vol.131 東海道53次ブラ⑥島田宿 越すに越されぬ大井川 &”知られざる日本一の木橋” | 旅ブログ Wo’s別荘

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 年明け恒例となってきました”東海道五十三次シリーズ”、今年で第6回です^走る人

 

今回は、静岡県中部・島田宿を訪ねます虹

タイトルにも書きましたが、島田宿といえば大井川、そして島田には、”意外な日本一”もありました。ではスタートしますグッド!


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静岡駅から東海道線普通で西へ約20分、JR島田駅到着富士山

同駅折返しの列車が多数あり、静岡市方面へ本数が多くなるよう設定されていますが、浜松方へも日中約20分毎あり、便利なダイヤです宝石ブルー
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昨年の五十三次シリーズで訪ねた二川駅もそうでしたが、JR東海では近年、各駅で建替えをすすめていますビル
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↑の通り橋上駅になっているので、駅前広場は北口/南口の2つあります。

まず降り立ったのは↑北口ですが、2つのモニュメントがありました。一つは、禅宗・臨済宗開祖の栄西禅師の像クリップ

栄西師は、現在の中国へ渡った時に持ち帰ったお茶の実を全国に広め、お茶の楽しみ方や栽培法を著した"喫茶養生記"という本を出版、お茶の普及に尽くし“茶祖”とも呼ばれているとの事。

お茶の栽培では全国有数の静岡県ならではの像です^お茶
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そしてもう一つのモニュメントは、↑"宗長庵址"

島田に生まれた室町時代の連歌師、宗長を師と仰いでいた江戸時代の歌人、同じく島田生まれの塚本如舟がここ現在の島田駅前の土地で庵を結び、詠歌していた場所だそうですキラキラ

宗長・如舟とも共に吟遊の旅を重ね、生涯の多くを旅に過ごしたといいます。そして如舟は、アノ松尾芭蕉とも親交があり、この庵も訪れたとの事もみじ

予備知識なしで訪れた島田が、思わぬ"旅の聖地"だったとは、なかなか幸先よいスタートです^合格

 

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今作メインの目的地へ歩きますかたつむり

↑島田駅から西へ約2km強、大井川の『川越遺跡』です。

ご存じ、江戸から京への東海道中でも難所の一つ、大井川の川越えをするための手続と手引きをしていた場所ですメモ

 

北口から内陸側にむけ、駅前通りを歩いてゆきます男の子


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駅近くにある、↑島田信用金庫の本店。さすが貯蓄県静岡、金融機関の建物は立派^¥

この店舗の、交差点に面した角に・
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“駿河路や 花橘も 茶の匂い”との句碑黄色い花

当地を訪れた芭蕉が残した句だそうです。芭蕉すきのWoですが、島田で芭蕉の足跡に出会えるとは思いませんでした^
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↑信用金庫の句碑がある交差点が、駅前通りと旧東海道が交わっている地点になります。ここを西へ曲がり、大井川へ歩いてゆきます走る人

昭和感ある商店も散見されます砂時計
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少し歩くと、↑神社がみえてきました目
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その名も"大井神社"、お参りしてみますヒヨコ
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鳥居から参道をすすむと・
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本殿の手前に、何かを腕から提げ、独特のポーズをとる奴姿の像が目
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↑は、この大井神社で3年毎に行われる"島田の帯祭り"の大奴行列の姿で、腕から提げているのは、女性用の着物の"帯"です。

日本3大奇祭の一つと言われています(※但し、”3大奇祭”はどの祭を指すか?は地域によって異なります)

 

安産を祈願する意味もあるお祭りとの事ですが、同神社はこれから歩いていく大井川の鎮守として、又、島田宿を行き交う旅人の安寧を護っている神社との事です。
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西暦865年には既に記録が残るという、1200年以上の歴史を誇る古社ですが、大井川の氾濫や地震等により、度々移転を余儀なくされたとの事です。

現在地に鎮座したのは江戸初期・元禄元年と伝わります。
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↑江戸初期のものという石灯籠がありましたが、この地域、何度も大地震に見舞われているはずなので、その度に何度も修復して今に伝わっていると思われます。
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境内には、ベンチや遊具が多数、売店もあり、平日の朝だったので人はいませんでしたが、地元の人の憩いの場になっているみたいですお団子
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大井神社を出て、↑再び東海道を西へすすみます走る人
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やがて前方に、大井川を挟んで向こう岸の、↑金谷の山並みが見えてきました霧

そして、その山肌にはズバリ↑"茶"の文字がお茶

お茶の木で形づくられた、大きな文字です^
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大井神社から歩いて約20分、↑川越遺跡の看板が見えてきました目
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沿道には製紙工場の大きな煙突も。静岡県といえば製紙業も盛んクリップ
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ようやく、↑旧街道筋らしい街並になってきましたキラキラ

