vol.280 湖北・長浜ブラ(前) 日本3番目の鉄道はどこ!?盆栽の梅&日本最古駅舎の博物館 | 旅ブログ Wo’s別荘

旅ブログ Wo’s別荘

バイク・鉄道・街ブラ・寺社・ネコ^etc・・
とっ散らかしB級旅ブログ^
~~since 2007.6~~

 前作の『いまさらですが』とともに、昨年もう一つ発足させた新カテゴリー”滋賀県”、久々の新作です^グッド!

 

今作第2弾として、県の北部にある長浜市を取り上げます。

僕にとって大いに縁のある街(後述)で、あえてこれまで別荘ネタにはせず、温存していましたが・

 

滋賀県シリーズも始めたので、今回出す事にしましたにひひ

 

本作と次作の前後編2作で、長浜の街を歩きます走る人

今作は鉄道中心モノ、次作の後編で、長浜街ブラをご覧頂きます^

 

では長浜ブラ前編、スタートします男の子

やって参りました、JR北陸線・長浜駅電車

東海道線米原駅から分岐して3駅目ですが、電車はほとんど大阪方面から直通しており、JR西が東海道線の滋賀県内に付けている愛称”琵琶湖線”の一部という実態です。

僕はその昔、この長浜に4年間住んでいました。その頃はフツ~のコンクリート駅舎だったんですが、近年、後程行く”旧駅舎”に合わせた、レトロ調デザインに改築されています。

せっかくの新駅舎ですが、駅周囲にいろんな建物が新しく出来てて、せっかくの駅舎がよく見えなくなってますあせる

↑は伊吹山口のバスターミナルから撮影、辛うじて駅舎の全体が撮れるのはここからだけでしたカメラ

駅舎は、南北に走る北陸線を跨ぐ造りで、その東西両方に出られます。東側が”伊吹山口”、西側が”琵琶湖口”です左右矢印

駅東側に旧市街がありますが、次作(後編)で歩きます。

今作は、旧駅舎へ近い琵琶湖口から出ます波

琵琶湖口側は、改築前の駅舎時代には改札はありませんでした。

市街地は、前述の通り主に駅の東側なので、”裏口”的な感じですヒヨコ

琵琶湖口から歩いてすぐ、保存されている長浜駅旧駅舎が見えてきます。後程見学しますが、その前に、春先のこの時期しかやってない長浜のイベント、”盆梅展”をチラッと見に行きますブーケ1

(※撮影は3月上旬です)

長浜駅から南へ5分程、旧駅舎の隣にある『慶雲館(けいうんかん)』が会場ですベル
↑慶雲館の門は、この後行く旧長浜駅舎の真向かいにあります。
明治天皇が、当時開業直後の鉄道で長浜へ立ち寄る事になった際、その休憩所として突貫工事で造られたという、和風の迎賓館ですお茶
(※なので、旧駅舎が目の前にある)
そんな、急ごしらえで建てられたという慶雲館ですが、1世紀経った今では落ち着いた雰囲気になり、庭が大変立派なのも特徴ですあじさい
(※庭が国名勝に指定されている)
そんな慶雲館は、毎年1~3月頃、長浜に早春を告げる”盆梅展”の時期に会場として使われます。
盆梅とは名の通り”梅の盆栽”、僕久々に来ましたが、梅の香りがする館内は盆梅の鉢が所狭しと並んでいます^ブーケ2
展示の仕方は様々です。
オーソドックスに並んでいる鉢もあれば・
床の間風にしたり、屏風や照明等で演出したりしてる盆梅もあり、見せ方が凝っていてなかなか楽しめますグッド!

盆梅展に行ったら、↑窓の外、国名勝の庭も必見です目

慶雲館に隣接して、後年建てられたと思われる”新館”(?)へも順路はつづきます右上矢印

新館の盆梅もまた立派。展示盆梅のほとんどは地元・長浜の愛好家が栽培しているものですキラキラ

全部で数百鉢はあるでしょうか・

↑写真から香りが出てくれたらなぁ・にひひ

この”新館”には2階もあり、お茶席等があります。再び階段で1Fへ降りると土産コーナーがあって、そこが出口ですあし

(※靴は慶雲館入口で脱ぎ、渡されるレジ袋に入れて自分で持って歩きます)

土産コーナーは出口を出ても続きw、屋外には本物の梅の苗も売られていますハチ

出口を出たところには、盆梅展のために一年間丹精こめて育てる過程が掲示されていました。↑看板によれば長浜市には約2000本の盆梅が育成されているとあり、日本最大規模だという事ですひらめき電球

庭にはいくつかの碑があるんですが、↑だけ紹介しておきます。

これは芭蕉の句碑で、”蓬莱に きかはや伊勢の 初たより”

(※意:正月飾りを眺めていると、伊勢からめでたい初便りが聞こえてくるようだ)

この碑、高さ約5mあり、数ある芭蕉句碑の中でも日本最大との事ひらめき電球

 

