東北復興シリーズ第5章、三陸~青森大ツーリング、第2回です
前作ラストの続き、これから、東北とは思えないトロピカルな海を訪ねます^
前回は吉里吉里までをご覧頂きましたが、既に岩手県北部、リアス式海岸沿いを走っています。宮古市へ入った辺りから地形がやや緩やかになってきます。
海岸が、↑国道からでも広々と見える区間も出てきます
前作予告の通り、これから三陸海岸きっての美しい風景を訪ねます。国道45号より↑標識を右折すると、浄土ヶ浜海岸です。
このあたり、↑標識の通り陸中海岸国立公園だったんですが、この5月から名称が変わりました。後述します
↑浄土ヶ浜の駐車場に到着
国道45号近く、駐車場も完備されていて車やバイクなら難なく行けるんですが、その便利さが申し訳ない程絶景の海岸です(※この後すぐ)
あと、写真は割愛しますが、駐車場横にビジターセンターがあり、その前をウロウロする不審な僕をw職員のかたがわざわざ呼びとめてくれ「初めてなら是非説明を聞いていって下さい」と、浄土ヶ浜の案内をして頂きました(感謝)
ではいよいよ、浄土ヶ浜へ向かいます^
駐車場から海岸までは徒歩です。自家用車の乗入れが禁止されています
緑が囲む遊歩道を歩いていきます
↑の記念碑、戊辰戦争での"宮古港海戦"の碑で、明治初年、五稜郭の戦いに関連する、旧幕府軍と新政府軍の内戦がこの海であったという事です。
わが国でも明治初期までは内戦をやっていたというのは、去年upした熊本城の作でも西南戦争の話にふれましたが、昨今アフリカやアジア各国等、世界で起こっている内戦/紛争は日本も決して他人事ではないと思います。
まずは浜に降りる前に、駐車場と同じ高さにある↑御台場展望台へ
お~
なんともいえない形の小島が
美しい海岸美です
それにしても、海の色と地形美が織りなす独特の絶景です。
三陸にこんな所があったとは・
↑展望台から海岸部へ、石段を降ります
海岸から見る浄土ヶ浜の風景は・
お~
浄土ヶ浜です
三陸復興国立公園/三陸ジオパーク/国名勝等、数々の景勝地指定をうけています
白い岩肌のある美しい崖が海岸に連なっていますが、これは流紋岩の一種で、約5000万年前(!)に形成されたそうです
レストハウスの前の桟橋から、"サッパ船"というボートが出ていて、海上から浄土ヶ浜を眺めたり、海岸からは見えない"青の洞窟"への洞穴巡りも出来るとの事です
先程展望台から見下ろした小島、地上から見ると↑恐竜の背中のようにも見えます^
さらに、↑海辺の遊歩道が、"奥浄土ヶ浜"まで続いているという事で、行ってみます
↑写真の海の色、大げさにいえば、現実のものとは思えない程澄んだマリンブルーです。しかも東北の海でこの色とは・(驚)
トンネルと抜けると、そこは・
"極楽浄土"とはこういう光景なのかと思いたくもなる景色が現れます。まさに名勝中の名勝
"浄土ヶ浜"の由来は、江戸初期に当地を訪れた僧侶が、「極楽浄土の如し」と絶賛したという故事からだそうです。
↑奥浄土ヶ浜です
幻想的といって過言でない光景です
浜そのものは、震災の被害をそんなに受けてないようにも見えますが、先程歩いてきたトンネルのある遊歩道は津波被害をうけ、つい最近復旧したばかりだそうです。
この奥浄土ヶ浜に、↑レストハウスがあります
一見のんびりとした雰囲気の建物ですが、ここも実は・
津波の被害をうけ、↑の通り天井近くまで破壊されたそうです。
幸い鉄骨が無事だったので修復されたとの事です
↑喫水点も表示されていましたが、ほぼ屋根の高さでした。
改めて津波の激甚さを再認識します。
しかしその一方、レストハウスには↑の横断幕が掛っていました。
"祝・三陸復興国立公園"
冒頭、"陸中海岸国立公園の名称が変わった"と書きましたが、区域を一部拡大した上、復興の願いも込めて上記に変更されたとの事です。
近い将来、宮城の南三陸金華山国定公園も編入予定だそうです
レストハウス脇には、↑石碑がこの浜に2基並んでいました。
この碑は・
1基は、1933(昭和8)年に三陸を襲った、昭和三陸地震の時の津波記念碑でした。
この三陸海岸は、数十年おきに、繰返し津波に襲われています。
↑の碑の表面には昭和津波の事実を伝える記述が、そして裏面には、後世に津波から身を守るための教訓が刻まれていました。一部書き写してきたので紹介します↓
『大地震の後には津波がくる 高いところへ集まれ 遠くへ逃げないと津波に追い越される 逃げ場を用意しておけ 家を建てるなら津波の来ない安全なところに(後略)』
この刻文は、今回の震災で声高に叫ばれている教訓と全く同じです。1933年当時の人々も、尊い犠牲を無にしないため、石碑に記す事で子孫へ教訓を伝えようとしました。
