vol.420 中世の日本に"自由都市" 太古から近代まで 歴史と文化重ねる街【堺】(後編) | 旅ブログ Wo’s別荘

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 大阪・堺街ブラ、後編です^グッド!

 

前編では、妙国寺や方違神社、古民家等、堺の歴史ある街並をご覧頂き、市役所の展望階にも昇りました。

今作・後編では、前作で言及してなかった堺の"自由(自治)都市"の歴史にもふれつつ、アノ仁徳天皇陵へも行ってみたいと思います。

では後半スタートです男の子

前作は↑の写真、『さかい利晶の杜』で終わっていました。

今作まずはここから見ていきます目

2015(平成27)年にオープンした、新しい施設です。

堺が生んだ"2大有名人"ともいえる、千利休と与謝野晶子をコラボで紹介している資料館です本

1Fは利休、2Fが晶子の展示室になっていますドア

"利休の部屋"から見ていきます^お茶

利休についての話以前に、当館の主眼は『なぜ、堺が利休を生んだのか?』についての解説に力を入れていました。

千利休といえば言わずもがな、茶道の元祖のような存在ですが、こういう人材が育つには、何より茶道を楽しもうという"余裕"、つまり経済的バックボーン、そして地域の環境というものも必要と思います。中世の堺は、まさにそれを備えていた都市でした星

 

↑の展示は、鎖国以前の日本で、貿易都市として栄えた堺の中心部、『環濠都市』に関してのものです。

我が国でも城下町等で多くみられる環濠都市ですが、堺の場合、環濠の中心は城ではなく、商家でした。現在の堺旧港(※ラストに訪ねます)から、現在の堺東駅付近まで、環濠が街の周囲に張り巡らされていました。現在でも一部現存しており、舟でクルーズするツアーもあります船

 

そんな環濠都市・堺で行われていたのが、16世紀を中心に、室町後期~安土桃山期頃に行われていたという、"会合衆"と呼ばれた有力商家の集まりによる『自治』でした。

戦国期にも、堺の環濠の中は大名の権力が及ばなかったともいわれ、当時全国的にも例を見ない"高度な地方自治"が行われていたそうです宝石ブルー

勿論これが出来たのは、貿易港としての富が堺の街を潤していた事が理由なのは言うまでもありません。当時、ポルトガルから来航した宣教師も「堺は、執政官が治めるベニスのような自治都市だ」と書き残し、また、フランシスコ・ザビエルも堺を訪れたとの事ですベル

中世ヨーロッパの地図にも堺は"SACAY

そんな繁栄を謳歌した堺でしたが、江戸期に入り、鎖国政策が導入されると、その独自の歩みに終止符を打ちました。

話を利休に戻します。

↑は再現された茶室ですが、利休は現在の茶道の原形、『わび茶』を確立した人物、"茶聖"とも称されますキラキラ

利休以前の茶道は『書院茶』とも呼ばれ、貴族や上級武家で行われていた、豪華さを競うような感じの茶の湯でした。

それに対して利休は、"禅"の心を採り入れ、余分なものを削ぎ落し、豪華な器や座敷ではなく、もてなしの心で茶を立てる事を旨としました。

↑往時の茶器も展示されていましたが、これら茶道具は『千家十職』といわれる工芸家集団が製作しました。利休茶道の流れをくむ、現在の"三千家"(※表千家/裏千家/武者小路千家)はいづれも、この千家十職が作る茶道具を用いましたお茶

 

利休についてはもう少し書きたいんですが、この後に同館隣の『旧宅跡』へ行きますので続きはそこにして、次は与謝野晶子の部屋^へ行きますヒツジ

 

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"晶子の部屋"は、↑2Fです右上矢印

晶子の展示へ・ウサギ

利休とともに、堺が生んだ有名人・与謝野晶子の生涯について詳細に解説しましたメモ

与謝野晶子(1878-1942)

現堺市の商家に生まれ、成人後、夫となる与謝野鉄幹と出会い上京。女性の恋愛感情をストレートに表現した、明治期としては画期的(※というか当時としては刺激的)な歌集「みだれ髪」を出版。

