今年も師走、ツーリング納めの時季になりました
本年・2014年、明治政府の重要政策”殖産興業”の代名詞ともいえる存在、富岡製糸場が世界遺産指定へというニュースが駆け抜けました
という事で今年は、上州・富岡市を走り納めの地にします。早速スタートします
↑上信越道・富岡ICで降ります
このICから製糸場へ行くなら、地図もナビもいらないと思います。ここから製糸場へは、案内標識がこれでもかと道々に掲げられています
世界遺産指定をうけ、↑設置されたばかりと思われる真新しい標識が街中にあふれていました
富岡市内には、急増する製糸場への見学客に対応するため、急ピッチで駐車場が整備されつつあります
製糸場に近い駐車場ほど料金は高くなりますが、僕がバイクを停めたのは↑看板、上信電鉄の駅裏にあった無料駐車場です(※製糸場まで歩いて20分弱です)
駐車場へ入る踏切からは、↑上信電鉄の上州富岡駅がみえています。製糸場へ行く前に、駅に寄ってみます^
意外な光景が
一瞬"これ駅?"と疑うような、↑一直線に貫く長細い屋根
上信電鉄・上州富岡駅前の大屋根です
最近改築されたとの事ですが、斬新なデザインです
長~い大屋根の下に、↑駅舎や自転車置場等が一体に入っていて、デザインだけでなく機能的な面も
駅にも、↑製糸場世界遺産指定を祝う看板
この”斬新駅リニュ”も、製糸場への来客増を見越した化粧直しでしょう
↑ちょうど電車が入ってきました^
上信電鉄、JR高崎駅~ここ富岡を経由し、下仁田へ至るローカル私鉄です。昼間毎時1~2本程です。
駅近くにある、↑富岡市役所
ここにも世界遺産指定を祝う幕、そして『国宝指定』の幕も(※国宝については後述します)
街中のお店にもあちこちに、世界遺産を祝う文字が躍ります^
行った日の時点で、世界遺産指定から半年程経っていましたが、まだまだ感激さめやらぬという雰囲気の富岡市街です^
富岡市は人口約5万(※2014現在)、群馬県のひなびた一地方都市ですが、昨今にわかに街中へ溢れ出した観光客相手に、これまで地元の人相手だったお店が改装し、土産物を置きだすお店が急増しています(※街中については、製糸場見学後に)
群馬の地元紙、上毛新聞の支局が途中にあったんですが、↑世界遺産指定時に出した号外を増刷して置いてありました^
駅(駐車場)から歩いて約15分、↑路地の奥に、煉瓦造りの建物が見えてきました。
着きました!富岡製糸場です^
↑門から沢山の見学客が吸い込まれていきます
建物正面の通路上には、↑『明治五年』と記された石の銘板が。
1872(明治5)年、つい数年前まで刀を差しチョンマゲを結った侍が支配していた日本は、明治維新によって未曾有の急激な変化を遂げました。急激に進出してくる欧米列強に対抗する為、明治政府は『殖産興業』政策を大車輪で推し進め、近代化を急ぎました。
そしてこの群馬・富岡の地に、日本初の『機械で大量に製品をつくる工場』として創設したのが、この富岡製糸場です
僕思うんですが、↑年月を明記した銘板を目立つ場所に埋め込んだというのは、明治政府は『この工場は将来、きっと記念碑的なものになる』と先読みして取付けたものではないかと・
↑文化庁のプレスリリースがそのまま拡大コピーして張り出されてましたが、この内容は『富岡製糸場が新たに”国宝指定”の方針が伝えられた』との通知。
工場だった建物が国宝というのはほとんど前例が無いとの事です
まずは、東繭倉庫の中にある”ガイダンス展示”を見て、製糸場についてにわか勉強します^
↑の展示室に、製糸場の歴史が凝縮されています。
富岡製糸場は、時々の運営者の変遷で『官営時代』→『三井時代』→『原時代』→『片倉時代』の4期に分れ、各々の時代に歩んできた進化を解説していました。
当初は国直営でスタートした同製糸場ですが、その後民間へ払い下げられ、ラストのオーナー企業となった片倉(※現片倉工業)について特に詳細な解説がありました。
先の大戦を跨ぎ、戦後も長くこの製糸場を運営したそうですが、国際的なコスト競争の中、次第に収益が難しくなり、1987(昭和62)年、110年に及ぶ製糸場の歴史にピリオドを打ったとの事です
閉鎖後は、片倉工業HPによると『貸さない、売らない、壊さない』の方針の下、一般公開もせず、維持管理に専念して守り続けてきたとの事。年間約1億円もの経費をかけ、閉鎖された工場を守ってきたそうです。一民間企業が、採算度外視で文化財を守り抜いてきたんです(驚)
片倉は製糸場の歴史的価値を充分わかっていて、遊休資産となっていた製糸場の建物・設備・敷地を、繰り返しですが採算度外視で守ってきました。ホント頭が下がりますし、"企業は公器"という事を経営者のかたが心得ておられたんだと思います
平成に入り、今後の保存について群馬県や富岡市と協議を重ね、2005(平成17)年、市に譲渡される事になり、その後一般公開に至りました。文化財として、再び人々の前へ登場する事となりました
今般、世界遺産指定に堪える優れた保存状態を保っていたのは、上記の片倉の努力・功績が非常に大きいと思います
