vol.238 バスブラ2016-2⑧ ディープ(?)な歴史の街 飯能 &バスで行く名栗のダム | 旅ブログ Wo’s別荘

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 例年1回づつおおくりしている”バスブラ”シリーズですが、今年は、春にupした渋谷~調布(狛江)に次ぎ、特別に2回目をやってみたいと思います^グッド!


池袋から1時間弱、西武に乗って埼玉県西郊・飯能駅に着きましたおにぎり
今作のバスブラは、ここからバスに乗ります^

ごはんの”飯”と、能力の”能”・
僕はここ、前々から気になってた地名ですw

編集にあたり由来を調べてみたところ数説あり、一番有力な説は武蔵七党(中世の関東に存在していた地域的武士団)のうちの一人、判乃氏が当地に住んでいたからだとの事です。

他には、武蔵野の端に位置する『端の野(はしのの)』からとか、年貢が半納になっていた期間があったからとか、いろいろあり定説は無いようです。
そんな諸説の中で、僕が一番関心ひかれたのは、この地域元々”高麗(こま)”と称し、太古に朝鮮半島からの渡来人が切り開いた土地で、韓国・朝鮮語で『大きな郷』を意味する”ハンナラ”からきているという説波

そういえば前回のバスブラ、5/9upの狛江(こまえ)も”高麗”からきているという説を、KAZUさんからコメントでご指摘頂きました。この地域には高麗川も流れてますし、何か関連があるのかもです^虹

冒頭から地名で力が入り過ぎましたのでw、飯能駅に戻ってスタートします^


西武池袋線、途中所沢で新宿線とクロスし、池袋~秩父を結んでいますが、終点・秩父へは、ここ飯能駅でスイッチバックする線形です。
つまり、飯能駅で”終点状”になっています。
池袋から来た電車は特急レッドアローを除いて全て飯能止めで、秩父へは特急以外ここで乗換ですリサイクル

乗ってきた電車の左側に、↑レッドアローが入ってきました^
特急のみは同駅でスイッチバックして、進行方向を逆にして秩父へ直通しますカエル

飯能、かなり以前秩父へ行った時に通った記憶はありますが、降りるのは初めてです^

↑駅ビル『ぺぺ』や、ホテルと一体になった駅舎です。
西武といえばペペw

ここから、バスブラらしくなってきますwバス
この日乗るバス、出発は飯能駅北口バスターミナルからです。

このターミナル、↑ポールは3本だけなんですが、大変多数の系統が発着しているため、1ポールあたりの扱い系統数が多く、初めて乗る人にはやや複雑です。
平日朝とあって、沢山の通学生が待っています学校

あまりに1ポールあたりの系統が多いため、2番乗り場では↑珍しい工夫をしてました。
照明入りの行燈式ポール(※これが2番乗場の本ポール)の少し前方に、棒だけのポールを『2-2乗場』として補助的に設置し、系統によって分けて(ずらして)停めていた事。
誤乗を少しでも防止するためと思われますが、効果の程はどうなんでしょうか?^あせる


↑国際興業バス・飯3系統、名郷行が入ってきました。これに乗りますDASH!
2016現在、同ターミナルは国際興業バスのみが乗入れています。

ちなみに今作は、同行者がいます。バスブラや九州シリーズでブレーンとなってくれている会社の同僚、『写真に写ると魂が抜ける氏』(※略称:写魂氏)が今作の企画・同行をしてくれましたカメラ


発車しました!
まずは市街地を抜け、隣駅の東飯能駅前(※JR八高線に接続)にも寄っていきます。

すぐに家並みは少なくなり、郊外の風景になってきます。

さらに30分程走ると、郊外というより山村の趣きになります。
途中、狭隘な旧道に入る区間があり、もしここでバス同士出会ったら?というドライバー泣かせの道でした叫び

車窓には、山が近くなってきました。秩父山系に入ります^

終点近くの、川又名栗湖入口バス停で下車します男の子

降りてからバスを改めて見ると、↑派手なラッピングが貼ってあります。これ飯能市の”萌えキャラ”、『ヤマノススメ』だそうですあせる

停留所のすぐ近くを、入間川が流れています。
この辺り、川の谷合いにある集落なんですみずがめ座

静かな山里です。
ここは、2005年までは入間郡名栗村だった所で、平成大合併で飯能市に編入されています。

この近くにダムがあるというので、行ってみることにします目

坂道を登るにつれ、↑山里の全景が姿を見せます。

バス停からダムまで1km程という事なんですが、前日に九州旅行から帰ってきたばかりだという同僚は、「この登り坂はこたえる」と言ってました^あせる

歩き始めて15分程で、ダムの斜面がみえてきました目
岩を積み上げた堤の”ロックフィル式”のようです。


やってきました、有間ダムです。


静かな山懐に抱かれて、水を満々とたたえていますみずがめ座
池袋から1時間少しと思えないような、静寂の森です霧

前後しますが、登り口には↑”なぐりづえ”と名付けた『杖』が用意してありました。
名栗村の”おもてなし”です^

↑は、ダムへの道に描かれていた壁画です。地元の高校生等が制作したそうです。
この壁画に描かれている群像は、1866(慶応2)年に起きた『武州世直し一揆』を表現したものです。
この、武州世直し一揆とは~