女性は慎まやかであるべきという当時の価値観からすれば"アッと驚き"の表現に、賛否両論の大論争になったとの事ドキドキ

 

これにより浪漫派歌人としての地位を得た晶子は、次々と先進的な詩歌を発表。戦前の日本で女子教育の必要性を訴え、自ら学校も設立する等、思想家としても活発に活動。

しかし、軍国主義に傾いてゆく日本で次第に自由な文筆がままならなくなる中、終戦を待たず、1942(昭和17)年死去。遺した作品の数々は、没後も長く読まれ続けているのはご存じの通りです本

↑晶子の書斎を再現。

右側の屏風には、晶子自筆と思われる、下書きとも落書きとも判然としない文字がびっしり目

晶子は、積極的に全国を旅した歌人でもありました。

各地で詩歌をしたため、足跡を残していますが、中でも鉄幹の父の出身・京都府旧加悦町は、平成大合併の際、そのゆかりから『与謝野町』と名付けられましたクリップ

↑森鴎外や石川啄木、北原白秋ら、錚々たる文壇の大家とも交流があり、我が国文化の進展に大いに貢献した晶子でした本

晶子の生家、↑和菓子屋を再現したコーナーも。

やはり堺は"商家が文化を育んだ"といって過言でありませんキラキラ

堺の"2大偉人"、なかなか見応えあった利昌の杜でした虹

 

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次に、利昌の杜の隣にある、千利休旧宅跡へ行きます男の子

ビルや商店が並ぶ宿院付近に、↑塀だけで仕切られた空地があります。ここが、利休の屋敷跡です。

門が開いているので、おじゃまします男の子

内部は~

↑空地です^

 

改めて千利休(1522-1591)ですが、ここにあった商家(※現在でいう倉庫業を営んでいたといわれる)で生まれました。

17才より茶道へ入り、後には信長や秀吉のお抱え茶堂となり、多くの弟子も持つ等、茶道の一大巨塔となりました。詳しくは、先程利昌の杜のところで書いた通りですクリップ

 

しかし晩年に秀吉の逆鱗に触れ(※秀吉の怒りをかった原因は諸説あるが定かでない)、切腹を下命され、無念の死を遂げたとされます。

 

日中は観光ボランティアさんが常駐しておられて、解説をして頂けます(※ここに限らず、前作の山口家住宅や清学院、また、この後行く仁徳陵等、堺の主な観光スポットには必ずボランティアさんがおられました^)グッド!

屋敷跡で唯一、往時から残るのが↑井戸宇宙人

 

ボランティアさんの話によると、その昔、堺の地下水は良質な事で知られ、茶の湯発達の一因ともなったとの事。

 

さらにここから広がる話として、明治期までの堺は、醤油や酒、味噌等の醸造業も盛んだったそうですビール

 

神戸・灘の宮水にも匹敵する程の良い水だったとの事ですが、明治末期頃から井戸水が枯渇し始め、昭和期には、堺の醸造業はほぼ全廃となったそうですあせる

 

しかしボランティアさんの話によると、地元の有志の方々が「堺の醸造業を復活させよう!」と数年前、堺では久々となる造り酒屋さんを設立したとの事星

ボランティアさんはそこに知り合いがいたそうで、「水はどこから手配してるんや?」と聞いたそうです。

すると、驚きの答えが返ってきたとの事。

それとは~

「水道の水や!」叫び

 

てっきり神戸から宮水をローリーで運んできていると思ってたそうなので、まさかの答えに仰天したそうですがw、でも大阪府各自治体の上水道は高度処理されている所が多いので、充分使えるのかも汗

話にちゃんと"オチ"があるのが、さすが関西^w合格

 

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利昌の杜を出て、宿院交差点を東へ、フェニックス通り等を歩き、再び堺東駅へ走る人

この『宿院』の由来は、北隣の大阪市住吉区にある住吉大社の例大祭で、神輿がここまで大和川を越えて渡御し、当地に御旅所があるところからきています(※住吉大社、過去作で訪ねているので末尾にリンク貼っておきます)