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それと、展示で強調していたのは、↑この製糸場を何より支えていた、『工女さんの働き』
社会科の教科書にも登場する富岡製糸場ですが、僕の年代にはその時セットで”女工哀史”といわれた工女さんの重労働について聞いたものです。彼女達の日夜の奮闘のおかげで、日本の殖産興業が世界を席巻した、と習ったんですが・
しかし近年では”そればかりでなく、先進的な労働条件も採り入れていた”という史実もだんだん知られてきました。以降みていきます
繭から絹糸を紡ぐ工程についても詳しく展示・解説していましたが、行っていた工程の一つ一つは非常に繊細なものだと感じました。
工程の機械化は時代と共に進んでいったものの、最終的には工女さんの"手"が重要だったという事が、展示で強調されていました。
展示棟の部屋の一つには、↑お土産店も^
この土産売店、現役時代は事務所だったみたいで、目標などを記した掲示物がそのまま残されていました
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東繭倉庫を出て、広い構内を廻ろうと裏手へ行くと~
↑『乾燥場』(※繭を乾燥させていた)とありますが、何の工事かと思いきや・
一部枠が低く、↑内部が見える所があったので覗いてみると・
メチャメチャに破壊されています
今冬の豪雪の重みで全壊したそうで、現在復旧にむけて作業しているとの事です。
そして一番奥には、↑先程見たメイン展示棟・東繭倉庫と同じ造りの建物がありました。
対をなす『西繭倉庫』です。西繭倉庫は内部非公開です。
敷地内のあちこちで発掘調査が行われていました。
現在内部公開されている建物はホンの一部で、今なお整備中の部分も多いんです
かつて製糸場のシンボルだった巨大煙突、当初は鉄製だったそうですが、↑現在残っているのはコンクリート製です。
工場の片隅にひっそりと建っていた、↑大正天皇(だと思います)の即位を祝う記念碑。
明治・大正・昭和、文字通り日本の殖産興業の担い手だった富岡製糸場は皇室との交流も深く、各時代の皇族も度々ここを訪問しているとの事です。現在でも皇居内で皇后が養蚕をされていますが、明治期の製糸・紡績業は、日本の基幹産業だったという事でしょう。
最初に入った東繭倉庫は、文字通り”倉庫”として使われていましたが、これから入るのは『製造の場』、いよいよ工場らしくなってきます^
“世界遺産の心臓部”へ
↑長細く広い工場内、紡績機械が往時のまま保存されています。見事な光景です
この機械ブースの一つ一つの前に工女さんが立ち、絹糸を取っていた所です。
↑操業当時の生産目標を書いた黒板が残されていて、当時の息吹を伝えます
この操糸工場、一般来客が見学できるのは半分程で、↑奥の半分は機械にカバーが掛けられ、大切に保存されています。
操糸工場からチラッと見える、↑非公開部分の廊下。
工女さんが日々奮闘し、闊歩していた頃を想像出来る光景です
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操糸工場を出ると、↑あちこちに団体さんが。連日大盛況の世界遺産です^
次は、↑『ブリュナ館』という建物
富岡製糸場設立にあたり明治政府は、技術や通商の指導をうけるため、フランスからポール・ブリュナを招請。
ブリュナが創業から5年間住んでいた、"工場長社宅"です。
工場長室として使われたのは彼が在日していた5年間だけで、契約が切れてブリュナ帰国後は、工女さんたちの『学校』として使われていました。
↑写真は外から廊下を撮ったものです(※内部非公開)
現在では大企業が企業内病院や診療所を持っている例がありますが、富岡製糸場そのさきがけといわれ、欧州式の『企業内福利厚生制度』を我が国初で取り入れた一例と言われています。
↑敷地の一番奥には、寄宿舎がありました
全国から集まった女工さんたちの泣き笑いが、ここで繰り広げられていたんでしょう
敷地の一番端は、↑鏑川を見下ろす高台になっていて、工女さんたちは休憩時間にここで、望郷の念を秘めつつ、川むこうに見える山並みを見ていた事と思います
載せたい場所はまだ沢山あるんですが、作容量の関係で割愛します。群馬へ行ったら訪問必須です^
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元々静かな街だった富岡ですが、製糸場の世界遺産指定後は一転、平日でも観光客で溢れています
日々急増する観光客に対応するため、製糸場沿道のお店は、土産向きの名物をつくったり、お店の紹介を書いた掲示を貼り出したり、いろんな取組みで富岡を盛り上げようと頑張っています。まさに、千載一遇の"街おこしチャンス到来"でしょうか^
今や”北関東で一番元気な街”であろうと思われる富岡、この辺であとにします
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今作は"ツーリング納め"なので、少し群馬を走ってから帰京します
