太宰の小説『津軽』と共に、これまで幾度か訪れた津軽の地をふりかえりながらブログにまとめています~。

これ、結構頑張って書いていますが、興味ある人がどのくらいいるのか分からない上に(あまりいないかも)、自分のための備忘録としてはちょっと大変かも…と、今さら気づいてしまいました……笑。ま、自分が楽しく書ければいっか~。

 

あ、そういえば、今から115年前の今日、太宰さんが生まれたらしいですよ🍒

 

 

過去記事はこちら~↓

太宰治『津軽』をめぐる①弘前城編②弘前高校編③蟹田~三厩編④竜飛岬編⑤津軽鉄道編

太宰好きの人は読んでください~♪

 
 

 

 

 

 

前回は、津軽鉄道で金木駅を下車したところまで。

 

 

生家については『津軽』よりも『苦悩の年間』のほうに目がとまったので、ちょっと引用しておこう。

わたしの家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。

‥‥‥この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣も無い。

 

 

ということで、「ひどく大きい」「おそろしく頑丈な」お宅訪問~。

 

↓こっちから見た方が、写真に納まりきらない広さというのが伝わるのかな。

 

これでも十分広すぎるけれど、当時はもっと広かったようで、離れ(新座敷のことで、現在の太宰疎開の家)までずーっと繋がっていたらしい。

なお、離れには元々太宰兄が住んでいた。兄が離れた後、太宰が母のお見舞いのために帰郷した時、終戦頃疎開した時に住んでいた場所。

その後の津島家は色々あって、敷地一部を売却したため、当時とは少し場所が変わっている。

 

 

ちなみに、離れである「太宰疎開の家」は、斜陽館よりも駅寄りにある。

このへんからずーっと敷地だったってこと。

↑津島家の新座敷で現在の太宰疎開の家

 

もちろんここも訪れたんだけれど、先客に20代くらいの若い女性がいて、展示物の全てであろう写真をバシャバシャ撮っていた…あんぐり

初版本が展示されてあって、それも一作品ずつ頑張って撮っていた…あんぐり

やっぱり太宰文学に共感する人って若い人が多いよね。

 

 

初版はこんな装丁で、昔の装丁って豪華だなあと思う。

↑見づらいけれど、左から4番目『愛と美について』(昭和14、全て書き下ろし)のみ初版を読んだことがある。印字ミスなどあった。

 

 

ここには実際執筆していた場所や、中庭などもあり、離れと言えども広かった。

 

↑執筆していた場所。

弘前の下宿の部屋と比べると何倍もの広さがあるねやっぱ。

 

ここは斜陽館の後に行ったので、すでに閉館時刻が迫っていたけれど、館主さんは色々と説明してくれた。

本を2冊買った。現実に飽きたらここでアルバイトでもしようかな。退屈かな。

 

 

 

 

 

 

斜陽館に話を戻そう。

斜陽館の中はきちんと手入れされていて、現在も綺麗なまま保たれている。

 

一方、『津軽』では、金木の家につくやいなや、兄の娘にまずその恰好を笑われる。

「おかしい恰好。」

「ばか、これが、東京の流行りさ。」

祖母にも歓迎され、大家族のなかへ入っていくという流れ。

 

たーくさんあるどの部屋に案内されたのやら。

 

金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。

 

そういえば、私がまだ幼い頃は親族の集まりがあって、毎年お正月、祖母の家に親戚一同が集まって飲んだり食べたりしていたのを思い出す。もちろん津島家のような大家族ではないけれど。

祖母がおにぎりを大量に作っていて、私は4つ年上の親戚のおねーさんにいじめられてよく泣いていた。私は長女なので、おねーさんにいじめられる経験っていうのも貴重だったのかも。年の離れたおにーさんもいた。今思い返せば、涼し気でハンサムな感じだったような。優しかったけど男の人だったし結構年上だったから一緒に遊ばなかった。そういう集まりも私が小学生になる頃にはなくなっていた。

父はもう以前に亡くなっていて、父の葬儀後の会食で「これを機にまた集まろうか」なんて言っていた人がいたけれど、もちろんそんな集まりはなく、今はもう親戚がどうしているのかまったく分からない。風の噂では、あの頃集まった人たちの何人かはもう死んでしまったようだ。葬式には呼ばれなかった。

 

 

↑階段も重厚。

一階は和室、二階は洋間があった。もうすでにうろ覚え。

 

 

内部の写真は色々撮ったけれど、とても載せきれないのでこのくらいに。

 

ちょっと気になったのが、斜陽館という名だけれど、『斜陽』の姿…いわゆる太田静子との歴史が一切カットされていたような…。他の女性の記載はあったような気がしたけど…。気のせいかな??

まー、ここは津島の家だから当然のことなのかな…?

 

斜陽館って…。傾いた地主の家…。なんとゆーか…。

 

 

 

 

 

斜陽館、そして疎開の家を見学すると、もう薄暗くなっていた。

 

休憩に、津軽鉄道でスルメを焼いてくれた自称おねーさんが教えてくれたイギリストーストをおやつに食べた~。…うん、まあまあ。笑。

ちなみに、イギリストーストのラスクバージョンがとてもおいしかったので、後日お取り寄せした。

 

↑ご当地名物イギリストースト

 

 

列車に乗り遅れると非常にやばいので、再び津軽鉄道に乗り、終点津軽中里の宿へ向かった。

 

雪が降っていた(訪れたのは今年の2月なので…💦)。

 

 

以上、お読みいただきありがとうございました🍒