-*-*-

慶雲館の門を出ると、その真ん前には~

ドーンと構える、↑2階建ての洋館ビル

↑が旧・長浜駅舎です。

1882(明治15)年完成、1903(明治36)年に駅舎が現在地へ移転するまで使われていました。

戦災も免れ、現存する駅舎で日本最古のものです(※鉄道記念物)キラキラ

近年この駅舎の裏手に新しい展示棟2棟が新築され、『長浜鉄道スクエア』としてリニューアルオープンしました。見学します^走る人

玄関を入った1Fは切符売場と改札があったスペース&各等級別の待合室があります椅子

明治期の駅の待合室は、等級別に分かれていました。昔の鉄道は、現在の航空機のクラスのように、1等と3等では大変な違いがあったようです。今のように「今日はちょっと奮発してグリーン車にすっか!」の世界じゃなかったそうですwクローバー

↑1・2等待合室は暖炉やソファーもあり、やや豪華な雰囲気^

なお、ここ長浜駅は東海道線が全通する前、長浜~大津間の琵琶湖を運航していた連絡船との接続駅としても賑わい、主要駅としてしっかりした設備を持っていました船

荷扱い室には荷物の模型も置かれ、なかなかリアルです^

駅長室も公開目

ガラスケースに入って照らされている駅長の人形がちょっとコワいw

僕が住んでいた頃(※リニューアル前)は、この旧駅舎だけ単独で公開されていました。その頃は↑2Fに展示があったんですが、現在その展示は新館に移され、2階は閉鎖されています。

 

では、その新館へ行ってみます(※2003年オープン)

↑改札口から通路が繋がっています。ここから先は僕も初めてです^目

前述の通り、新館は2棟あります。

『長浜鉄道文化館』&『北陸線電化記念館』です。

・で、『なぜ、滋賀県北部の小さな街・長浜市がこんな力を入れた鉄道展示館を持っているのか?』という事ですが、同館の展示をご覧頂くとわかります。順にみていきます^グッド!

まずは、長浜鉄道文化館からドア

木の骨組みが見える、↑ドーム型の屋根が独特^

展示の内容は、当地・滋賀県の鉄道を中心としつつも、日本全体の鉄道網発展の歩みを重ねつつ紐解いていく格調高いものでした^サーチ

ところで、"日本最初の鉄道"といえば、ご存じ・新橋~横浜間、1872・明治5年に開業しましたクラッカー
その2年後には大阪~神戸間が開通。
まずは関東と関西の主要都市から、という順当な感じですが・

 

ではその次、”日本で3番目の鉄道”ってどこだったんでしょうか?

 

これについては『計画の順番』と『実際に開業した順番』が異なるため一概には言えないんですが、計画ベースで言えば、明治政府は前述の新橋~横浜や大阪~神戸の計画時に、『京都~敦賀を結ぶ鉄道』も同時に決めていました。

 

太平洋側から日本海側へ抜けるルートとして江戸時代から重要視されていた、琵琶湖岸を通って近畿&東海から北陸へ続く要衝、ここ滋賀県北部に、日本最初の鉄道計画・3ルートのうち一つが定められましたクリップ

 

そして、その始発ターミナルとして建設されたのが、この旧長浜駅だったんです。

1882(明治15)年に長浜~敦賀間が一部のトンネル部を除いて開業しました星

(※但し、実際に開業が早かったのは1880・明治13年に開通した北海道の手宮線が先でした)

東海道本線は、この当時の時点で名古屋~京都間は中山道ルートで建設される事が決まっており、長浜駅は東海道と北陸を結ぶ結節点として重要な位置にありました。

 

又、↑パネルの通り、長浜~大津間は鉄道開通までの間、琵琶湖を連絡船で結んでいました。日本最初の鉄道連絡船は、海の無い滋賀県で始まったんです船

 

ここで『じゃあ米原駅は?』という話ですが、東海道線は開通当初米原は通らず、関ヶ原から長浜までを通る線が先に敷設されました。

今では痕跡も残ってませんが、明治期には長浜からまっすぐ東へ鉄道が延びていたそうです馬

 

その後、現在の関ヶ原~米原ルート開通に伴い長浜ルートは廃止され、連絡船だった大津~米原~長浜間も鉄道が開通、それにより米原駅が東海道と北陸のジャンクションとなりましたリサイクル

 

長浜駅は、我が国鉄道草創期の歴史をまさに地でいくような履歴を短期間で重ねた後、米原駅にその地位を譲って中間駅となっていったんです。

 

以上が、"なぜ長浜に、日本最古の駅舎や本格的な鉄道博物館があるのか?"の理由です^虹

 

-*-*-

展示後半は、北陸本線全体の話になってきます。

日本初の本州横断路線たらんと開業した北陸線、戦後もこの線では『日本初』の偉業が2つありました。

1つ目は、北陸トンネルの建設ドリル

 

北陸線の敦賀~今庄(※福井県南部)は、海岸ギリギリまで山また山の急峻な地形(※当別荘で14年7月にupした"福井ツーリング"を参照下さい)で、開通時はその山中を縫いながらグニャグニャと走っていましたあせる