堺東駅前の商店街で昼食をとり~ナイフとフォーク

堺東駅から、南海電車に1駅だけ乗ります電車

堺東の次(※高野山方面)が三国ケ丘駅で、ここでJR阪和線とクロスしていますリサイクル

(※"三国ケ丘"の地名由来について、前作の方違神社のところで書いてますので参照下さい)

三国ケ丘でJR阪和線に乗換え、さらに1駅で・しっぽフリフリ

百舌鳥(もず)駅に着きました。ここで降ります右下矢印

この駅、全国唯一、『漢字で書くより、ひらがなのほうが字数が少ない駅』です^宝石赤

これから訪ねるのが、仁徳天皇陵です。

百舌鳥駅が最寄になります。

百舌鳥駅は、改札が上下線で別になってるので注意注意

(※開業時、阪和電鉄時代の名残で私鉄風)

仁徳陵は、踏切を渡って西側すぐにあります。

↑関空特急・はるか号が通過していきますハチ

踏切から仁徳陵へつづく、↑御陵通り車

この通りの北側が仁徳陵、南側が大仙公園という大きな公園になっていますクローバー

もうほぼ着いてるんですが、陵に隣接してビジターセンターがあるので寄っていきますカメ

センター内は、仁徳陵を中心に、ここ百舌鳥古墳群についてわかりやすく解説してくれています。陵へ行く前立寄り必須です^グッド!

前作でもチラッとふれましたが、百舌鳥古墳群は先年、大阪府初の世界遺産認定となった事で、現地は盛り上がってます^クラッカー

↑航空写真を見ると、堺がいかに"古墳密集都市"なのかを実感できます目

又、同センターでは、百舌鳥だけでなく関西の各古墳も紹介していて、当別荘で過去訪ねた高槻の今城塚古墳や、神戸の五色塚古墳の写真もありました(※末尾にリンク)

映像コーナーもあり、陵へ行く前にここで概要を頭に入れてから行くのがおすすめです映画

いよいよこれから陵の前へ行きますが、ここで改めて、仁徳陵について簡単に纏めておきます。

 

↑上空から見ないと全体の形がわからない巨大墳墓・仁徳天皇陵。大仙陵古墳等、多くの別名も持ちます(※宮内庁では「百舌鳥耳原中陵」という名を正式としている)

 

ご存じ、日本最大の前方後円墳で、長さ525m、幅最大347mあるとの事。エジプトのピラミッド、中国・秦の始皇帝墓とともに『世界3大墳墓』とも言われますあじさい

 

しかし、この墳墓が"本当に仁徳天皇のお墓なのか?"は、今なお学者の間でも結論が出ておらず、謎多い古墳でもありますサーチ

これから陵の前に行きますカメ

センターから御陵通りをすぐ・

自転車置場には↑"宮内庁"の文字がひらめき電球

ここが~

着きました、仁徳天皇陵の前ですしっぽフリフリ

拝所の前まで来ましたが、巨大なため、ここからだと全体像どころか、ここが何なのかさえわからない、まさに"謎の場所"です。

ただ、喧噪の街中とは一変した、独特の静寂とある種の緊張感も感じられる場所ではあります。

脇には、↑宮内庁の事務所家

柵の奥には鳥居、さらに奥には濠があるので、古墳内へは物理的にも立入出来ません。勿論宮内庁でも立入厳禁としています。

ここで、Wo流に、この"仁徳陵立入禁止"について、少し掘下げてみたいと思いますヒツジ

 

明治以降、仁徳陵は宮内庁の管理となり、一般の立入が厳密に制限されました。

江戸期までの仁徳陵は、よく管理・整備されてなかったので周囲の濠も一部埋まっていて、人々は自由に出入りして森で薪を取ったりしていたといいます。

 

ところが明治政府の世となり、天皇を神格化する政策をとったため、各地の天皇陵も"神聖な地"として厳しく管理し始めました。

仁徳陵も明治に入って濠が再掘削され、入れなくなりました。

 

天皇陵に対する厳しい立入制限は、戦後、民主主義となっても基本変わりませんでした。一般人どころか、学術調査をしたいと大学等から申請が多く寄せられても、宮内庁はかたくなに拒否し続けました。

