今回の週刊誌は今年の8月31日号として出版されたものだが決して珍しいものではなく以前から頻繁に行われたものである。真の「民主国家日本」を建設するためには、これらの愚かな無駄は一切なくさねばならない。私たち国民の責任である。