vol.169 2014ツーリング始め 静岡・清水へ 登呂遺跡/三保松原/東照宮 他) | 旅ブログ Wo’s別荘

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 前作までのマレーシリーズ連載を終え、再び国内です^虹

当別荘春の恒例、ツーリング始めですグッド!

 

今年は、静岡へ走ってきました。ちょうど桜の時季あたりだったんですが、今作でご覧頂くスポットはいずれも、全国的にも超有名な所です。静岡きっての名所を3ヵ所、バイクWo号で巡ります。ではスタートします^桜



東名を一路西へ、静岡ICで降ります右下矢印

行ったのは4月上旬だったんですが、この日気温20℃を越え、初夏のような陽気、ツーリング日和の青空です晴れ

静岡ICは市街地の南郊、JR静岡駅から見れば海岸側に位置します。そしてこの地区にはご存じ、静岡を代表する史跡、登呂遺跡があります。まずはここから行ってみますDASH!

登呂遺跡へ、バスなら静岡駅から15分程です。

車やバイクの場合は、↑駐車場完備車

駐車場から遺跡へは、住宅地の中を少し歩きます。途中みかんを売る露店が出てたりして、静岡らしさを感じます^オレンジ

実は僕、登呂遺跡に来るのは2回目で、約10年ぶりなんですが、↑資料館が建て替えられてきれいになっていました(※2010年に改築したそうです)

予備知識なしで来たので、変貌にちょっと驚きましたひらめき電球

10年前来た時の資料館は、なんとなく薄暗~い感じwだった記憶があるんですが、↑改築なった新館は、中央部に外光が入るようにした階段&廊下になっていて、明るい印象合格

資料館は3階建で、1Fのみ無料、2F以上は入場券必要です。1Fは↑の体験コーナーと図書室等ですわんわん

↑2Fへ上がると~

階段踊り場が全面ガラスになっていて、遺跡を俯瞰できるようになっています目

(※遺跡内にも後程行きます)

2Fがメインの展示室になっています目

我が国で最も知名度が高い弥生遺跡ともいわれる、ここ静岡・登呂遺跡の全てを学べます本

出土品や資料を網羅しているだけでなく、当時の人々の暮らしや習慣も理解できる展示になっています。

登呂に行ったら、まず同館を見てから実際の遺跡へ行くという順がいいと思いますグッド!

この資料館で僕が一番興味をひかれたのは、↑メイン展示の横にあった小さな部屋。登呂遺跡の発見・発掘当時のいきさつを紹介しているコーナーです。

登呂遺跡の発見は1943(昭和18)年、当地で旧日本軍の工場を建設している時に発見されたとの事。しかし時局は戦時中・

 

簡単な調査は行われましたが、軍事機密という壁にも阻まれ、日々悪化する戦況の中、発掘は進捗しないまま終戦となりました。

そして、登呂遺跡の発掘が再開されたのは、まだ復興の緒もつかない終戦直後の1947(昭和22)年だったとの事です。日々の生活にも事欠く戦後の混乱にあった当時、なぜ登呂の発掘がいち早く再開されたのか?ですが・

 

↑同コーナー入口のパネルには、こう書いてありました(※以下抜粋)

>敗戦によって多くの人命や財産が失われて人々の心は傷つき、食料や物資も不足する困難な時期でしたが、それまでの神話に基づく日本歴史ではなく、科学的な事実に裏付けられた日本の歴史を解き明かしていこうとする発掘調査でした(※抜粋終)

 

当時、登呂遺跡の発掘をあえて行った意義は、単なる考古学の調査を越え、皇国史観に縛られていた国民を、科学と史実に基づいた歴史観に改めるという、まさに戦後日本人の希望のよりどころとなるような(※大げさでなく、ホント当時そうだったようです)全国民注目の調査だったとの事ですキラキラ

 

全国に弥生時代の遺跡は沢山あり、中には登呂より大規模なものや学術上貴重なものもありますが、なぜ”登呂”の知名度が今も全国的に高いのかは、こういう理由がありましたクリップ

 

↑写真、展示史料の中には、発掘の休憩時に食べたアイスキャンデーの領収書等、当時の人々の息遣いが感じられるようなものもあります。現地で泊まり込みで調査していた学者らに、地元の人がお米を持ち寄ったりしていた事もあったとの事です。

2F展示室を出て、↑さらに階段は上へつづいています右上矢印

↑3Fは屋上でした^虹

静岡市内方面への眺望もききます目

↑うっすら富士山も望めました富士山

なお、遺跡の周囲は住宅地です。温暖で土地も肥沃な静岡は、太古も今も、人類にとって住みやすい地域という事でしょうかイヒ

 