↑国道254号を西へ、上信電鉄の線路に沿って下仁田方面へ
富岡から下仁田まで約10km程あるんですが、せっかく上信電鉄と並走しているので、上信電鉄ネタを一つ
ある途中駅に立ち寄りました。その駅の名は・
↑なんじゃい駅です
漢字で書くと『南蛇井』と、ふつ~な感じになるんですが、ひらがなだと「なんじゃい!」と言いたくなるw珍名駅です
途中↑コンビニに寄って休憩、駐車場の端っこに座ってパンを食べていると~
↑黒ニャンコが近づいてきましたw
このネコ、パンの分け前はしっかりもらっていくんですが、決してさわらせてくれないツンデレ猫でした
電車ではこれまで数回訪れていますが、バイクでは初です。
”昭和の薫り”が感じられる、味わいある駅です
そして下仁田といえば、名物『ネギ&こんにゃく』
"富岡の元気をここにも引っ張ろう"と頑張っているお店も見受けられました^
↑路地の入口に横断幕“祝・荒船風穴”とありますが・
製糸場世界遺産指定とともに、周辺の関連箇所3ヶ所も一体に指定され、荒船風穴も構成遺産に指定されました。どんな“風穴”なのか、行ってみます
荒船風穴、所在地は下仁田町なんですが相当な山奥にあるとの事なので、道の駅で情報収集してから向かうことにします
↑『道の駅しもにた』に寄ります
ドーナツ型の建物で、中央に中庭があるユニークな構造の道の駅しもにた、その一角にある観光案内所で風穴への道順や情報を聞きました。
案内所のお姉さんによると「かなりの急坂です。さらに駐車場から現地までラストは20分ほど山道を徒歩になります」
これは大変かもw
しかしここまで来たからには、行かない訳にはいかずw、↑国道から山道へ入ります
妙義山系独特のゴツゴツした山並が見えてきます
↑の写真では伝わってないですが、ホント凄い急坂の山道で、バイクではかなりコワかったです
車の場合は、離合困難なので要注意
山道に入ってから約15分、↑何とか駐車場まで辿り着きました。
さらにそこから徒歩で風穴へ
環境保護のため、↑駐車場より奥は一般車通行止です
つづら折りの坂を下り(※という事は、帰りは登り)、約15分歩くと~
風穴の手前に、見学者が休憩できるよう、↑ベンチや自販機が置かれた広場がありました。
↑バス停のような標識がありますが、土日のみここまでワゴン車のジャンボタクシーが乗り入れています。
しかしここ、ホント奥地です
ついに到着、荒船風穴です(※世界遺産構成物件/国史跡)
で、この奥地にある風穴が、なぜ富岡製糸場と関連があるのか?を、これから見ていきます
立入規制の柵ギリギリまで近づき、↑谷間を覗き込むと・
↑石組みで囲まれた深い穴が
これが、荒船風穴です。
ここ、地中から岩の間を通って噴き出す冷風を利用して、蚕の卵を保存していた施設だそうです。
蚕の繭は、アノ毛虫のような^蚕が体内から分泌物を出してつくるものですが、天然だと年1回しか孵化しません。
しかし、ここで冷蔵保存している蚕の卵を計画的に取り出して孵化させることにより、繭の生産数を数倍に増やすことが出来たそうです。
富岡製糸場の増産に大いに寄与したとの事で、電気による冷蔵技術が無かった明治初期ならではの知恵です
しかし、現在でも大変なこんな山奥と富岡との往復、車も無かった当時、繭を運搬していた人の苦労は想像にかたくありません
山の斜面には、↑所々当時の石垣が残っています。
当時は、管理棟などの建物が建っていた跡との事です。
これまでご覧の通り、この荒船風穴へは通行困難な山道の上、ラスト15~20分程坂道を徒歩のため、シャトルタクシーが運行していない平日に高齢の方が訪れるのは難しいと思います。しかし、歴史好きで健脚な人は一見の価値ありです
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風穴をあとに、↑国道との分岐点まで戻ってきました
やはり下仁田といえば、ネギとコンニャク
↑国道沿いにもあちこちに、太い葉が特徴の下仁田ネギの畑が見受けられます
さいごに、↑下仁田町内のドライブインへ
ここは、下仁田コンニャクを加工している工場があり、ガラス越しに見学できます
売場の入口、↑昭和の観光地っぽい”歓迎札”ですが、書かれている文字をよく見ると~
↑要は"誰でも歓迎"みたいです^
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夕暮れせまる上信越道・下仁田IC、高速の人となり帰京します
2014ツーリング納め、ここでゴールとします^
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本年、宿泊を伴うツーリングは、春の”福井ツーリング”(vol.172~173)と、夏の”東北穴うめツーリング”(vol.175~177)の2回でした
例年の如く、Wo号は冬休みに入ります。来春からのツーリング作をお楽しみに
今年も早や師走、次作は大晦日恒例の”アレ”です。今年のベスト10はどうなるのか?お楽しみに
(※2023.2 2024.6 文一部修正)