現地看板によると、ここ名栗の地を発端として、重税や債務過重に対する農民の不満が爆発した事による一揆が当地であり、7日間の間に関東全域に飛び火し、関東最大の一揆だったとの事メラメラ

この一揆に参加した農民等は約10万人に及んだとの事で、ただでさえ不安定だった幕末の世に与えた影響は大きく、江戸幕府の崩壊を早めた要因の一つになったともいわれています。

・この後飯能市内へ戻って街ブラするんですが、飯能は、もっといろんな歴史を秘めた街だった事が判ってきます^クローバー

・往路と同系統のバスで、市内へ戻りますリサイクル

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駅ビルで、遅い朝食のあと・
(※↑は駅ビルのレストランから見た飯能市内)

駅前から、飯能街ブラに出発します^
↑の看板にもありますが、飯能市内にはいくつかウォーキングコースが設定されていますあし

駅前通りにあった、埼玉名物『ぎょうざの満洲』
山田うどんと共に、埼玉県を本拠とする2大ソウルフードのチェーンですね^ラーメン

駅前大通り商店街(※立派な名)をすすむと~

早速目に留まった、↑洋館風の建物。
飯能織物協同組合事務所です。
僕現地で知ったんですが、飯能は昔から絹織物が特産で、『飯能大島紬』と呼ばれる位だそうです。

現地看板によれば、大きく財をなして成功した絹商人は、武蔵野鉄道(※現西武)を飯能まで延伸するため、私財を投じた者もいたそうです。
この豪華な洋館も、豊かだった飯能を今に伝える建物です。洋風ながら屋根には瓦が葺かれ、シャチホコが置かれる等、凝ったつくりになっていました。

さらに市内を歩きます走る人

同じ埼玉県でも、川越のようにビシッと観光化されてはいません。しかし飯能には、特徴ある建物が街角に突然現れるような面白さを感じます。

↑の、修復中なのか一部ブルーシートがかかっている建物は~

↑の古屋敷は『店蔵絹甚』といい、1904(明治37)年築だそうです。その名の通り、絹織物や絹糸等を扱う店を営んでいたとの事(※飯能市指定文化財)
重厚な屋根のつくりに、絹織物で潤った明治期の飯能を偲ぶことができますキラキラ

川越のように観光化されていない割には、街中に案内標識は多く、歩きやすい街です^
↑の標識のうしろにも写ってますが、市街全体に古い蔵や屋敷が点在していますグッド!

途中にあった、↑老舗のうなぎ屋さん^
その横の路地には・

↑『畑屋横丁』という通称のようで(うなぎ屋さんの名から)、その下には地元の演歌歌手の唄う”夜の飯能”の楽譜が♪
この唄、4番まであるんですがw、1番だけ書き写してきました^夜の街
夜の酒場で のむ酒は 胸にジンとくる
 君のうつり香 グラスのふちに 
 そっと唇 あててみる
 ああ飯能 夜の街
カクテルグラス

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駅から西へ歩いていくと、↑の三叉路で行止まりとなりました。
飯能河原交差点で、三叉路のむこうは名の通り、河原となっています。

三叉路の付け根には公民館(?)があり、その下を通り抜けて河原へ行けるようになっています。

その河原も、飯能名所の一つだとの事で、階段を降りて川まで行ってみます右下矢印

市内を流れる、入間川の土手へ・

お~
なかなかいい感じの、のんびり出来そうな河原です。
飯能市民の憩いの場でしょうか^コーヒー

入間川は、ちょうどこのあたりで市内を避けるように大きくカーブしていて、そのカーブのあたりに親水スペースが設けられています^宇宙人

川では、↑遠足の小学生が服のまま水遊びしてました。今時かなりワイルド(笑)
ちなみに行ったのは9月で、この日はまだかなり暑かったです晴れ

河原でキャンプしてる人も。
飯能って、地理的にも雰囲気的にも、”川越と秩父の中間をとっている”という雰囲気に思いました^

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次は、市内北方にある”天覧山”を目指して歩きます走る人

その途中にあった、↑飯能市の郷土館。
小さな常設展示がありましたが、その展示の中心は『入間川の筏流し』でした。
先程河原をご覧頂いた入間川では、近世まで秩父山系で切り出した木材を筏に組み、入間川で船頭が操りながら江戸・深川まで運ぶ、水運に利用されていました(※入間川は荒川へ合流)