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資料館を出て外へ、↑遺跡を見に行きます目

住居跡の前に広がるのは弥生時代水田跡で、現在は古式に則っとった稲作が行われていますカエル

↑水田横には住居跡が並んでいます。

住居跡の周囲に写っている小学生のグループ、古代精米の体験学習をしていたようですが、精米したお米を鳩にやっているのを見た遺跡の管理人のおじさんが激怒していて大変でした(汗笑)あせる

↑弥生式住居が数棟復元されています。

ツーリング作、近作は遺跡モノが多い傾向(?)いて座

遺跡のはずれには↑小さなバス折返場があり、静岡駅からのバスはここに着きます(※駐車場の反対側です)バス

 

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登呂遺跡を出て、次に向かうのは~

↑標識にも出てますが、『久能山東照宮』&『三保の松原』を順に訪ねていきます馬

登呂から南下すると、↑すぐ海沿いのR150に出ます(※久能街道)

太平洋を横目で眺めながら、気持ちよく走れる道です^DASH!

登呂から約5kmで、↑久能山の門前街に着きます家

ご存じ、徳川家康ゆかりの久能山東照宮ですが、僕今回初訪問です走る人

久能山の名の通り、これから東照宮まで↑山を登っていきますあせる

昨年訪ねたこんぴらさん以来のキツい坂ですw

登り口の看板によると、この石段909段ある(※別の看板や久能山HPには1159段ともある)との事。こんぴらさんより多い段数ですあせる

↑しかも傾斜も急で、こんぴらさんのように途中お店が並んでるわけでもないので、けっこう修行の登りですあせる

しかし坂を登れば、↑太平洋を見下ろす絶景に出会えます^波

↑海岸沿いにビニールハウスの屋根が光っているのが見えますが、このあたりの名産、イチゴ畑です。春のシーズンにはイチゴ狩りも出来ますいちご



↑東照宮の社務所までたどり着きました。

ここから上は有料区域、拝観券を購入しさらに登りますとかげ

ご高齢等で足元不安なかたは、ここまで日本平ロープウェイで登ってくる事も出来ます。(※久能山一体は日本平エリア)虹



有料区域に入るとまず見えてくるのは、↑楼門(※国重文)

楼門をくぐると、本殿を囲う塀が次第にみえてきます目

↑煌びやかな屋根が見えてきました。本殿に参内します。

ちなみに本殿は長らく国重文でしたが、2010年に国宝に指定替えされましたベル

お~・

ゴージャスな印象の社殿ですキラキラ

 

”東照宮”といえば、贅を尽くした日光東照宮が有名ですが、この静岡の東照宮もなかなかのものです。

祭神はご存じ、日光と同じく徳川家康公です。

家康の死後まずこの久能山に葬られ、その後日光へ改葬されていますが、これは家康本人の『最初は久能山に葬り、その後一周忌を過ぎたら日光に“神”として祀るように』との遺言に基づいているとの事です。

↑徳川家の威光をそのまま表現しているような、屋根の装飾宝石赤

ここも創建時は、当別荘おなじみの”神仏習合”だったようで、五重塔などもあったらしいんですが、明治の神仏分離令で解体されたという事です。

そして、本殿の奥にひっそりとあるのが、↑神廟(※家康の墓所)、日光にも同様のものがあります。

 

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東照宮見学を終え、眼下に広がる太平洋を眺めながら下山。

↑ホント絶景でした^波



再びWo号に跨り、↑R150を東進しますDASH!

次は、三保の松原へ向かいますクローバー

清水へ入りましたヒツジ

ちなみに”清水市”というのは現在は無く、平成大合併により静岡市と併合、『静岡市清水区』になりました。この”静清合併”により静岡市は政令市へ昇格。全国の平成大合併中でも最も大型合併だった一例ですビル

 

三保の松原が近づいてきました^サーフィン

松原近くにある↑御穂神社から松原まで、松並木に囲まれた“神の道”という有難い名前の^遊歩道がのびています。

↑その先が三保の松原です走る人

バイク駐車場も完備自転車

バス駐車場には平日なのに観光バスで満車でした。

三保松原は先般、富士山とセットで世界遺産に指定され、その効果で観光客が増加しているとの事。↑こっこ売店の売上にもかなり貢献してるかも^ヒヨコ

世界遺産指定をうけ、急増する観光客に対応するため、↑観光案内所や展示室等がプレハブで急ぎ整備してありましたドア



では、↑三保の松原へ霧

(※世界遺産構成物件/国名勝)

登呂と同じく、僕はここ10年ぶりに来たんですが、広い砂浜や雄大な光景に改めて感嘆します^目

そして、東側に目をやると、松林のむこうに見えるのは、富士山の雄姿^富士山

松林と富士、そして海の見事なコラボ、この絶景が世界遺産として認められたというのは日本人としてうれしく思います。世界遺産で、主体地域から40km離れている付属地が認定されたのは世界的にもあまり例が無いそうですチョキ

