東北復興シリーズ第5章、三陸青森大ツーリング・第3回です
前作までで三陸海岸の縦断を終え、今作から本格的(?)に、青森県入りをしていきます
前作は↓の写真、『キリストの墓』があるという、青森県新郷村に入ったところまででした
今作はその続きから、新郷村の”キリスト伝説”を中心に、Wo流にみていきます。ではスタート
八戸から十和田湖への途次にある新郷村、村に入ってしばらく走ると、”キリストの墓”なる所へ誘う標識が立っています。
その標識に従って走ると、↑の丘にたどり着きます。
この塚にある”謎の遺跡”、アノ雑誌"ムー"にも度々取り上げられている当地を、これから探索します
『キリスト公園』と名付けられたこの丘には、木製の十字架が2つあり、"十来塚"がキリストの墓、"十代墓"が弟・イスキリの墓だと伝わっています。
いつから、↑の木の十字架が立っていたかは不明ですが、この丘の2つの塚、同村では昔から"大事な人の墓なので大切に守るように"と、この地を代々管理してきた当地の旧家、沢口家に言い伝えられてきたという事なんです。
その沢口家の家紋は、桔梗のような紋なんですが、"ダビデの星に似ている"という研究者もいるそうです。
で、誰の墓かもはっきりわからないまま守り続けてきたこの塚が"キリストの墓"だとクローズアップされてきたのは、1935(昭和10)年の事だそうです。
これも"ムー"読者ならご存じの、超古代の史実を記しているとされる"竹内文書"を所蔵する茨城県・皇祖皇大神宮の宮司、竹内氏も、下記の説を唱えています。
『実はキリストは磔刑を逃れ、密かに日本へやってきて、その生涯を閉じた』との記述が同文書にはあり、調査の結果、この地の塚がキリストの墓だとわかった(!)との事なんです。
そして僕がさらに驚いたのが↑の石板。
この石板なんと、キリスト生誕/死去の地、イスラエル国から贈られてきたものです(驚)
↑の石板、エルサレム市から新郷村に"友好の証"として贈られた、ヘブライ語で書かれた石板です。
異教徒である日本の人物が持ち出した説で、地方の一山村が村おこしにキリストを使っている事に関して、イスラエルからクレームが来てもおかしくない位なのに、逆に"友好の証"を贈ってくるエルサレム市の懐の深さには、ホント恐れ入りました
キリスト教/ユダヤ教/イスラム教、3つの宗教の聖地・エルサレム。世界中でまず知らぬ者はいないであろう著名な都市であるエルサレム市が、日本人でもその名を知る人は多くない青森県新郷村と"友好関係"にあるという驚きの現実
この事一つ取っても、新郷村が不思議に包まれた村という事を一層思い知らされます。
↑キリストの墓の向かい側の丘には、代々この地を守ってきた沢口家のお墓がありますが、こちらは通常の日本のお墓でした(※謹写)
キリストの墓から奥まった所に、↑教会風の建物がありますが、これは村の外郭団体が設置している『キリストの里伝承館』という同村立の資料館です
玄関のところに張り付けてあった、↑盆踊りのタオル
同村では毎年"キリスト祭"というお祭りが行われる(※まずこれに驚きます)そうですが、そこで踊られる盆踊り歌"ナニャドヤラ"の歌詞が、今もって全くの謎だそうなんです
一説によると、この歌詞をヘブライ語で訳すと"聖前に主を讃えよ"という意味にも取れるとの事なんですが、諸説あって真相はわからないそうです。
でも何より、意味不明の歌詞の踊り歌を代々伝承して、なんの疑いもなく伝統行事として伝えていることに驚きます
ちなみにこのキリスト祭、ラストは参加者全員でエルサレムのほうを向きワインで乾杯するそうです。これから展示を見るんですが、その前から僕の頭の中は"謎"の一文字です。
↑館内に入りました
最初に目に入ってくるのは、村の民家を再現したコーナー。この資料館はキリストの事だけでなく、新郷村の民俗や暮らしぶりも紹介しています。
こうして昔の民家や暮らしを再現したコーナーは各地の資料館でよく見かけますが、新郷村の館はいろんな面で一味違います。
↑の左奥に置かれた、赤ちゃんを入れた竹かごに注目すると・
竹かごに赤ちゃんを入れておくという風習のある新郷村、その赤ちゃんの額には十字が描かれています。子供を初めて外出させる時に描くそうです。
