毎年、2月といえば海外シリーズへ旅立つのが、当別荘恒例のパターンでしたが、今年は休暇取得が大変困難で、僕自身の公休と繋いでも3日間しか確保できず、今年は国内にしました
(※大晦日も三が日も全て仕事したのに・、涙)
しかしながら、その1年で一番の大旅行と位置付けしている"2月旅行"なので、凡々と済ますのも寂しいという事で、今回の行先は・
沖縄にしました。
2011年以来、7年ぶりです
今年の2月旅シリーズ・沖縄、4回シリーズでおおくりします。
なお後述しますが、本島での作以外に、離島へも赴き、今年の離島シリーズも兼ねます。けっこう凄い離島へ行ってきました。お楽しみ下さい。
ではスタートです
6:25発、羽田発JAL朝一便、厳寒の都内から脱出します^
今年(2018)の東京、30年ぶりとも言われる厳冬。この出発日の前週には都心で20cmもの積雪もあり、ホントこの時期の南国逃避行はホッとしますw
日航機B777は順調に飛行し、約2時間半後・
7年ぶりの島影、沖縄本島へ突入するJALの翼
自衛隊機が居並ぶ横、軍民共用の那覇空港に着陸
到着早々、いきなり驚かされたのが、
着陸時に機窓から見えた↑の飛行機
「え!南西航空?」
(※↑写真、偶然ですが後ろにモノレールが写り込んだベストショットに^^)
かつては"沖縄で飛行機"といえば南西航空でしたが、とっくの昔に日本トランスオーシャン航空(JTA)に社名変更し、機体もJALと同じ塗装に変更したはず。しかし↑機窓の先にはオレンジと赤の南西航空機、あれは幻なのか・w
帰ってから調べると、幻ではなく^、JTAがB737のうち1機を、懐かしの南西航空カラーにして運航していたとの事。
そして何と、僕が今回訪沖した1/31の前日、1/30にこの機は引退したとの事。僕が目撃した↑の姿、役目を終えた翌日の姿だったんです
凄いラッキーでした^
幸先よく那覇空港に到着、ランの花が所々に飾られた空港内、心を休暇モードに誘います
那覇空港の特徴といえば、国内線ビル内にもある↑免税店。
沖縄振興の特例法に基き、国内線客も免税ショッピングが出来る我が国唯一の空港です^
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空港ビルを出ると~
お~、暖かい・
氷点下の東京から2時間余でもう、15℃ある那覇。南国感満点です
そして、那覇空港から市内への足といえば・
モノレール(※ゆいレール)です
渡り廊下で続く、空港駅へ
那覇空港駅、改札横にある↑『日本最西端の駅』碑
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ここで、今シリーズの目的(1)と、テーマ(2)を発表します(※そんな大層なw)
(1)今回3日間のうち、本島で過ごすのは今作(※到着初日)一日だけとなり、あとの二日は『ある離島』へ行きます。
その離島を初訪問するのが、今シリーズ第一の目的です
(2)あと、本島でのテーマは『沖縄に”鉄”を求めて』です。
鉄とは勿論鉄道の事で、早速モノレールも登場しましたが、沖縄で鉄ネタなんて他にあるのか?という事だと思います。
しかし・
鉄ネタ、沖縄にもあるんです
那覇の街を走っているモノレール、、今作でこの後すぐ、同社本社にある“ゆいレール展示館”も訪ねるほか、那覇の街中に点在する"鉄分"、更には戦前本島を走っていた『県営鉄道』の駅跡を復元している、那覇東郊の与那原町へも足を伸ばします。お付合い下さい
・という事で、市内へ出る前にまず、空港駅から高架下を歩き、
『ゆいレール展示館』へと向かいます。
空港から歩いて10分程です
空港駅と、次の赤嶺駅の中間に、モノレールの本社/車庫、そして展示館があります
会社の門にも↑シーサーが・
さすが沖縄です^
門を入って左手に、展示館があります。
↑の建物ですが、なんか展示館というより業務用建物という感じw
