アノ「た」シリーズと、新年恒例の『東海道53次シリーズ』を合同してやろうという企画を「た」が提案してきました
・東海道53次シリーズはコロナ禍の間お休みしていた事もあり(本年1/12upの戸塚宿で3年ぶり復活)、まぁ作数挽回にもなるのでいいか、という事で^、「た」からの提案を採用、
当別荘初コラボ・『た×東海道53次』作をおおくりする事になりました
行ったのは、まだ東海道シリーズで未訪問だった興津宿です。
併せて「た」の要望により、以前ツーリング作で訪問済の三保の松原も歩く事になりました。「た」付きの東海道ブラ、どうだったのか?^、早速スタートです^^
現れました!2023年初登場、「た」です
JR東海道線・興津駅です(※静岡市清水区)
春の晴天に恵まれました。
行ったのは4月上旬、ちょうど桜の時期だったので、これから訪ねる各所での桜花もご覧頂きます^
駅前の案内板を覗き込む「た」ですが、今作での訪問箇所は事前に「た」から具体的に何カ所か要望を聞いているので、そこを中心に歩いてみたいと思います
まずは、↑看板にもある興津の名刹・清見寺へ向かいます
駅前からすぐ、↑国道1号との交差点に出ます
R1を西へ歩きます
↑”興津宿公園”というバス停が立ってましたが、その脇には~
国道脇に小さなポケットパーク、興津宿公園です
由来板には詳細な経緯度も表示^
さらにR1を西へ
本陣は現存しません
R1沿いに、興津宿公園のより立派な↑案内板を発見^
”興津”(おきつ)の名の由来は、鎌倉期に地頭として当地を支配していた興津氏からきたという説や、興津宗像神社の祭神・興津島姫命からという説等があります。
明治の町村制施行で庵原郡興津町に、昭和の大合併で旧清水市に編入され、さらに平成の静清合併で静岡市清水区の一角を占め、現在に至ります
先程の案内板にあった↑広重の浮世絵。興津川を人足と渡る旅人。白砂青松の景勝地だった事が窺えます
興津の名刹・清見寺(せいけんじ)が見えてきました
お寺は、1号線すぐに迫る、丘の中腹に建っていますが、お寺と国道の間には~
東海道線が走っていて、踏切もあります^
山門へは、↑跨線橋で
↑富士駅から身延線へ入る特急『ふじかわ』が通過していきます
興津は、東海道から身延へと延びる脇往還の分岐点としても栄えました。
桜に囲まれた、風情ある清見寺の山門です(※臨済宗)
7世紀後半の創建と伝わります。
怪しげに立つ「た」w
先程の広重の浮世絵で描かれてましたが、興津は海に向かって山が突き出た所にあり、そこに”清見関”という古関が設けられていました。そこに小さなお堂を建立して関の守りとしたのが同寺の起源といわれます
足利尊氏も深く崇尊したとの事で、室町幕府は同寺を『全国十刹』に定め、我が国で特に重要な寺院として保護しました(※同寺HPによる)
秀吉や家康が転戦の途次で一夜の宿としたほか、江戸期には朝鮮通信使の接待所に、そして明治の町村制施行時には旧庵原郡役所が置かれる等、歴史の舞台に立ってきた古寺です
同寺で一番大きな堂宇、↑方丈です。法要や諸行事、賓客の接遇等に使われてきました
↑鐘楼。1314(正和3)年鋳造と伝わるここの梵鐘、秀吉の韮山城攻伐の際に陣鐘として用いたとの事(※静岡県指定文化財)
今も興津の高台から、東海道の安全を守ってくれています
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日本遺産にも指定されている駿州路の東海道、「た」との弥次喜多道中、次に行くのは~
清見寺と共に興津の名所として知られる『坐漁荘』を見学します
”坐漁荘”(ざぎょそう)
かの宰相/元老、西園寺公望の別宅です
↑受付がありますが、入場無料です。普段は解説ボランティアさんがおられるとの事でしたが、この日はお休みでした
玄関横に建つ、”坐漁荘跡”の碑。
建物あるのになぜ”跡”か、ですが、本物は現在、愛知の明治村へ移築されています。1970年に移築された後はしばらく”跡地”の状態でした。今現地に建っているのは、2004(平成16)年に復元されたもので、坐漁荘は本物/レプリカの両方が存在しているという、建造物文化財としては珍しい例です
内部見学出来るので、玄関からおじゃまします^
玄関の小上りからして、清楚かつ華美な雰囲気^
(※本物は)1919(大正8)年落成。政府の要職を歴任した公望なので、本宅は勿論東京にありましたが、彼は興津がつとにお気に入りだったそうで、この別宅を建てるまでに興津が好きだったそうです(※公望の経歴については後述)
