vol.274 実は大パワースポット? 東村山市を街ブラ (西武の支線乗りまくり付) | 旅ブログ Wo’s別荘

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 全国各地を訪ねている当別荘ですが・

でも普段の休日に僕が動き回る行動範囲といえば、現住地に近いJRと東急沿線あたりに偏る傾向ですあせる

 

上京10余年になろうとするのに、都内でもJR以外の私鉄では、未乗車の線がまだ沢山残っています電車

例えば、今作で訪ねた西武線もです。

 

メインの新宿線と池袋線には、何かと乗る機会もありますが、それ以外に沢山ある支線は今も僕にはフロンティアゾーンですしし座

 

それに伴い、当然その未踏破沿線の街も歩いてないという事で、今年からちょこちょこ機会をみて、これら"都内の穴"を少しづつ攻めていきたいと思います^かたつむり

 

西武沿線といえば、西武球場がある所沢や、小江戸・川越、はたまた秩父等が思い浮かびますが・ナゾの人

 

今作で訪ねるのは、アノ大コメディアンの出身地で、地名(市名)自体は知名度高いですが、地元のかた以外"降りて歩いた人"はそう多くはない街です。

東村山市へ訪ねてみたいと思います。ではスタートですグッド!

 

やってきました。

西武新宿線・東村山駅です電車

東京都多摩地区のベッドタウンである東村山ですが、実は見どころも豊富で、市役所のHPで街歩きのマップをDL出来ます。印刷して持ってきましたサーチ

 

この手の街といえば、一昨年のバスブラで訪ねた狛江市の時も、市のHPで配布していたマップを基に廻りましたが(16.5.9up vol.226)、その時と似た感じの街ブラになりそうです^;

 

東村山のマップには、『多摩屈指のパワースポットMAP』と書いてあります。はたして、どんな強力なパワースポットなのか・ロボット

早速歩き出します走る人

スタートは、↑東村山駅西口から(※同駅には西口・東口がある)

西口周辺の道路はちょっと狭めあせる

お、早速、↑マップ1ヵ所目にも書かれているスポットが・

猿田彦神社へ行きます馬

住宅地の中にある、小さな神社でしたチューリップ黄

猿田彦神社を名乗る神社は全国に沢山あり、当別荘でも過去、伊勢の猿田彦神社へ行きましたが、主に交通安全にご利益ありとする神社が多いといいます。

 

で、この東村山の猿田彦神社は・

社殿横にあった由来板を読んでちょっと驚きました。この神社、先程乗ってきた西武線と深い縁がある事を知りました。

 

1894(明治27)年、西武の前身・川越鉄道によって当地に鉄道開通、東村山駅が開業したのに合わせ、この近くにあった庚申さんを移し、道の神である猿田彦の神を勧請し、鉄道交通の安全と地域の発展を願って建立されたそうです。祭礼も鉄道開業の月に合わせて行われているとの事です。

 

この小さな神社には、大きな意味があったんです星

(※この地域の西武線の歴史については後述)

冒頭、『狛江街ブラの時と似ている』と書きました。大括りには同じ多摩地域なので当然といえばそれまでですがあせる、違いを感じたのは、案内看板は東村山のほうがよく見かけ、狛江より迷いにくいと思いますw男の子

 

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つづいて、池がある公園に出ましたカエル

弁天池公園といいます。

名の通り、池の真ん中に弁天さんを祀る祠がありました。

碑には"出世弁天天女塚"とあります。

一見静かな住宅地の中に次々現れるパワースポット、MAPの題名に偽りなさそうです^

 
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次は~

街道沿いにポツンとあった、↑ワイルドで不思議な雰囲気のお店家

店名看板も無く閉店していたため、何のお店かわかりませんでしたが、窓ガラスはピカピカに磨かれていて、廃屋ではないようです^

 

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ここから後は、お寺が連続します^もみじ

まずは『大善院』へ。

本堂を守るように立つ、↑左右2つの岩山が特徴的富士山

1899(明治32)年、八王子から当地に移転した天台宗の寺院で、滋賀県の比叡山延暦寺を大本山としています。

 

同寺の本堂横には・

境内にも↑大きな岩山があり、そこには沢山の石像が!

↑の石像たち、不動明王に眷属して衆生救済を手伝っていた、三十六童子の像です。ちゃんと36体あります。

今も岩山から、東村山の衆生を見守っています。

 

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次は、本日のメインともいえる、”国宝”があるお寺へカメ

正福寺(※臨済宗)へヒツジ

門を入ると~

すぐ見えてくる、↑大木の左横にあるのが、地蔵院です。

僕現地で初めて知ったんですが、この地蔵院、都内唯一の国宝建造物ですキラキラ

昨年の作、『裏神戸ツーリング』で出てきた太山寺が神戸市唯一の国宝建造物でしたが、都内でここだけとは意外でした。

重文なら23区内にも山程ありますが、改めて"重文と国宝間の、垣根の高さ"を考えましたひらめき電球

それほど貴重な建物が、ここ東村山にあったとは・

1407年の建立と伝わり、禅宗様の仏殿として我が国を代表するものだそうです。

これは来て良かったですグッド!