急勾配が連続していた上、途中4ヵ所でスイッチバックもあったとの事で、非常に輸送上のネックになっていたとの事叫び

 

そこで同区間を一気にトンネルで越えてしまおうと、1962(昭和37)年に開通したのが北陸トンネルです。

 

長さ約13km、現在でも在来線の単独トンネルとしては日本最長のはずです。僕も何度かここを列車で通過しましたが、ホント「いつになったら出るのか」と思う位、時間の流れを遅く感じるトンネルです地下鉄

↑は北陸トンネル開業に伴う時刻変更を告知する当時の敦賀駅看板ですが、敦賀から”上野行”や”青森行”があったというのが隔世の感です時計

そしてもう1つの”北陸線が(実質)日本初”は、『交流電化』ひらめき電球

 

日本の鉄道電化は元々、モーターが回しやすかった直流で始められ、現在も首都圏や京阪神等の通勤電車はほとんど直流です。

しかし、電力会社から買う電気は交流で配電されてくる為、変電所で直流へ整流しなければならず、その整流や架線への送電時に生じる電力のロスが早くから指摘されていました叫び

 

そのため国鉄では、『交流のまま電化してモーターを回す研究』に取り組み、まず東北の仙台~山形を結ぶ仙山線で実験を開始。

仙山線もそのまま交流で営業運転を始めましたが、営業線として初めて本格的に交流で電化開業したのがこの北陸線です。

 

1957(昭和32)年、田村(※長浜の隣駅)~敦賀間が交流電化。

仙山線&北陸線の交流電化が順調に運用されたのを機に、北海道・東北・九州の各路線も交流で電化される事となり、その成果としてアノ東海道新幹線も交流電化で造られました。↑にある新幹線のオモチャも理由あって置かれてる(?)^新幹線

 

(※交流電化は、上記の”送電ロス”や”変電所の数を減らせる”事が直流に比べて大きなメリットという事で導入が進められましたが、近年は技術進歩により直流でも送電/整流ロスが少なくなってきたため、在来線では再び直流で新規電化される線区も多いです)

 

そんな、先進の歴史を歩んできた北陸線ですが、平成になりJRへ転換されても進歩は続きます^グッド!

 

京阪神からの快速電車を直通させるため、交流だった区間の一部を直流化するという、これまた全国初の試みを実行。これにより長浜への観光客がドッと激増しました。(※この直流化については、次作の長浜街ブラで詳述します)

 

文化館さいごに、↓の写真をご覧頂きますカメラ

1957(昭和32)年10月1日、木ノ本駅で行われた電化開業式の様子。

戦後復興を成し遂げ、オリンピックや新幹線建設も決まって元気があふれていた当時の日本、真新しい機関車に人々が喜びの声を上げています。当時の熱気が伝わってきそうな感動の一枚ですキラキラ

 

そして、↑の写真に写っている当時の最新鋭機、ED70 1号機が、なんと隣の建物、北陸線電化記念館に保存されています合格

文化館を出て、隣の建物のドアを開けると・

お~

先程の開業式の写真に写っていた、↑ED70 1号機ですキラキラ

半世紀前、人々の期待と熱気の中デビューした、交流電化1号機が目の前に・目

このED70、1975(昭和50)年まで活躍した後引退、敦賀の機関区で保管されていましたが、ここがリニューアルされた際に修復され、長浜へやってきたとの事です。

隣のSL・D51と2両で展示されてますが、なんか老夫婦が仲良く並んでいるみたいで、いい感じです^おひなさま

運転台も見学できます右上矢印

当別荘ではこれまでにも数々の鉄道博物館で運転台へ登ってますがw、やはり"車両って運転してナンボ(?)"、運転台に座らせてもらうと、往時を想像して楽しめます^グッド!

↑は金沢のJR工場で修復され、長浜へ運ばれる経過を紹介するパネル。この長浜保存実現には、大井川鉄道の車両保存等も手掛けている公益財団法人が尽力したそうです。

ED70は計19両製造されましたが、保存されているのはこの1号機だけで、大宮や京都の鉄博にも無い貴重なものです王冠1

↑天井裏から見下ろせるデッキもあって、細やかな演出が楽しい博物館です。先程の文化館と同様、木の骨組が温かみを感じます^
まだまだ紹介しきれてませんが、長浜街ブラでは立寄り必須の場所です。日本最古の駅舎の横には↑現役の北陸線。新快速が気持ちよく通過していきます^電車
さいごに↑を紹介しておわります。
旧駅舎の庭にある、線路を分岐させる『ポイント』。鉄道には欠かせないものですが、これ”現存する日本最古のポイント”だそうです。1881(明治14)年に神戸で製造されたもので、長浜駅構内で約80年間使われました。これも鉄道記念物指定ですしっぽフリフリ
 
-*-*-
盆梅展&鉄道スクエア見学を終えて、歩いてすぐの琵琶湖畔で休憩しますコーヒー
 
今作ここまでです!
 
次作・後編は、この琵琶湖岸にある珠玉の街、長浜を街ブラします。お楽しみに^ヒヨコ
 
 
 
 
 
(※2024.3 文一部修正)