松原の海岸沿いに、石の塀で囲まれているのが、↑羽衣の松クローバー

全国各地に伝わる”天女が舞い降りた”という『羽衣伝説』、ここ三保にもあります。

初代の松は↑ご覧のように惜しくも枯れ、現在脇に2代目を育成中です。ちなみに僕は”天女=宇宙人説”を支持していますwロボット

松原の中には縦横に遊歩道も整備されていますが、意外に歩いてる人は少なく見受けました。というのも、観光客の多くは『駐車場→松原を通り抜けて海岸→富士を仰いで駐車場へ戻る』という直線的な移動なので、歩き回る人は少数派のようですあし

 

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次に、松原の外れ、観光客があまり訪れない『三保半島の尖端』まで走ってみたいと思います。

看板に↑写ってますが、セスナ機用の三保飛行場が当地にあります飛行機

三保半島の太平洋側に建つ小さな灯台、↑清水灯台(※通称三保灯台)、1912(明治45)年初点。

地味な外観ですがこの灯台、我が国初のコンクリート製灯台だそうですひらめき電球

半島の尖端には、東海大学運営の『自然史博物館&海の博物館』があります。あまり知られていない博物館ですが大規模なもので、↑の『人工津波発生機』とかも屋外から見えましたクリップ



清水の街からクルッと東へカールして延びている形の三保半島、その尖端まで来ました。↑写真の小さな灯台は、真崎灯台ですひらめき電球

富士山も対岸に見える絶景ポイントなんですが、ここまで足を伸ばす観光客はほぼなく、静かな岬ですうお座

↑北に目をやると、三保半島にクルッと抱き込まれているような内湾のむこうに、清水の街が広がりますビル

 

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ところで"清水/三保"といえば、当別荘的に外せないネタがあります。かつてこの地には、”旧国鉄・清水港線”が走っていました黄色い花

 

東海道線の清水駅から三保まで、約8kmの支線が延びていましたが、国鉄末期の1984(昭和59)年、国鉄貨物合理化に伴い廃止となりました。

今作は、同線の廃線跡を訪ねてラストとします天使

往時の終点・旧三保駅跡が残されているという事で、見に行ってみますカメ



↑線路跡は一部遊歩道に、キロ程を示す表示もありました。

↑当時のホームが残されていました。

周辺は公園兼、地震時の避難場所として広場となっています。

役目を終えたプラットホームは、↑ニャンコの休憩所になっていました^にゃー

ホーム跡脇には、↑入換用機と貨車が保存されていました。
 

三保半島、松原の反対側(※清水市街側の沿岸)には工場が多く、清水港線はその貨物輸送を主目的として敷設されました。

しかし、徐々にトラック輸送が主力となる中で鉄道貨物は減少、国鉄民営化準備に伴う再建法施行により同線の貨物扱いが終了する事になり、前述の通り、1984年廃止となったものです。

 

一方、同線の旅客列車は、"朝に上り1本/夕方に下り1本"という、1日に片道1本づつしかない日本一列車本数が少ない線としても有名でした。古い話ですが僕も廃止前、一度乗りに来た事がありますが、その日1本の列車は廃止時の最後まで客車で運転されていましたあせる



旧駅前広場には、↑東日本大震災後に造られた、津波避難タワーがありました。有史以来度々大津波に襲われてきた静岡には欠かせない設備だと思います。

廃線跡遊歩道の横を、Wo号で行けるところまで走ってみますDASH!

廃線跡の遊歩道は途中で途切れていまいたが、途中↑の碑を見つけました。『清水次郎長宅跡』

江戸時代から重要な港湾だった清水港の権益を牛耳っていたという侠客、ご存じ・清水の次郎長ですが、三保半島在住でした家

 

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清水駅近くまで戻ってきましたブーケ2

JR清水駅からすぐ、現在はショッピングモールとなっている港沿いに、↑の鉄骨組の構造物があります。これ『テルファークレーン』といい、当時ここにあった清水港線・清水埠頭駅の貨車に、船から直接木材を吊り上げて積み込むために設置されたものだそうです。

1928(昭和3)年設置、当時は神戸・名古屋とここ清水にしか無かったという最新鋭の荷役機械だったとの事です星

 

当時、貨車1両に木材を積込むには、手作業で丸一日かかってたのを、このクレーンによりわずか48分に短縮されたとの事(※現地看板による)

我が国産業発展の歴史上大変貴重なものだという事で、2000年に国有形文化財として登録されています星



Wo号、↑JR清水駅まで戻ってきましたリサイクル

すっかり”JR東海化”(?)されてしまった清水駅、清水港線が分岐していた頃の面影はもうありません汗

清水の街に夕闇が迫ってきました。

2014年ツーリング始め、ここでゴールとしますフラッグ



↑東名清水ICから帰京の途につきます三日月

今年もWo号に跨り、全国を走っていきたいと思っています^ニコニコ

 

 

 

 

 

 

(※2023.1 2024.6 文一部修正)