入口の額にも、しっかり"国宝"と書かれています。

内部には、千体地蔵尊像という小さなお地蔵さんが約900体あり、内部は年1回だけ公開されるという事です。(※地蔵さんは同市指定文化財)

同寺の本堂は地蔵院の奥手にありましたが、新しげな建物だったので割愛しますあじさい

 

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正福寺を出て、さらに市街地から奥へ歩くと、田んぼと森が広がる風景になってきますクローバー

東京都の市部でも、まだこういう"武蔵野の情景"が残っていますとかげ

民有地の水田も存在し、一部は市立北山公園として開放されていますヒマワリ

写ってませんが、公園の奥には西武・西武園線が通っていて、その向こうに見えている森は↑八国山緑地といい、トトロの森のモデルになった場所と言われます。

さらに森のむこうは、埼玉県所沢市です霧

 

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次に訪れるのは、その西武園線ぞいにある、市立『ふるさと歴史館』ですビル

近年、全国でも多くの自治体が自前の資料館等を持っていますが、当別荘としてはネタ集めが非常にはかどって助かりますw^

立派な館内ですキラキラ

同館には、常設と企画の2展示室があります。

まずは常設から目

ここに来れば、東村山が歩んできた、悠久の歴史が学べます^本

↑館内掲示によると、東村山に人類が住みだしたのは約2万年前(※旧石器時代)からだそうです。

しかし同館パネルには、『近隣の小平市からは約3万年前の石器が発見された』とあり、小平には惜しくも1万年負けてますw

中世の東村山には、豊かな仏教文化が花開きました。先程来歩いてきた寺院ご覧の通りです。館内に板碑が多く展示されていました。

江戸期には農村として栄えた東村山、幕府の鷹狩り場もあったといいます。

↑の地図は、農閑期を利用して庶民が歩いたという旅の行路ですが、東村山から2カ月かかって熱田神宮→伊勢→奈良→讃岐金毘羅山→京→信州善光寺→榛名山等を巡るという、超豪華なコース(驚)

現在でも、旅行社がこういうバスツアー組めばたちまちお客が集まりそうな魅力的なルートだと思いますバス

 

明治維新後、廃藩置県初期の経過の中で、東村山周辺は幾度も県境の引き直しが行われ、一時は”韮山県”という伊豆半島まで含む県に入っていた事もあったそうです。

最終的には、多摩地区の所属は東京府になり、現在に至りますが、↑明治期の公文書には"埼玉県"や"神奈川県"発行のものも見られますクリップ

そして、文明開化の波がこの多摩の丘にも波及してくると、東村山には現在の西武各線の元となる、鉄道が次々と敷かれました。

今日の、ベッドタウンとしての素地が、着々と築かれていったんです。

あと、東村山には"もう一つの過去"があります。

ハンセン病療養施設の多磨全生園があり、誤った認識からいわれなき差別と闘いながらも地域に溶け込んでいった人々の、力強い歴史を紹介していました。

↑は、企画展示室にあった『東村山の変遷』写真集。

50年前、20年前、現在の3時系列で定点撮影した写真が興味深いカメラ

 

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歴史館を出て、踏切を渡り~ベル

もう1ヵ寺行きます。

徳蔵寺(※臨済宗)です。

東村山は禅宗が多い印象がしますもみじ

徳蔵寺には、↑本堂の横に大きな収蔵庫があり、この中には国重文の板碑が収められています(※この日は閉ってました)あせる

ここの本尊は観音様なんですが、お寺にあった碑文、『貴方は本日、観音様をお参りに来られましたが、実は貴方自身が観音様なのです』という文言が印象的でしたキラキラ

 

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徳蔵寺から、もう少し住宅地を歩くと・・走る人

八国山の森に近い小さな公園に、↑『久米川古戦場』の碑がありました。

鎌倉時代の1333年、幕府軍と反幕府勢力の間で繰り広げられた、我が国でもかつては全国で勃発していた内戦の址です。ここ、マップにも載っている有名スポットですが、その割には地味でしたあせる

古戦場で、↑東村山のニャンコ発見ネコ

 

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コースもゴールに近づいてきましたが、東村山には↑造り酒屋もあります。

豊島屋酒造といい、『金婚正宗』というブランドで、工場直売もしています。富士からの伏流水を深井戸で汲み上げ、醸造しているそうですお酒

 

同市HPにあったルートマップにも続いて歩いてきましたが、ラストは、『鎌倉古街道』という細道を通るコースになります。

かつては本当に鎌倉まで繋がっていた古道で、先程の久米川の戦いのような有事が起きれば、『いざ鎌倉!』と幕臣たちが鎌倉へ馳せ参じていた道でした馬

鎌倉古街道沿いにあった小さな神社、↑白山神社。

ここの紙シデの飾り方が独特でした。

 