 

21世紀に入り、ようやくこの"菊のカーテン"がわずかに開き始め、2008年に戦後初めて、学者による仁徳陵内部への立入調査が行われたそうです。又、2021年にも堺市と宮内庁が共同で調査を実施。研究者の根気と努力により、徐々に"天皇陵のタブー"に挑戦しつつあります。

 

僕は思うんですが、いまだに誰の墓か不明な状態となっているこの仁徳陵、本当に"仁徳天皇のお墓"かどうか、むしろ宮内庁自身がもっと積極的に調査させるべきだと思うんです。

仁徳陵が皇室の財産という事は、即ち主権者である国民の財産でもあります。その財産の出自と根拠を調査する事を、一行政機関である宮内庁の判断で拒否するというのが、そもそも憲法に反していると思います(大げさかもですが)

 

その上、古墳の中には宮内庁によって陵墓認定されていないものもあり(※陵墓参考地)、それらの古墳は立入や調査は自由です。

例えば前出の、当別荘で過去訪ねた高槻・今城塚古墳は天皇陵である可能性が高いとも言われています。今城塚は立入自由なのに、仁徳陵は厳しく閉鎖するというのは整合性がないと思うんですカエル

 

玉砂利とお濠のむこうにある、巨大な"禁断の地"、もっと開かれた皇室となるために、より詳細な学術調査、願わくば一般人向けの内部見学ツアーとかもあっていいと思います。一定のルールの下に参内する事は、決して「静謐を乱す」事ではないと、天国の仁徳天皇もきっとお思いでしょう^キラキラ

 

仁徳陵さいごに、肝心の仁徳天皇のプロフィールも簡単に書いておきます。神話の域ですが、4世紀頃に在位していたといわれ、都を高津宮(※現在の大阪市中央区)へ遷都した天皇です。

逸話として、街中に食事の準備をするための"かまどの煙"が民家から上がってないのを見た仁徳天皇は、民の窮状を察して3年間税を免除した、いわば"徳政令"を発したという有名な話がありますおにぎり

 

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つづいて、仁徳陵の向かい側、大仙公園内にある、堺市博物館を見学します男の子

1980年開館、現在ではユネスコの文化遺産研究センターの機能も兼ねていますロボット

おじゃまします(※堺、ホント見学箇所多かった^)あせる

内部は、堺の古代から近現代までをわかりやすく纏めている展示です目

古代の室では、↑先程の仁徳天皇陵を、明治初年に当時の堺県(※現在の大阪府域確定前、堺は現奈良県域と「堺県」を形成していた)が陵内を調査した際、石棺を発見したそうで、↑はその模型です。

明治維新直後の、陵墓が厳密管理される直前に調査が入ったと思われ、"ギリギリセーフ"で調査できた成果です^サーチ

↑金メッキが施された甲冑等の副葬品も発見されたそうですが、維新直後の混乱の当時、文献によって記述に違いがあるとの事で、本物が今どこにあるのか等、館の掲示には言及ありませんでした。

百舌鳥古墳群には約50もの墳墓が点在、豊富な出土品を展示していました目

 

次の部屋は中世へコスモス

中世の堺は、先程利昌の杜で詳述しましたが、貿易港として栄え、文化が花開いたのは前述した通りです波

鹿児島・種子島に着いたポルトガル船から鉄砲が伝えられたのはご存じの通りですが、その鉄砲をいち早く日本の武具としてものにしようとしたのが、堺をはじめとする↑関西の3ヵ所爆弾

 

国友(※現滋賀県長浜市)、根来(※現和歌山県岩出市)とともに、国産鉄砲の製造や操法の習得に努め、現在でも国友や根来は『鉄砲の里』として街おこしをしていますわんわん

先見性と情報力に優れていた当時の堺商人は早速種子島で製法を学び、堺で製造を始めました。その時蓄積された金属加工の技術は、その後の堺包丁、また明治期以降の自転車製造と、『堺金物』として地場産業に貢献する事となるんです自転車