2階建、沢山の部屋に分かれ、天井の梁からフスマまで、公望のこだわりと職人技が尽くされています^
建てられた大正期は和洋折衷が流行った時代、↑洋風のテラスも
↑応接室。こういう所へ来ると一層怪しさが増す「た」(笑)
台所や湯殿/厠も忠実に再現。かなり凝ったつくりです^
邸内には、公望の経歴について詳説した掲示もありました。
ではここで、西園寺公望の生涯/人物を纏めておきます
1849年、時は幕末、京都の公家生まれ。1860年、後の明治天皇へ出仕に出され、近習となる。そんな環境の中で文武を修めつつ、岩倉具視らとの知己を得て、維新後は上京して明治政府に入り、フランス留学等も経験。その後も後に出会う伊藤博文の随員として訪欧したり、欧州各国の公使を歴任する等、豊富な海外経験を得ます
留学後しばらくして再び官界入り。伊藤博文らとも親しくなり、壮年期前半は比較的閑職に任ぜられる事が多かったが、1894(明治27)年に初入閣、2年後には外相に就任し、次第に政治の中枢に入っていきます
1906(明治39)年、ついに内閣総理大臣を拝命。政府のトップにまで登り詰めました。
この年、西園寺内閣は鉄道国有化を決め、当別荘の鉄道作でよく登場する『山陽鉄道』や『日本鉄道』(※現東北本線)等が国有化されていきました。一度辞任の後、1911年に2度目の組閣。短期ながら2期に亘って首相を務めました。
若い頃から欧州で憲法について学んだ公望は、伊藤博文らと政党を結成、立憲政治/政党政治の黎明期に、いわば手探りの中、激動する戦争前夜の日本を舵取りしました。
首相退任後も『元老』として長く政界に影響力を及ぼし続け、この興津の別宅に滞在中も、東京から”興津詣”に来訪する要人が引けを切らなかったといいます。
公望は若い頃からいろんな病に悩まされてきたとの事ですが、そのわりには長生きし(一病息災かも)^、1940(昭和15)年、この坐漁荘で90年余の生涯を閉じました。従一位を追贈され、葬儀は東京・日比谷公園で国葬で行われました。
前述のように、若年期に多くの海外経験を積んだ公望なので、この時期の政治家にしては国際感覚に富み、また学問/教育での興国も重視していたようです。私塾”立命館”を創立、これがその後変遷を経て、現在の立命館大学の源流になっています。
伊藤博文を輔弼しつつ、しかし自身の信念と矜持も曲げなかった、頑固かつ柔軟だった公望は、この興津を、別宅を建てるまでに愛していました
↑公望愛用の杖等も展示。
2階にも上がれます。↑窓ガラスは、復元ながら昔の高価なガラス(だと思われます)が使われていました
2階は、1階に比べて部屋数が半分以下で、寝室等のプライベート空間だったと思われます
なかなか立派な邸宅でした^
・なお、興津は明治期、気候温暖な事から別荘を建てる著名人が複数いました。公望以外にも、明治初期に鉄道関係を司っていた『工部省』の幹部だった井上馨も興津に別荘を持っていました。
東海道線は1889(明治22)年に国府津~静岡間が開通、興津駅もその時開業しました。同線開通後は興津の交通の便が画期的に向上、ここに別荘を持つ要人が病気療養の際には、多数押し寄せる見舞客の便宜を図るため、急行を臨時停車させたりした場合もあったそうです。
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再びR1で、興津駅へ戻る
駅⇔坐漁荘間の1号線、大き目のスーパーが1軒ありましたが、沿道にコンビニは無く、清水駅の隣駅とは思えない程静かな佇まいでした
もう1ヵ所、お寺へ寄ります
耀海寺(※日蓮宗)
先程の清見寺と同じく、国道とお寺の間にはJRが走り、踏切があります
現在日蓮宗の耀海寺ですが、創建時は真言宗だったそうです。
↑は『夏心堂』、同寺ゆかりの、夏心了道上人を祀っています。詳しい由緒は↓看板を参照下さい。皮膚病といじめ防止にご利益があるとの事です。
↑本堂です。近年建てられたとみられ、モダンな感じ。
日蓮宗で全国唯一の門跡寺院だったという過去も持つ同寺、又、江戸期には代々将軍側室からの信奉もあり、皇室や徳川家からの庇護も厚かったとの事ですが、明治以降は廃仏毀釈、鉄道の境内横断、さらには終戦後の農地改革で寺領の多くを喪失、かつての隆盛は過去のものとなりました。
同寺に残る↑の道標。身延山への道を指していました。
この道標は、約1km東にあった同寺の末寺(※現在廃寺)に立っていたものですが、1880(明治13)年に興津を襲った大火の時、高熱によって真っ二つに折れてしまったそうです