展示館玄関の横には↑乗務区の入口、その奥には車庫があります。
車庫は直接見えませんが、塀や各建物の隙間から停まっているモノレールがチラッと見えます^
おじゃまします
(※入場無料)
朝一の開館直後だったので、僕が一番乗りw
入ってまず導れるのが、↑映像ルーム
モノレール歴史や計画・建設時の経過の記録画像のほか、モノレールに関する歌等も流れ、なかなか見入ってしまいます^
TVモニターの周囲には、歴史を語る写真や資料が展示されています。↑は開業時のポスターです。
ゆいレールは2003(平成15)年、那覇空港~首里間の約12km、15駅で開業しました
建物は2階建でしたが、1Fにはモノレール関係の史料、2Fには『モノレール以外の鉄道史料』があります
愛称”ゆいレール”として親しまれる、沖縄都市モノレール
県・那覇市や財界、民間企業等が出資する、第3セクターで運営しています。
戦後、アメリカ統治下ですっかり車社会になっていた沖縄、建設にあたっては資金繰りの他、この『車社会に慣れていた県民に理解を求める』事が大変だったようです。
開通は前述の通り2003年でしたが、会社設立は1982年、開通まで20年余を要しました。
そんな苦難の歴史を物語る展示品の数々は興味深かったですが、それと同時に、この展示館でひときわ感じたのは、『モノレールに対する愛情の深さ』
同線のキャッチフレーズは、"みんなで育てよう県民の財産"
『ゆいレール』の名の通り、沖縄県民の絆をつなぐ鉄路として育っています^
2018現在、首里から北東方向の浦添市へ約4kmの、延伸工事が行われています
(※2023追記: 2019年、首里~てだこ浦西間開業。さらに2023年には3両増結も始まり、進化を続けています)
つづいて、2Fへ
2階は、本土の鉄道(※旧国鉄・JR)や、戦前沖縄本島を走っていた県営鉄道等の展示でした。
この2階、なかなか貴重な史料多数だったので、順に見ていきます
↑年表の内容も興味深い。
現状、車社会の沖縄ですが、でもそれは戦後からの事。それ以前には連綿とした、鉄軌道を中心とする"知られざる、戦前沖縄の公共交通"の歴史がありました。
その沖縄交通歴史の中で最も重要な年が、『1914(大正3)年』
↑この年、沖縄本島になんと、3種の鉄道が同時開業
後程与那原町のところで詳述する県営軽便鉄道のほか、那覇市内に路面電車、又、与那原から東岸への馬車鉄道も開業し、現在の沖縄から想像も出来ないような鉄道ネットワークがあったんです(驚)
戦前、本島を走っていた、↑軽便鉄道の写真
現在は那覇バスターミナルになっている場所、↑写真の旧那覇駅は、その場所にありました。
同駅から3方向に向け、路線が延びていました(※県鉄については、後程行く旧与那原駅のところで詳述)
それと注目なのが、本土の鉄道に関する史料が思いのほか充実している事。よく集めてきたなぁと驚きです
本土鉄道展示の中でも、とりわけ沖縄に関係あるのが、
↑"寝台特急なは号"に関する展示
"なは"の名前、まだアメリカ施政下にあった1968(昭和43)年、沖縄県の新聞社が『本州に、沖縄復帰の願いを込めた名前の列車を走らせよう』と列車名を公募。候補名を国鉄に提出して実現したものだそうです。
なは号、当初は大阪~西鹿児島間の昼行特急でしたが、その後夜行に。運転区間等は度々変更しながらもJR転換後も生き残り、2008年まで運転されていました。
↑は廃止後JR九州から譲渡され、"名付け親の地"にやってきたヘッドマーク
ホント、無料なのにこんな充実してていいのか?wという程の展示館でした。少しでも鉄分ある人は、那覇へ行ったら訪問必須です^
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展示館見学を終え、空港駅に戻りました。ではいよいよモノレール乗車・
7年ぶりの沖縄モノレール乗車です
空港駅から1駅目、↑赤嶺駅に早速途中下車。