そして資料館の奥半分くらいが"キリストコーナー"、いわば”ムーの世界”(?)になってくるんです
↑の、ドアの向こうの暗い部屋が映像コーナーなんですが、そこで上映されるキリスト墓についての映像が、大変興味深い内容でした
前述の"竹内文書"によると、現在歴史として認識されている、“キリストはゴルゴダの丘で磔刑になった”との史実。
同館が依拠している”キリスト日本死去説”によれば、実は磔刑に処せられたのは身代わりにたてられたキリストの弟・イスキリだという説になっています。
キリストは磔刑を逃れ、苦難の旅を重ねて日本に辿り着き(※船で、現在の富山県あたりに上陸したとの説)、その後青森のこの地へ到達し、100歳以上まで生きたと伝わるそうです
又、キリストは若い頃にも来日して修行をしていて、その後イスラエルに戻り布教活動をしていたとか(※さらに驚)
茨城県の皇祖皇大神宮に伝わるという竹内文書ですが、皇室や伊勢神宮に関する記述が、戦前ではいわゆる"タブー"にふれるという事で取締の対象となりました。
文書の大半は押収された末、1945(昭和20)年の東京大空襲で、保管してあった裁判所の書庫が爆撃され、灰燼に帰してしまったとの事です。
現在同神宮に伝わっている文書は、主に戦前に学者が書き写したものの一部だとの事です
↑はなんと、キリストが遺したという遺書(※複製)
『天国の言葉にて文す』とありますが、日本語で書かれているので、天国とは日本の事だった・という事になるのでしょうか?、先程から"謎、謎"とばかり書いてますが、ホント謎は深まるばかりです
“日ユ同祖論”という説が以前から唱えられていますが、日本人とユダヤ人は太古の昔共通の祖先を持ち、今なおいろんな面で、文化的な共通点を見いだせるという説です。
イスラエルで行われる伝統行事に、日本と共通するものが少なくないとの事で、例えば、日本の"餅"と同様、イスラエルには新年用のパンがあり、"マツァ"というそうです
又、十五夜の月見と似た行事や、清めの塩をまく習慣など、他の欧米人には理解が難しい日本の風習を、ユダヤ人は簡単に理解するといい(※自国で似た風習があるから)、その他、京都など全国で行われている"祇園祭"の"ぎおん"はエルサレムの別名・"シオン"の祭りからとか、挙げたらキリがない程だそうです^
又、日本語とヘブライ語は同じ発音の単語が沢山あるとの事で、例えば"火傷"→"ヤケド"、"困る"→"コマル"、"書く"→"カク"(※意味も同じ)等、約3000程あるそうです。
ここ新郷村も、昭和の大合併以前は"戸来村"だったという事で、"戸来"は"ヘブライ"からきたのでは?とか、青森東部から岩手北部にかけての"一戸"や"八戸"等、一から九まで"戸"がつく数字の街がありますが、これも・?とか、仮説の広がりはとどまるところを知らない位です
(※上記いろいろ書き連ねたのは勿論"仮説"の域なので、賛否があるのは勿論です)
これまでの常識を覆す、目からウロコの史料の数々
これ以上詳述するのはもったいないのでw、機会があれば実際に新郷村を訪れて、その不思議な世界観の中でひとときを過ごされる事を奨めます^
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キリストの墓をあとに、夏空のツーリングに戻ります
新郷村は面積約150㎢あり、けっこう広いんです
1955(昭和30)年、旧戸来村と旧野沢村の一部が合併して誕生した新郷村。平成大合併の時には隣接する五戸町や八戸市との合併も模索しましたが、自治体間や議会間の感情のもつれで結局不調に終わり、今後も自主独立の村としてやっていくそうです。
それゆえに、十和田湖へのゲートビレッジの一つとして、村の生き残りのため観光開発には力を入れる必要があり、キリストの墓はこの村にとっていわば"宝"でもあるといえます。
前述の通り、旧村名の"戸来"は"ヘブライ"に通じるとも言われ、苗字が"戸来さん"という方もおられるとの事。どこまでも謎の深い村なんです
次は、”ピラミッド”へ向かいます
↑の山中に、ピラミッドがあるとの事。
標識を頼りに、国道から逸れて林道をすすみます
標識に従い、細い枝道へ入っていきます
