フィロソフィー(哲学) | 川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

私は、フィロソフィーという言葉がとても好きです。私には、「生きざま、人間の誇り」だと考えています。そしてその「哲学」生き様を自分なりに一生懸命真面目に生き抜いた人こそ「成功者」なのです。しかし、今の社会は成功者とは、お金持ち、地位の高い人、大会社の社長そして官僚、政治家と「レッテル(肩書)」でしか判断しません。悪いことには、そのように社会がマスメディアを通じて国民を教育、マインドコントロールしてきたのです.従って、多くの国民はそういうメディアに誇張された人が「成功者」だと判断するのです。これは正に官僚が仕掛けた見事な「罠」なのです。そうすることによって彼らが築き上げた「官僚社会、学歴社会」が力を発揮するのです。官僚は、この立場を益々利用し、本来は国民を代表して、国民の利益のために働くべき政治家までも必要以上に彼らの地位、条件を与えることによって、自分たちと同じ土俵に上げてしまったのです。このあまりにも好都合な素晴らしい「システム」の中に埋没してしまったのです。こうなると彼らはあまりにも快適なこの土俵から抜け出すことは出来ません。ただただ自分たちの「利益」を死守する為にだけ働くのです.従って、彼らの言う「改革」とは正に嘘で口先だけのものです。ですから世の中がこれ程大変な問題を抱えても、自らを改革しようなどとは考えません。1200兆円以上の国債、赤字を抱えても自分たちの報酬を削ってまでも修正しようとはしないのです。逆にどんどん「報酬」を引き上げています。それはほとんどの真面目な国民はあまりにも「お人良し」だからです。官僚、政治家の考えることは、私たち社会の弱者、弱いものからさらに「税金」という形で巻き上げようとするのです。こうして弱者は益々力を失います。「システム」には対抗できません。これが国民の大半が思っている「日本の民主主義」なのです。ここに私が15年前に書いた「花の道」の最終ページに綴った「人生とは何ぞや」を送ります。私は、高校を終える時、進学か就職か悩みました。そして選んだ道が南米移住でした。とにかくがむしゃらに進みました。生きてきました。理想と現実のギャップに慄き、失敗に失敗を重ね、少しずつ己を鍛えてきました。しかし人生の道は厳しく、己を知ること、自分自身の可能性を認識することは至難の業です。まったく浦島太郎の心境で20年ぶりに帰国し、改めて今の日本の姿を見つめ自分の位置、日本の現在の社会にうごめく数々の問題、その複雑性に驚くばかりです。残念ながら多くの人々は「平和」という名に甘えて責任を持つことを忘れてしまったのです。この「エッセイ」は10年前に地元新聞に掲載しました。今日の政治家、特に自民党の「裏金問題」に関して実に情けないみっともない有様を見て10年前に述べた時と全く変わっていません。彼らには、「政治家」「人間」としての「誇り、信念」すなわち「フィィソフィー、哲学」がないのです。このことは他人ごとではなく我々すべての責任です。