1日券にしたので乗降し放題^
赤嶺駅は、『日本最南端の駅』です
冒頭ご覧頂いた那覇空港駅が『最西端』なので、2駅連続で、日本最端駅を訪問できるという訳です^
赤嶺駅は、碑を撮るためにチラッと降りただけでした。
次は~
次は、本格的(?)に途中下車します。
この駅は・
空港から5駅目、壷川駅です
市街中心部の少し南郊に位置しますが、なぜこの駅で下車したかというと・
現在鉄道が無い沖縄、しかし那覇市内には、鉄道車両を保存展示している公園が2ヵ所ある、という事がわかりました
2ヵ所とも壷川駅から歩いて行けるので、訪ねてみます
1ヵ所目は、駅から歩いて数分、壷川東公園へ
この公園の奥に・
小さな機関車が見えてきました。
SLのような形にも見えますが、↑ディーゼル機関車です。
しかし外板は無く、エンジン部が丸見え。保存状態はよろしくないようです
ここ壷川には、先程ゆいレール展示館で見た、旧県営鉄道の線路が通ってたんですが、↑はその軽便の車両ではなく、南大東島で走っていた、サトウキビ運搬用の鉄道で使われていた機関車です。
(※県営鉄道の車両は、戦争で破壊されたか、残ったものもスクラップにされ、全く残っていない)
でもなぜ、遠く離れた離島の機関車がここに・?
機関車の脇にあった説明板には、旧軽便鉄道についての記述だけで、現物の機関車については『南大東島から来た』としか書いてなく、肝心の"なぜ壷川にあるのか?"は謎のままです
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続いて2ヵ所目の公園には、徒歩でも行けるんですが・
上り坂なので、ちょうど来たバスに5分程乗って行きますw
↑与儀十字路バス停で下車。
ここは幹線道路同士が交わっている、那覇市でも有数の主要交差点です
この交差点の角にある、『与儀公園』です
那覇市内でも有数の、大きな公園です。
↑早速見えてきました、SLのようです
先程の壷川東公園のは小さなナローゲージ車両でしたが、今度のは大きい!
しかも、本土の蒸気機関車
旧国鉄蒸機を代表するD51、デゴイチがここ那覇に!(驚)
このD51、金網で厳重に囲われている上、周囲に樹木も多く、どこから撮影するかが難しかったんですが、↑金網の隙間からレンズを入れ、何とか撮れましたw
このD51 222号機、1938(昭和13)年製造、九州各線を走ってきました。車号プレートの下の『延』は、最終配置地・南延岡機関区の記号。
では肝心の、なぜこのSLがはるばる沖縄へ、海を渡る事になったのか?ですが・
現地解説板によれば、本土復帰の直後、旧国鉄・門司鉄道管理局職員が、沖縄の子供たちを門司へ招待する企画をしたとの事。
その時、当時まだ九州を走っていた国鉄SLの雄姿に子供たちは心奪われ「ぜひ沖縄にほしい!」と要望。
そこで国鉄職員を中心に輸送費1000万円余(※当時)を寄付で集め、廃車機から当機を選抜、鹿児島から600kmの船旅を経て、無事那覇へやってきたとの事です。
九州と沖縄の友愛の象徴として、塗装塗替等の手入もこまめにされてると見受けられ、大切に保存されているようです
ただ、僕が気になったのは、多雨の沖縄なのに『屋根が付いてない』事。保存車両が登場する作でよく書いてますが、静態保存車は屋根の有無でその後の"持ち"が大違い。設置を検討してほしいなぁと思います
大きな公園なので、バスの時間まで少し散策していきます^
↑"ヤシ落下注意"が沖縄っぽいです
ガジュマルの木からは、↑空気中の水分を吸う地上根が垂れる
この与儀公園、桜の木も多数あり、毎年2月(早!)に桜まつりがあるそうです
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次は、那覇市内を出て、与儀十字路からバスで与那原町へ行きます。
与那原へのバスは、与儀公園向いにある↑那覇警察署の前から出ています