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ゴールの東村山駅が近づいてきましたてんとうむし

スタートした時と逆側、東村山駅東口がゴールですフラッグ

逆光でわかりにくいですが、↑東村山駅東口には3本のケヤキが立っています。

この木は・

『志村けんの木』クリスマスツリー

同市出身で一番の有名人といえる、ドリフターズで一世を風靡した志村けんさん。8時ダヨ!全員集合で彼が歌った『東村山音頭』で同市の名前を全国に広めた功績を讃え、1976(昭和51)年に植樹したものだそうです。植樹から40年、大きく育っています宝石ブルー

 

『東村山といえばこの人!』の名が出たところで、東村山ブラ、ゴールです^ブーケ1

(※2023追記:志村けんさんは、2020年、新型コロナウィルス感染症により逝去されました)

 

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☆ここから、付録編です虹

 

ご当地、東村山駅から分岐している西武の支線に乗ってみたいと思います^電車

↑西武路線図をご覧下さい。↑図左が新宿、右が川越側です。

 

小平で拝島線がV字型に分れ、中央下あたりに東村山駅がありますが、同駅から『西武園線』&『国分寺線』の2線が分岐。

”多摩湖線”も含め、拝島線に絡まっています。実は東村山駅、乗換ターミナル駅です。

上記3線に、今から初乗車してみます^ヒツジ

まずは西武園線。

東村山駅~西武園駅間、1駅だけの盲腸線です(※路線長2.4km)

車両はこのあと乗る、国分寺線や新宿線と同じタイプでした。

単線ですが、↑軌道の規格は新宿線並、快適な走りです^とかげ

↑終点・西武園駅到着。1面2線ながら広々として立派、盲腸線といえどさすが西武、堂々たる駅ですしし座

丘陵地帯の住宅地に囲まれた窪地につくられた↑西武園駅。

駅名の通り、ここからすぐに同社経営の遊園地・西武園ゆうえんちがあります観覧車

駅から、遊園地のフェンス横を約10分歩くと・

"もう一つ"の西武の駅がひらめき電球

↑西武多摩湖線・西武遊園地駅です。

路線図では離れて表示されてますが、歩10分位で行けますカメ

 

写真ありませんが、両駅の横には人造湖、多摩湖があり、そこへの遊楽客誘致を目的に、戦前は上記の2線、別会社で開業しました。

ライバルだった2社が、各々鉄道を敷設。戦時中の国策で両社とも西武へ合併し、今に至るという訳です。

そしてこの西武遊園地駅には、もう一つ路線がきています。

↑新交通システムで敷設された、山口線ですロボット

所沢の西武球場まで結んでいますが、同線は日本唯一の”大手私鉄が直営する新交通”なんです。

ゆりかもめや神戸ポートライナー等、新交通って第3セクターの独立社が経営する場合が多いので、珍しい例ですクリップ

この駅も、↑盲腸線ながら広々。

同駅周辺には遊園地や多摩湖のほか、競輪場もあり、開催日には多くの乗客があります。先程の西武園駅共々、それらの波動輸送対応のため広いホームが必要なのかもです自転車

同線の電車は、↑ちょっと昭和チックな古いタイプ^(※2018年当時)

多磨湖線は、西武遊園地~国分寺間・約9kmですチューリップ黄

途中、単線だったり複線になったり・

終点・国分寺駅に着きました。同駅で、東村山への国分寺線と接続しています。

東村山から、支線乗継で1周出来るという訳です^(※西武園~西武遊園地間の徒歩を含む)

国分寺駅といえば、JR中央線とも接続しています。

↑連絡改札もあり、通しの切符やICカードを所持していれば直接JR駅に入れます電車

 

西武支線乗りまくり、ラストは国分寺線のホームへ(※多摩湖線ホームとは分離していて、構内は繋がっていない)

JR線の横に、西武両線のホームが並行しています。

いつも中央線側から眺めていた西武ホーム、初めて西武側から見ましたw目

この国分寺線、実は西武で一番古い路線(※1894・明治27年開通)で、新宿線より先に開通してたんです。

当初、東村山から鉄道で都心へ出るには、国分寺線で国分寺駅に出て、甲武鉄道(現JR中央線)に乗り換えるというのが、定番だったとの事。

この日一日ですっかり眼に馴染んだw黄色い電車で、東村山へ戻ります^リサイクル

国分寺~東村山間、約8kmの国分寺線です。

↑東村山駅に戻ってきました。

約1時間半で西武の支線を一挙3線も初制覇しました(笑)クラッカー

 

今作では、静かな多摩の一衛星都市、東村山でしたが、重厚な歴史と、思いのほか豊富な名所、そして西武が築いてきた細やかな鉄道網の恩恵をうけて栄えてきた街という事を、歩いて実感しました。

志村けんさんが往時、あれだけ全国に発信し続けていた郷土愛には、確固たる裏付けがあったという事を思い知りました星

 

 

 

 

 

 

(※2023.7 文一部修正)