そしてラストの室は、現代の堺の生活について纏めています。

祭礼の"だんじり"屋台等も展示。だんじりといえば南隣の岸和田市が有名ですが、堺をはじめ泉州各地でも同様の祭が行われています波

堺の足、↑南海電車開業時の時刻表も^電車

堺の歴史をわかりやすく教えてくれる博物館でした^

 

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大仙公園をブラブラしながら、百舌鳥駅へ戻ります。

駅近くにもいくつか小さな古墳がありますが、これらは仁徳陵の『陪冢』(ばいちょう)という附属墳で、周囲に約10の塚が残っています。

 

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場面かわって~

2作に亘った堺ブラ、ついにラスト立寄り箇所となりました。

堺に数あるターミナル駅のうち、一番海側にある、↑南海本線の堺駅です電車

ここから海まで歩き、交易都市・堺の礎となっていた"旧港"を見に行きます波

駅の南側、↑なんばん橋を渡りますカメ

橋名の通り、↑南蛮人がいましたw

なんばん橋から南海の高架をくぐり、海のほうへ走る人

その途中で、↑古い碑を見つけました。

「明治初年 佛人撃攘之地」

前作の妙国寺でふれましたが、当地に滞在していたフランス人と土佐藩士の間で起きた『堺事件』が発生した地です。

現地看板によると、1868(慶應4)年、無通告で来堺した仏人と、開国した日本で堺の警備を担当していた土佐藩士が衝突。仏人が死亡する事態となり、フランス側は日本へ謝罪・賠償と関係者の処断を要求。まだ外交力のなかった当時の日本は要求をほぼのむしかなく、土佐藩は(※明治政府はこの時点で、まだ完全に成立してなかった)20名の藩士に切腹を命じました。

 

そして前作で書きました通り、妙国寺で切腹が執行されました。次々と果てていく藩士の凄惨な有様に、立ち会っていたフランスの外交官は慄き、仏側の死亡者とほぼ同数の11名が終わったところで中止を申し入れたそうです。生麦事件や神戸事件と同様、開国直後の日本各地で起きた、外国との齟齬が引き起こした悲劇でした。

 

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堺旧港に着きました。

↑港にむかって立っている武士がいます。

この人は~

1978年にNHK大河ドラマ『黄金の日々』の主人公となった、呂宋助左衛門の像です。彼はフィリピン・ルソン島の壷を堺へ輸入し、巨万の富を得ました。「呂宋」の名はそこからきています(※本名は納屋)

現在は沖合に埋立がすすみ、入江のようになっている堺旧港船

旧港の先に、明治からの灯台が残っているというので行ってみます宇宙人

阪神高速湾岸線の高架をくぐると~

見えてきました目

お~^

美しい六角形、旧堺灯台ですひらめき電球

(※国史跡)

1877(明治10)年初点。現地で現存するものとしては日本最古の木造洋式灯台です星

1世紀に亘って堺港の安全を守ってきましたが、沖合へ埋立が進んだ事により新灯台が設置され、1968(昭和43)年消灯、その役目を終えました汗

現在は文化財として保存され、堺のシンボルとして親しまれていますしっぽフリフリ

灯台向かい側の工場壁には、↑巨大壁画が!

題して、『浪漫やさかい』

(※堺と、関西弁の"さかい"(△△なので)を掛けている)

帆船で上陸する南蛮人等が力強く描かれています。

利休ら文化人を生んできた堺の"富"は、まさにこの海からもたらされました波

日没をむかえました。大阪湾へ夕陽が沈んでいきます。

濃密だった堺の街ブラ、ここでお開きです^お月様

大小路電停から、再びチン電に乗り、今夜泊まる大阪市へ戻ります満月

 

堺街ブラ、前後2編おわります。ご覧頂き、有難うございました^グッド!

 

☆関連過去作リンク↓

vol.252 1000km!離れた2古社ペアリング 住吉大社&鹽竈神社 | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)

 

vol.292 大阪北部地震応援 郡衙、古墳、キリシタン・・歴史深々 北摂・高槻街ブラ | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)

 

 

 

 

 

 

(※2023.12 文一部修正)