ゴール間近です^
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江戸時代、大井川の川越しを取り仕切っていた、人足の詰所や旅人の宿がつづく街並が、川沿いの一角に保存されています。

この街並そのものが、『島田宿大井川川越(かわごし)遺跡』です。(※国史跡)
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中には、現在も民家として使われている建物もありますが、島田市が買い取っている建物は一般公開されています家

 

旅人が大井川の川越えするのを手引きしていた、"川越人足"が所属し、待機していた"番屋"と呼ばれている建物です(※十番宿までありました)
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中には、つい最近まで民家だったと思われる宿もあって、内部に展示物もありますが、台所の流し台やレンジフード等もそのままの所もあり、生活臭が残っている建物も^にひひ
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計10棟余の建物は、1966(昭和41)に国史跡に指定された後、市が民間から買い取りをすすめ、往時の街並をできるだけ復元しています。
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今は静かな佇まいの川越遺跡ですが、かつては旅人と、荒くれ者の川越人足が混然とごった返していたんでしょうわんわん
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そんな↑川越人足の男を、人形で再現している宿もありました。

一見荒くれ男のようですが、ここの川越人足は全員、前述の"番屋"に所属し、料金収受や仕事の段取りも全て組織的に決められていました。

人足になるためには12歳くらいから修行を積み、数年後に川会所の長老から認められて、やっと一人前の人足になれたそうですあせる

当時としてはいわば、公務員のような安定した職業だったとの事。個人営業ではなかったんですひらめき電球


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そして、いよいよ川岸が近くなってくると、この川越遺跡メインともいえる建物があります。

“川会所”と呼ばれる、幕府直轄の役所です。

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↑この川会所では、人足渡しの料金決定(※川の水量を毎日計測し、それによって渡し料金が設定されていた)や、増水した場合の川留めの可否(※渡河の禁止)等を決めていました波
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川越を監督する、↑役人さんの人形もありました^

 

大井川は当時の幕府にとって、箱根や新居関所等と共に、江戸の守りのため戦略的に重要な地点でした手裏剣

旅人は、大井川を個人的に渡河する事は禁じられ、必ず川越人足の手引きで渡河する決まりになっていました。

(※というか、当時の大井川は水量が現在よりずっと多かったそうで、一人で渡河するのは危険だった)禁止

 

又、江戸時代当時は大井川に橋を架ける技術もないではなかったようなんですが、江戸を簡単に攻め込まれないよう、あえて橋を架けず、"渡りにくい"渡河方法にしていたと言われています旗

 

静岡県にある他の大きな河川、天竜川や富士川では"渡し船"がありましたが、大井川ではそれも許されておらず、国家戦略として渡りにくい川にしてあったようです。まさに”越すに越されぬ大井川”です宇宙人


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旅人は、人足に支払う料金を直接人足に現金払いしていたのではなく、川会所で↑の"川札"と呼ばれる油紙を買い、それを人足に渡していました。いわば"チケット制"だったんですロボット

 

このようなシステムを、特に海外の制度を見習うでもなく独自に発達させていた事に、当時ここを旅したオランダ人等の数少ない外国人は驚き、母国に報告していたんだそうです船

 

旅人から川札を収受した人足は、これを頭髪(まげ)等に結っておき(※なので、濡れても大丈夫な油紙だった)、仕事後に、札場と呼ばれる引換所に行って現金化していましたがま口財布
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↑は、身分の高い人が川越えに使った『蓮台』です。

蓮台は種類により4~16人の人数で担ぎ、川札はその人数分いるほか、さらに蓮台そのもののレンタル料(※種類により人足2~32名分)も必要で、かなり高くつく、庶民には利用出来ない贅沢な乗り物だったようです王冠1
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川会所のすぐ脇には、↑の史跡もありました目

“島田大堤”です。

度々大規模な洪水に見舞われていた当時の大井川流域、幕府の治水事業により1644年にこの大堤が完成。完成後は、稲の収穫量が以前の20倍にも増えたという大変な恩恵をもたらしたそうですクローバー

川岸の付け替え等で現在はその役目を終え、一部が盛り土や道路などで残るのみとなっています。
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さらに大井川に近づくと・
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大井川の川岸へ出ました^宇宙人
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堤防に上がってみると・
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広々としています晴れ

川幅約1.3km、静岡県一の大河・大井川です星

間近に見る大井川、東海道線の車窓から見るよりも、広さが実感できました^虹
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↑対岸の金谷です(※望遠で撮影)カメラ


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そして、堤防(川越遺跡)近くにある↑の立派な建物は、島田市立博物館ですメガネ