バス待ちの間、この警察署玄関前で、↑面白いものを見つけました。
玄関横、『ふれあい之鐘』とありますが・
しかし↑の通り鐘は無く、代りに鐘の写真付の解説板が
それによると、↑煉瓦の台の上には、かつて鐘がありました。
その鐘は、先の大戦で焼き尽くされた那覇の街から一市民が掘り出し、市内の寺に保管されていたものを、1988(昭和63)年に那覇署が現在地に移転したのを記念して、設置されたそうです。
それ以来、レンガ台座の上で市民に親しまれてきたんですが、その後に学術調査をしたところこの鐘、15世紀の琉球王国時代につくられた、超貴重なものだと判明
「こりゃ大変、屋外には置いとけない!」という事で、慌てて撤去w
現在は、県立博物館にあるとの事です
与那原への↑バスが来ました。
これから約30分程乗って、那覇市から東へ10km弱の与那原町へ向かいます
(※沖縄のバスについては、次作で詳述します)
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↑与那原町役場入口停留所で下車。
ここから歩いてすぐ、目的地です。
淡いグレーに塗られた、平屋のコンクリ建物が。
これが、アノ・
ゆいレール展示館でも少しふれましたが、かつて沖縄に走っていた県営軽便鉄道・与那原駅、復元された駅舎です。
2014年に復元され、町立の鉄道資料館としてオープンしました。
駅舎前の石碑は1921(大正10)年、皇太子(※後の昭和天皇)が訪欧途中に来沖、与那原から那覇まで乗車された事の記念碑。お召列車まで走った鉄道だったんです
入場券は、昔の切符(※硬券)を模した形。
しかも、裏返すと・↓
当時の乗車券面を見事復刻!
小さな復元駅舎ですが、その展示資料は、ここでしか見れない興味深いものばかりでした
↑の写真は終戦直後、無残に破壊された与那原駅舎。
冒頭のゆいレール資料館で前述しましたが、沖縄県営鉄道は1914(大正3)年、那覇~与那原間(約9km)が最初に開通。
その後、南は糸満/北は嘉手納へも路線を延ばし、那覇から3方向に延びる、計50km余の、"沖縄本島鉄道ネットワーク"を形成していました
通勤通学のほか、海水浴等への行楽客等でも活躍。
又、20周年時には記念列車も走らせる等、本土の鉄道と何ら変わりない運営がされていました。
軌間762mm(※ナローゲージ)の軽便鉄道で、県民からは沖縄読み"ケービン"と呼ばれて親しまれていました
しかし戦時、戦時色濃くなった1944(昭和19)年以降は軍用鉄道と化していき、翌1945年春頃には3線とも運転を休止。
そして、激烈な沖縄地上戦や空襲により、街と共に、鉄道施設も破壊し尽されました。沖縄を走った鉄道は、戦災という理不尽な理由でその歩みが止められました。
ちなみに、2018現在も"廃止届"は出されておらず、書類上は休止中なんだそうです。
↑終戦直後、破壊された機関車が廃墟の中にある、貴重な写真。
復興のため、金属としてスクラップに出され、当時の車両は1両も現存しません。
戦後、琉球政府が復活を検討した時期もあったそうですが実現せず、やがて沖縄は車社会になり、沖縄からは、鉄道の記憶も痕跡も薄れ、無くなってゆきました。
勿論、こういう博物館必須の↑年表もあり、充実の内容です。
↑4つ上に、終戦後の廃墟と化した駅舎の写真を載せましたが、この与那原駅舎、軽便唯一のコンクリート造だったという事で、鉄骨が多少残っていたのか、なんと修復され、町役場として長年使われていました。
その後、役場が新築移転してからは農協がしばらく使用。その農協も移転した後、『旧駅舎を甦らせよう!』との機運が高まり、2014年に往古の駅舎へ復旧、リニューアルオープンしました
駅舎の裏手には、↑現役当時の柱(基礎)が残されています。
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