ブラジル野球の指導者 | 川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

ブラジル野球連盟のアカデミーで校長を務める佐藤みつよしは1946年12月30日に生まれた。終戦直後で生活は厳しく、11歳の時に家族で南米ボリビアに移住。未開拓の原生林の中で斧で木を切り倒して耕作地を作る。そんな毎日を過ごして「後に野球に必要な筋力や体の動かし方が自然と身についた」と振り返る。60年にブラジルに移り、家族でコメつくりや養蚕に取り組んだが、夜逃げを経験するなど生活は苦しいままだった。転機は62年。農作業の傍らのラジオ放送から入植地の野球チームの試合が流れてきたことだった。「肩が強かったし、野球をやってみよう」。苦しい生活から抜け出す手段になるかもしれないと思った。「翌朝から坂道を走り、竹で編んだストライクゾーンで投球練習を始めた」折しも60年代はブラジル野球の黄金期。日本のプロ野球経験者が移住し、甲子園出場者の「野球移民」もいた。盛んだった社会人野球で佐藤が左腕投手として頭角を現すのに時間はかからなかった。ピエダデ(サンパウロ州)のチームに所属し、地区大会決勝で23奪三振の快投を見せた。64年の南伯農産組合への移籍を経て、66年には機械メーカーで強豪の豊和工業へ。国内リーグで完全試合やノーヒットノーランを達成し、打者としても本塁打を放つスーパースターだった。ブラジル代表でも南米選手権を制した。ネットはもちろん、ビデオもない時代だ。地球の反対側に郵送で遅れて届く「週刊ベースボール」に掲載された江夏豊のフォーム写真を良く参考にしたという。「力のあるボールが投げられるよう、下半身の使い方を真似しようとしていた」74年には日本からブラジルに遠征した東芝との親善試合に豊和が6-1で勝利。サンパウロ新聞は「大金星、佐藤が好投」との見出しで報じている。

上記の記事は今年の5月15日の日経新聞に掲載されたものである。これを見て私は大いに感動した。まず年令が同じである。私は「早生まれ」なので学年は一つ上であるが、それは日本だけで他国では同じである。さらに彼の場合は「家族移民」であり、私は単身移民であった。私もアルゼンチンで経験したが南米特にブラジル、アルゼンチン、パラグアイに居住する日系人社会では野球は人気がある。私はブエノスアイレス近郊のエスコバル市の代表としてアルゼンチン大会に参加した。活躍で出来なかったが今でもよく覚えている。このようにスポーツを通じて体を鍛えたり、友情を育むことは素晴らしい。このような活動が中南米において日系人社会を豊かにする理由の一つだ。