頂上近く、鳥居が立ち、こんもり盛りあがった地形のところに着きました。↑の山全体が”ピラミッド”だというんです
鳥居の横にあった解説板の文章は、『ピラミッドはエジプト・メキシコだけにあるとは限らない』という書き出しで始まっていました
前出の竹内文書によれば、"数万年前の超古代、日本に7基のピラミッドがあった"といい、これがその1つだというんですが・(謎)
鳥居をくぐって、奥へ入ってみます
頂上付近には、↑巨石があちこちに・
↑は”太陽石”といい、かつては光輝いていたんだそうです。くどいですが、毎々驚く事ばかりです
仮にそうだったとすれば、近寄り難いほど神々しい存在感があったはずです
太陽石を中心に、いろんな名の付いた巨石が周囲にあります。
中でも、一番不思議感の強かったのが、一番奥にあった"鏡石"
↑鏡石です。
現地看板によれば『江戸時代の地震で倒れるまでは直立していて、その一面には文字が記されていた』との事です。
それならもう一度石を起こしてみて、書かれた文字を解析すれば謎の解明につながるのでは?とも思いますが、でもこんな急斜面に重機を入れて起こすのは困難で、無理に起こそうとすればピラミッドの地形が損傷する恐れがあるので難しい、との事
まぁ"ムー流"にこのピラミッドを解釈すれば、”山岳ピラミドは、宇宙人がUFO着陸等の目標として地球に設置したもの"とでもいう事でしょうか、そう考えればロマンある遺跡ともいえます
ホント謎だらけです、この村
まさに"雑誌ムーから飛び出てきた世界"みたいなところです
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謎の村、新郷村をあとにして、次は美しい風景を楽しみながら走ります
気分ガラッと変えて、次の目的地は、十和田湖です
八戸市から走ってきた国道454号、↑ドンツキの三叉路(※終点)になりました。
その突き当りには~
ついに来ました、↑十和田湖の湖周道路に出ました
これまで何度も東北に来ているWo号ですが、十和田湖は初走行です
湖周道路は国道103号、木漏れ陽の隙間から十和田湖が見え隠れする美しい道です
十和田湖の周囲にはいくつか、観光の拠点ともなってる集落があるんですが、その一つが↑の、子ノ口
JRバスや観光船のターミナルもあるので、時刻表にも名が載っている要衝です
↑子ノ口港の駐車場で、しばらく十和田湖を眺めながら休憩
↑美しい十和田湖畔です
元々は火山湖だったという十和田湖ですが、現在は静かな佇まいです。
ちなみに水深は300m近い所もあるとの事で、内陸部にある湖としては日本有数の大きさです。
で、十和田湖へツーリングに来たなら、必ずセットで走っておきたい道があります。
十和田湖から流出する唯一の川で、そのすぐ横を道路が通っています
この奥入瀬渓流の最大の特徴は、"渓流・遊歩道・車道が密接して並行している"という事。
車道を走る車・バイクからでも簡単に渓流の流れが眺められます
↑の奥入瀬沿いの道も、国道です(※R102)
最終的にこの道は青森市までつながっていて、バス路線にもなっているため、青森⇔十和田湖をバスで行く場合にはここを通ります
湖から奥入瀬渓谷を走り始めてすぐ、渓谷有数のビュースポット、銚子大滝があります。
美しい滝だそうなので、寄ってみます
遊歩道の木道、階段を降りていくと~
お~
↑凄い迫力で流れ落ちています
奥入瀬で一番美しい滝とも言われる、銚子大滝です(※高さ7m、幅20m)
下流から遡上してくる魚が、この滝によってこれ以上湖に近づけないことから、"魚止めの滝"という別名もあります。そのため、この滝の上流にある十和田湖に、魚はほとんど生息していないそうです
滝の近くにいるとマイナスイオンを浴びるせいか、気持ちが爽やかになってきます^
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バイクで走りながら渓流が楽しめる、ホント贅沢な道です
奥入瀬には、ほかにもあちこち滝があります
さらに下流に走ったところに、↑近年出来たというビジターセンターがありました。写真では分かりにくいですが、写真右の緑の網がかかっている建物です(※外壁工事中)
↑奥入瀬の動植物や自然を解説した展示室があり、真ん中には奥入瀬の模型もつくってありました