折損したうちの上部は耀海寺に保管されていましたが、下部は長年行方不明になってたとの事。それが2005(平成17)年、墓地改葬工事の際に発掘/発見され、奇跡の復元となりました。↑道標には、修復の跡がハッキリと見られます。
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興津ブラを終え、駅に戻る↑「た」
興津駅から、西へ1駅移動します
興津駅~島田駅の間は国鉄末期から”静岡市近郊区間”的な扱いとなり、乗客の利便と利用客増加を狙った集中増便が行われました。浜松方からの興津折返し&熱海方からの島田折返しの便が多く設定され、静岡駅付近で本数が多くなるように組まれました。JR転換後の現在も継続しています
この、国鉄末期に試行された『地方中核都市付近での増便』は、仙台市や岡山市、広島市付近でも行われ、特に広島市近郊では”広島シティ電車”という愛称も付与されました。岩国⇔海田市⇔白市/広間で大増発が行われ、広島都市圏の発展に寄与し、JR転換後の集客対策にも道筋をつけた”国鉄の置き土産”でした
財政が逼迫していた末期の国鉄が、なぜこういう策を採れたかというと、一例として”これまで12両編成で30分ヘッド”だった区間を”4両編成で10分ヘッド”にする事で、高額となる車両の新造や車庫の拡幅ををせず増発したという工夫です。現在、JR東海の静岡県区間では短編成の電車が多いですが、これはこの頃から始まっています。
上記の施策により乗客が増えた事で、転換まもないJRは”次の手”に出ました。増発した区間内に『新駅』を多数造り始めたんです。特に広島~岩国間では国鉄時代の倍近くに駅数が増え、並行する広電と”本気の競争”が始まったほか、岡山では高島/上道駅等、ここ静岡でも安倍川/東静岡/西焼津/六合駅等、多くの新駅が誕生しました
今作は鉄道作でないので、これ位にしておきます(笑)
清水駅到着、ここからは「た」リクエスト企画ですw
清水は、アノ人気アニメ『ちびまる子ちゃん』の舞台となった街でもあります。市内には”まる子ちゃんランド”ミュージアムもあるとの事。実は「た」は、毎週TVで見ているというまる子ファンでもあります(※いらない情報か?笑)
清水駅前、静清合併により”市の玄関”ではなくなりましたが、地域の主要駅として栄えています
なお、静鉄の新清水駅とは少し離れています(※この後乗る、三保松原行のバスが途中で通ります)
駅前からバスに乗ります(※↑エスパルスのラッピング車)
↑三保松原入口バス停で下車。冒頭前述の通り、「た」の要望により、三保の松原へ行きます
バス停から松原までは約1km弱、少し距離があります。
その途中には~
神社があります。美穂神社です。この神社境内を通り抜けると、三保の松原へ続いています
三保の松原も、元々は同社の社領地だったとの事。
↑境内を怪しげに歩いて行く「た」
同社の信仰の源流は、古代日本で信じられてきた、海の彼方にあるとされる”理想郷”『常世の国』から神を迎えるという所からきているとされ、この後出てくる三保松原の”天女伝説”とともに、古代ロマンも秘めた成り立ちです^
そして神社を(※入ったバス停側と逆へ)出ると、今度は~
海(松原).へ向かって、↑直線の松並木が現れます。
これは・
↑通称『神の道』と呼ばれる松並木の道が、神社⇔松原間に延びています。約500m程あります
前回ツーリング作で来た時もここ、歩きました。9年ぶりでしたが全く変わってませんでした
一方、前回とは変化していたのが、9年前来た時にバイクを停めた、
↑松原の駐車場。前回の時は、仮設の観光案内所があったんですが、今はそれは無くなり、代わって出来ていたのが~
『みほしるべ』という、新たな観光&文化の拠点が2019年にオープン。先年の世界遺産指定をうけ、地域あげて力が入っています^
(※9年前の作、2014.5upの"静岡ツーリング始め"、末尾にリンク貼っておきます)
松原へ行く前に、見学します
正式名は『静岡市三保松原文化創造センター』といい、単に観光施設というよりは、三保松原の文化的/芸術的価値を紹介、継承し、さらに来訪者と地域との交流も図っていくという、極めて文化的志の高い施設です
2階建で、両階に松原や東海道、地域の自然について展示があります
松原だけに、↑松ぼっくりを集めたコーナーもw
↑交流スペースや企画展・イベント等もあり、世界遺産にふさわしい文化発信の場として今後が期待される施設です^
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ではいよいよ~
三保の松原へ!