そして、↑もう1基の石碑は、1960(昭和35)年に三陸を襲った、チリ地震津波の記念碑です。
今も語り継がれている有名なチリ津波ですが、地球の裏側で起きた地震の津波が日本まで到達し、100人余が亡くなられ、4万棟以上の建物が被害に遭ったという、未曽有のタイプの災害だったとの事です。
この石碑、建立してから半世紀経ってますが表面の碑文を刻んだ石は今もツヤツヤで鏡のようでした。↑浄土ヶ浜が絵のように映っています。
ここから注釈なしで数枚、美しい浄土ヶ浜をご覧頂きます
三陸へ行ったらここ、訪問必須です^
次の大きな街は、久慈市です
久慈までの途中、田老の街を通ります。
(※旧田老町でしたが、平成大合併で宮古市へ併合しました)
国道から海のほうを見ると、↑巨大なコンクリートの壁が目に入ります。田老の防潮堤です。
前述の通り古来から度々津波被害に遭ってきた三陸を波から守るため造られました。高さ10m、1958(昭和33)年にほぼ完成、当時は"東洋一の堤防"とも呼ばれたそうです。
とりわけこの田老は、前述の明治・昭和の両津波で村の殆どが壊滅する大変な被害だったそうです。漁業の村なので、住居を高台へ移転するのも難しいとの事で、巨大な堤防で村全体を囲ってしまおうという壮大な計画の下、築堤されました。
現に、1960年のチリ津波の時には効果を発揮し、田老は軽微な被害で済んだそうです。
しかし、1000年に1度という規模の今回の津波には、この東洋一の防波堤もあえなく一部が崩壊し、集落の中に津波が押し寄せてしまったそうです。
↑写真の通り、かつて集落だったという堤防の内側に家並はなく、緑が生い茂っていました。
田老を過ぎ、次は龍泉洞のある岩泉町に入ります。この街も見所が多いんですが、又改めて訪れたいと思います。
既に日が少し傾いてきました、先を急ぎます
という事で、再び三陸道へ・
三陸道に、↑な名前のIC、"鵜の巣断崖"
ICの名で"断崖"と付いているのは全国でここだけじゃないでしょうか?
国道にいくつも架かる橋、見下ろせば・
↑入りこんだら2度と出てこれないような、凄い原野です
北上するにつれ、次第にリアス式からなだらかに、なだらかに変化していく海岸
夕暮れの久慈市等を通過し、何とか夜半に1泊目投宿地・八戸市にたどり着きました^
-*-*-
翌朝・
行ったのは6月下旬、梅雨ど真ん中だったんですが、↑抜けるような青空に恵まれた、八戸駅前です
昨日までの三陸とはガラッと変わり、この日より『青森ツーリング』をスタートしたいと思います^
上混雑する朝の八戸市街を抜け、八戸から十和田湖への最短ルート、国道454号へ入ります
市街地はほどなく途切れ、快適な郊外の走りやすい道になってきます
この日午前中まず、この国道454号、十和田湖への途中にある小さな村に立ち寄ります。その『村』なんですが、日本にこんな所があるのかという、不思議な村なんです。これからご覧頂きます
その村は、青森県三戸郡新郷村といいます。
八戸市との境界に、↑新郷村の案内板がありました。その案内板にも載ってますが、同村には知る人ぞ知る、"キリストの墓"(!)がある事で知られる"神秘の村"なんです
ここから次作へかけ、この"謎"へWo流に迫りますw
村の中心部を通り抜けて・
さらに走ることしばらく、↑道路標識にも堂々と"キリストの墓"。
そして、"ピラミッド"とも書かれています。この村一体、何なのか・
青空の爽やかさとはうらはらに、謎が深まります
↑"キリストの墓"の駐車場に着きました。
そして駐車場の隣には↑、大手コンビニ"ミ○ストップ"をもじった"キリストップ"という売店が!
イオ○さん、これ大丈夫ですかw
駐車場には、地元消防団が立てた↑火の用心の看板がありましたが、そこに描かれているのは当地に伝わる盆踊り唄"ナニャドヤラ"、歌詞の意味が今もって謎との事で、これも後述します。
バス停名も↑"キリスト公園前"
当別荘6年目に入りましたが、初タイプの場所に来たようです
Wo号を停め、早速"キリストの墓"へ
キリスト墓一帯は、同村が公園として整備しています。
青森の山中に、『キリストで村おこし』している村があったとは・(驚)
↑の小高い丘に、それはあります。
↑の階段を登ると・
お~
ありました、木の十字架
これは一体・
ここで作容量限界となりました、今作ここまでです!
次作は、この十字架、そしてなぜこの青森の山村が世界有数の宗教者、キリストと縁があるのか?
新郷村の謎を、Wo流に不完全にw迫ります!
そして次作では、十和田湖もご覧頂きます。お楽しみに^
(※2022.12 2024.3 文一部修正)