ちなみにこの奥入瀬の道、このまま下っていくと前述の通り、青森市まで繋がっています
Wo号はこの後、予定しているコースに戻るため、ビジターセンターで折り返して子ノ口へ戻ります
木漏れ陽を受けながら走る↑渓流の道
"日本の名道100選"に選びたい位の美しい道です^
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次に立ち寄るのは、子ノ口とともに十和田湖畔のゲートタウンである、休屋集落です
この休屋の湖畔には、有名な"乙女の像"があるという事で、見に行ってみます
お土産屋さんの並ぶ路地を通って、湖畔へ出ます
↑風光明媚な、湖畔の小径に出ます
歩いて行くと、↑松の木が生えた小さな島がみえてきました。
十和田湖を存分に味わえる遊歩道です
5分程歩くと、石像が見えてきました
↑“乙女の像”
2人の少女が立ち、片手を合わせている像です。
この像は1953(昭和28)年、十和田湖国立公園指定15周年を記念して、高村光太郎(※詩人だけでなく、彫刻家でもあったそう)が制作したものです
十和田湖の半分は秋田県にもかかっています。
休屋からすぐ、↑県境標識がありました
休屋から秋田県側に入ってすぐ、休平です。ここからの十和田湖が又、いい眺めなんです^
休平には、休屋のような土産物屋街がないので、観光客の姿も少なく、のんびりと風景が堪能できます
縄文期から人住があったという十和田湖畔、山奥の大きな湖のほとりで、古代人はどんな暮らしをしていたんでしょうか
次へむけて出発します
十和田湖から大館方面へつづく、国道103号へ
十和田湖から秋田県各地への道は、どのルートも急坂の峠を越えないといけません
でもその分、峠の頂上から見える景色は、また格別です^
↑は国道103号、発荷(はっか)峠です
この峠から見下ろす↑十和田湖も素晴らしかったです^
なんか、雲に近づいたような感じがする峠でした
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峠を越えると、当然ながら後はひたすら下りです。気を付けて運転していきます
↑峠下の集落までおりてきました。
↑八幡平の看板もみえてきましたが、次に向かうのは、大湯の街です
大湯には"環状列石"(※ストーンサークル)という、謎の遺跡があるんです。先程新郷村でさんざん謎の世界に浸りましたが、まだまだ不思議な場所が続く北東北です
十和田湖を出てから1時間弱で、大湯へ着きます。
その名の通り温泉もある街ですが、そんなに観光化してないような印象で、ひなびた感じです
温泉街を通り抜け、その後国道から少し外れたところに、
↑大湯ストーンサークル(環状列石)遺跡があります。
↑広い駐車場
でも、遺跡の敷地はもっと広いんです^
駐車場の横には、↑ストーンサークル館という展示館もありましたが、この日はあいにく閉館時間後でした
でも、遺跡そのものは開いてるので、行ってみます
大湯環状列石、一名を"先住民 中通遺跡"ともいいます。
“先住民”、そう呼ばないといけない程太古(※約4000年前)の、未だ目的がよくわかっていない石組みが残っている遺跡です。
総面積25万㎡!
かなりの広さです
景観保護のため、遺跡内に解説看板はなく、↑のような位置だけ示す小さな標識があるだけです。そのため、余計に広さを感じる遺跡です。
遺跡内には、列石以外にも、いろんな石組みや柱が並んでいた跡もありますが、誰が何のためにつくったのかは、現在でも仮説の域を出ていません。
しばらく歩くと、↑藁屋根住居の復元が見えてきました。
↑集落の縁をかたどるように、石が並んでいます
↑教科書にも載っていた、中央に1つだけ立てた石が特徴的なストーンサークル、ついにこの目で見ました
こういう形状の列石が、数十も環状に並んでいます。
まるで銀河系の中の各太陽系をあらわしているような、宇宙の縮図のように僕は思いました
この後、さらに見学していくんですが~
今作ここまでです!作容量限界になりました
次作・第4回では、このストーンサークルについてさらに見ていくほか、青森市へ入り、さらなる謎の遺跡へ訪れます。
お楽しみに
(※2022.12 2024.5 文一部修正)