島田駅から大井川川岸まで徒歩約30分以上、駅からはチト遠いですが、島田の歴史を知るには大井川とセットで見たほうがいいのかなぁとも思います^

(※駐車場有)車
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堤防からは、↑東海道線の長い鉄橋も見えます電車
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川越遺跡見学を終え、来た道を一旦駅へ戻ります走る人

 

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↑再び島田駅ですが、冒頭の北口ではなく、反対側の南口に来ました電車

川越遺跡も見たし、今回の東海道ブラはこれでゴールにしようと実は思ったんですが、"日本一の、凄い橋"がこの島田にあることを現地で知り、急遽行ってみる事にしました^ひらめき電球
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南口から、先程の川越遺跡とは逆の方向に歩きます。

目的の"橋"とは、↑標識にある『蓬莱橋』なんですが、この橋がどう凄いのか、現地で見てみます目
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駅から南東に歩いて約20分、再び大井川に出ました波

先程、川越遺跡に行ったのとは逆方向に歩いてるのに、なぜ又大井川へ?の理由ですが、大井川は島田駅を囲むように"コの字"形に曲がって流れており、駅から西へ行っても南へ行っても大井川なんです^次項
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大井川に突き当たって、しばらく堤防を歩くと、↑なにやら細長い木の橋が見えてきました目

この『蓬莱橋』は、日本一長い木橋という事です王冠2

近づいてみますにひひ
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↑大井川に延々と架かる、素朴な雰囲気の木橋ですが、とにかく長い橋です。実際現地で延々と続く木組みを見て、大げさに言えば圧倒される長さに感じましたウサギ
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全長897m、歩行者専用の橋です男の子
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↑橋のたもとに来ました。

繰り返しですが、ホント長々感溢れる橋です^

素朴な木の板の橋面と、肉眼でむこう岸が確認できない程の長さとの、不思議なアンバランスが印象的でしたとかげ
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渡橋の際は、↑の料金所で通行料100円を支払って通行します(※2013現在)
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"日本一長い木橋"と前述しましたが、↑ギネス認定もうけており、実は世界一の木橋なんです^星
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この蓬莱橋の沿革について纏めておきますクリップ

 

川越遺跡のところで前述しましたが、江戸期、大井川には橋を架けることを許されませんでした。

明治維新後すぐ、茶葉の栽培が始まった静岡県では、それに伴う経済活動に伴い、人や物の物流への需要が急速に高まりましたクローバー

 

そこで、当時の島田の人々は静岡県に橋を架ける許可を申請し、1879(明治12)年、この蓬莱橋を建造したそうです。

今を遡ること約150年前、それ以来現在に至るまで、『世界一長い木橋』というレコードは破られていないとの事ですチョキ
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しかし台風や洪水等で度々流失し、その度に復元と改良が繰り返されています(※平成に入ってからでも9度被害を受けているとの事)

橋面は木ですが、橋脚の部分は1965(昭和40)年、コンクリート製に取り換えられています。


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↑は橋のたもとの大井川堤防道路ですが、土産物店の一軒もなく、こんな凄い橋にも拘らず、橋周辺はほとんど観光化されていませんでした。

 

島田にこんな凄い橋があるのは、僕現地で初めて知った次第ですす。もっと島田市もPRしたらいいとも思いますが、しかしこの橋、地元の人の生活道路という面もあり、今のままでいいのかもですうお座

あと、この蓬莱橋が観光化しにくいのは、川越遺跡とは駅から逆方向にある事。駅から徒歩20分と、高齢者にはやや遠い距離で、しかも駅から路線バスも無く駐車場もないため、やや訪問しにくいという点もありますあせる

しかし、一見の価値ありです星


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蓬莱橋からすぐ、↑東海地方でおなじみのスーパー、アピタがありました。歩き疲れたのでここで昼食&休憩しますナイフとフォークコーヒー


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島田駅に戻ってきました。ゴールですフラッグ

 

いつも何気なく通過していた島田駅でしたが、この日初めて途中下車してみて、ホント旅心くすぐる街だとわかりました。

街の外周をコの字形に流れる大井川に抱かれた歴史の街、島田市は、去年の東日本大震災後にいち早く震災がれきの受け入れを表明した、心温かい街でもあります合格
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島田駅から僕は、さらに西へ旅を続けます^

川越遺跡の堤防から眺めた、東海道線の鉄橋、電車は心地よい車輪の音を軋ませながら、長大な橋を快く渡ってゆきます虹

 

東海道五十三次の旅はまだ第6回、"Wo流膝栗毛"はまだまだ続きます^馬

 

 

 

 

 

(※2022.10 2024.4 文一部修正)