1926(大正15)年、武蔵野鉄道(※現西武)が飯能まで開通、木材輸送は鉄道に代り、伝統の筏流しは昭和初期に姿を消したとの事ですうお座

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↑天覧山が見えてきました霧
その手前には、大きめなお寺の門が。おじゃましてみます。

能仁寺です(※曹洞宗)

緑に包まれた、広い境内です。

現在の本堂は、1936(昭和11)年に再建されたものです。
”再建”という文言ですが、同寺はかつて、激動の時代に翻弄された歴史があります。同寺に掲出されていた沿革看板の内容を↓に紹介します。

明治維新の1868(慶応4)年、日本は、大転換と混乱の中にありました。
徳川慶喜は政権を朝廷に奉還し、謹慎生活に入りましたが、これに納得しない旧幕臣の一部は『彰義隊』を結成。
さらにその一部が分派して『振武軍』を現在の西東京市付近で結成し、江戸へ攻め入ろうとしました。

しかし、明治政府軍が既に首都をおさえていて間に合わず、そこで同隊は少し引いて飯能の地に現れ、ここ能仁寺等飯能市内6カ寺に駐屯したそうです。この寺は内戦の最前線となっていたんです。

明治政府軍はこれらの隊を、”旧幕府残党の朝敵”とし、掃討に着手。現在の狭山市付近で戦端を開き、数時間でこの飯能も征伐、明治政府軍の圧勝に終わったとの事。
その際、能仁寺ほか4ヵ寺と約200軒の民家が焼失したという事です。
時に1868(慶応4~明治元)年5月23日、これを『飯能戦争』というそうです。


飯能は、明治維新の際に全国で起こっていた”内戦”、その激戦地の一つだったんです。


そんな歴史ある能仁寺の横の公園にある、↑『鉄腕アトム』の像^

像の傍らにあった説明板には、
「地域のシンボルとして親しまれるようにと、1983年に立てられた。除幕式には手塚治虫さんもお見えになった」とあり、手塚さん本人が写った写真もありました。

でも、肝心の『手塚さんと飯能の縁とは?』について、像には全く言及されておらず、後日調べてみると~ナゾの人

一時期、治虫さんは飯能に仕事場兼住居を新築しての移住を検討していたとの事。結局これは実現しなかったんですが、これが縁で像を造る事を治虫さんに打診、快諾を得た上除幕式にも来訪しました。
さらには、除幕当初無かった”像の銘板”の作成費用として、もらったばかりの講演料を置いていったとの事。
又、これ以降、全国の自治体等から「アトム像を造りたい」と申し出があっても、治虫さんは「飯能にもうあるから」と断っていたそうです星

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飯能河原の近くまで戻ってきました。
この近くに、もう一つお寺があるので寄ってみます。

観音寺(※真言宗)

同寺の境内に入ると迎えてくれるのが、↑『象の像』w
なんか包帯を巻いたミイラのような感も^

冒頭、名栗へのバスで見た、↑「ヤマノススメ」萌えキャラがここにも^

この観音寺、紹介しきれない程いろんな仏様を祀っており、まるで世界中の仏様が集まってきているようなお寺でした。

本尊は如意輪観世音だそうですが、境内にはその他、鬼子母神、七福神、天狗地蔵等多数の神仏が揃い^^、又、四国八十八カ所の御砂踏みもありました。
まさに『八百万の仏が集う寺』^

同寺は、能仁寺と同様、先の飯能戦争で焼失し、現在の本堂は明治期のものです。江戸期には庶民信仰の中心をなって賑わい、『法の音 幾世絶えせず仰ぐらん 百の願いの 人の心よ』という御詠歌も伝わるとの事です。

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駅近くの商店街まで戻ってきました。
この界隈、数々の面白い発見が・^

↑陶器/漆器のお店なんですが、なぜか『キムチあります』w

↑”パン屋さんですよ!”わかりやすい看板w食パン

理由は不明ですが、↑農協の地下駐車場がなぜか閉鎖され、その入口の前に、1台だけ置ける駐車スペースをつくってありました(謎)

石材店には福助像・くまモン・ハローキティの揃い踏みw

噛めば噛むほど味が出るコンブのような、歩けば歩くほど魅力のわかるような飯能の街です^

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バスで訪ねた名栗地区の山並み、そして少しディープな、しかし歴史の深みもある飯能の街ブラ、駅に戻ったところでゴールとしますフラッグ

思い出深い街が一つ増えました。往路と同じく西武で帰京します電車
駅に行くと待っていたのが”横浜・中華街行”で、あまりにも現実に引き戻されそうな行先だったのでw、写魂氏と1本待って池袋行きにしました^あせる

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※今作の写真について※
途中でカメラが電池切れになってしまい(汗)、一部スマホで撮った画像です。そのスマホの写真、一部横倒しになってしまって見づらくなっております(詫)あせる
なお、名栗世直し一揆の壁画と飯能河原の写真は、写魂氏の撮影ですカメラ




(2023.5 文一部修正)