(※国名勝・日本遺産・世界遺産構成物件)
全国にある”羽衣伝説”ですが、ここ三保にも
天女と漁師がここで出会い、天女が羽衣を掛けたという松があった場所ですが、↑現在の松は3代目です
太平洋が見えてきました!
お~
広大な松原の海岸です
↑の写真の地点から、見通し良ければ富士山が見えてるんですが、残念ながらこの日は見えず
前回、2014年のツーリングで来た時は見えたんですが、その時の写真は作末尾のリンクからご覧下さい^
↑無心に写真を撮る「た」
ちなみに、「た」も以前に一度来た事があるそうですが、その時は大雨だったそうで(汗笑)、今回はそのリベンジになったと満足そうでしたw
1922年、我が国初の”名勝”に指定され、さらに2013年、富士山等と共に『富士山~信仰の対象と芸術の源泉』として世界遺産構成物件の一つとなり、まさに日本を代表する名所といえる、静岡・三保の松原です
佐賀/虹ノ松原、福井/気比松原と共に”日本三大松原”として名高い、三保の松原をあとにします^
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場面変わって、清水駅へ戻る↑バス停近くの公園です
実はここも、2014年のツーリング作で来ています。
どこにでもありそうな郊外の公園ですが、ここには当別荘的には特筆しておくべきものがあります。それは~
かつて当地を走っていた、旧国鉄清水港線の終点・三保駅があった地です。
ホーム跡が残っています
廃止から約半世紀になろうとしていますが、今もホーム跡が残り、路盤跡も判ります。↑かつて線路があった所には桜の木が
貨車と入換用機各1両が保存されていました。日本有数の貨物取扱量がある清水港、鉄道と海運の貨物積替路線として重要な役割を果たしましたが、1984(昭和59)年、国鉄の終焉とともに廃止となりました
なおこの清水港線、廃止時には旅客列車が日に片道1本づつしか運転されず、日本一本数が少ない路線としても有名でした
この日は日曜だったので、桜の下で花見を楽しんでいるグループが見られました
かつて線路があった旧三保駅跡には、桜吹雪が舞っていました
なお、清水駅~三保間のバスですが、土日は本数が平日の半数以下に減便となっています。バスで行かれるかたは事前に時刻要チェックです。静鉄ジャストラインも人不足は深刻なようです
「た」×東海道53次コラボ、”三保松原付き興津企画”、ここでゴールです。清水駅から帰京の途へ
熱海までの"JR東海区間修行"に堪えw、熱海駅からはグリーン車のお世話に^
今回も「た」シリーズ恒例の”飲み”はお預けとし、グリーン車内でワンカップを傾ける「た」でした(※清水駅前で購入した、駿河の地酒)w
☆関連作リンク↓
vol.169 2014ツーリング始め 静岡・清水へ 登呂遺跡/三保松原/東照宮 他) | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
2014年に三保松原を訪ねた作です。旧清水港線についても少し書いています。又、登呂遺跡や久能山東照宮等、周辺の名所も訪れています^
vol.184 東海道53次ブラ⑧ 太平洋側の“親不知” 峠道に実るミカン 由比宿 | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
vol.331 東海道53次ブラ⑬ 2つの駅に挟まれた宿場 蒲原宿 | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
近隣の由比宿、蒲原宿には過去作で訪ねています。↑2作を貼っておきます。ご覧下さい^