2010年がスタートしました
本年より新カテゴリー、『東海道53次ブラ』をスタートさせたいと思います^
主に、新年一発目の作として、ランダムに東海道五十三次の宿場を訪ね、Wo流に歩いてみるという企画です
これを発足させようと思った理由ですが、Woは関東と関西の間を定期的に行き来しており、元々通っている区間なので交通費もほぼかからず、しかも最低53回は掲載できる(?)のでw、このシリーズで10年はもたせようという魂胆です^
今作、記念すべき第1回ですが、東海道の真ん中あたり、浜名湖近くにある『新居関』を訪ねます
新居関所、ご存じ・箱根と並び東海道で最も枢要だった関で、正式には"今切関"というそうです。なお、往時の関所建物が、東海道で唯一現存する関所としても知られています。第1回にふさわしい所と思い、訪ねてみました。ではスタートします
↑東海道線、新居町駅で下車
浜松市の西隣、静岡県浜名郡新居町に位置します(※2010年に湖西市へ合併)
新居町駅前から、西へ歩きます
駅前から線路と並行し、旧東海道が延びています
このあたり海抜3.6mとの事。静岡県は津波対策がすすんでおり、あちこちで海抜標識を見かけます
浜名湖と太平洋を結ぶ水路に架かる橋を渡ります。
その名も↑"浜名橋"
旧街道沿いという事で、レトロ風に改築されたお店や家も見かけます
関所建物が↑見えてきました
駅から徒歩5分程、新居関所へ到着
繰り返しですが、往時の建物が残る関所としては日本唯一で、国の特別史跡に指定されています
(※箱根の関所跡は復元建物です)
関所建物は後程見学しますが、まずは↑併設の史料館で、新居関所についてにわか勉強します
史料館内部は撮影禁止なので、文で紹介していきます
前述の通り、新居関所の正式名は"今切の関"といいますが、この由来は、浜名湖が海に出る切れ目に位置し、古来より"今切の湊"があった事からです
館内には関所手形の実物展示や、教科書では出てこない新居関所の実態について細かく解説していて、大変興味深く見学しました。
新居関所では特に、"入り鉄砲&出女"を厳しく検査していたとの事。特に"入り鉄砲"江戸へ、江戸へ持ち込もうとする武器はここで厳しく取り調べる一方、新居で通ったものは"お墨付き"とされ、箱根ではほぼフリーパスだったらしいです。
一方、江戸から地方へ出ようとする女性"出女"は、たしか僕は社会科で『箱根で厳しく取り締まっていた』と教わった覚えがありますが、出女についても箱根より新居のほうが厳重だったとの事です(※同館展示による)
現存する建物は、1855(安政2)年に改築されたものとの事です。
書院の前から靴を脱いで、内部へ入ります
お~
検査と取締りにあたった↑武士の人形が並んでいます。
表情や手足の所作も、かなりリアルにつくってありました
↑は、史料館の展示でも強調されていた、出女を取り調べる↑"あらため女"です
箱根関所では"人見女"と呼ばれていました。
新居関所、最初に設置されたのは1600年、関ヶ原合戦の年です。
前述の通り、浜名湖と海が繋がる切れ目近くに位置する新居、東海道の中間あたりでもあった事から地勢的/戦略的な要衝地で、江戸幕府は当初から最重要の関所として、周辺を直轄領にして管理しました。
設置以降は度々地震等の災害に遭い、場所も何度か移転し、現在の建物は、前述の通り幕末の1855年に建てられたものです。
関所の前庭、↑"面番所"と呼ばれ、旅人を改めていた"関所の顔"だった部分です。旅人は関所の前で、検査待ちの長い行列をつくっていたと思われます
史料館展示によると、幕末頃になると次第に人々の往来も激しくなり、通行の規制も序々に緩和、幕末には検査も形骸化されていったようです。
そして1869(明治2)年1月21日、明治新政府より廃止通知が届き、新居関所の役割は終わりました
なお、全国に数々あった関所の中で、なぜ新居関所の建物だけが取壊しを免れて現存しているのか?ですが・
前述の通り、最終建替が1855年と比較的新しかったため、明治に入ってからも建物が再利用されていた、というのが大きいです
具体的には、1873(明治6)年~1917(大正6)年まで小学校として使用。さらに同年より1951(昭和26)年までは役場として使われ、奇跡的に戦災も免れました。関所廃止からなんと80年以上(!)、継続して使われ続けた、というのが結果的に保存に繋がった、という事になります
旧新居町役場が移転後、国は特別史跡に指定。保存に向けた動きが始まります
1971(昭和46)年には解体復元工事を実施。小学校や役場時代に改造されていた間取り等を、江戸期の関所時代に戻す工事が行われ、新居関所は往時の姿を取り戻しました。
又新居は、『水運の関所』としての役割も担っていました。現在でいう"船舶の臨検"も同関所が行っていたそうです
江戸幕府は、この新居が要衝として重要な事に鑑み、渡船業者には税を免除する一方、浜名湖を無許可で渡船する事を厳禁し、この新居関所で"海と陸の両方"に睨みをきかせていたと言えます。
この新居関、"関所/湊/宿場/渡船"、4つの機能を果たしていたという重要ポイントでした
江戸幕府の政策を伝える証人、新居関所でございました
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関所見学を終え、新居宿を歩きます
関所からすぐ、旧街道沿いに・
↑東海道宿場の面影を今にとどめる、旅籠が建ちます。
『旅籠 紀伊国屋』です
内部は↑資料館として公開されています
同宿、江戸時代の建物は1874(明治7)年に火事により焼失したとの事ですが、その直後に建替えられ、1897(明治30)年まで旅館として営業、江戸後期の建築様式が随所にみられるという事です。
"うなぎの寝床"風で、幅広というよりは奥行きのある間取りになっていました。
旅館廃業後も戦災/天災を免れて現存し、2001(平成13)年に解体・再整備、一般公開に至ったとの事です(※新居町指定文化財)
客室だけでなく、↑台所等も当時を再現
↑枕ですが、江戸時代の人ってこんな硬い枕で熟睡できたんでしょうか?w
ここ浜名湖近辺といえば、ご存知、うなぎが名物ですが、江戸期も同様だったようです
タレを蓄えていた↑カメも伝わっており、この紀伊国屋の蒲焼は美味しいと評判だったという事です^^
この紀伊国屋には裏門もあり、ここには管理の人もおらずポン開き(※見学の際は玄関に廻って入場券を買いましょう^)
↑裏庭には、土中に埋めた甕に水が垂れる音を竹筒で聞く、"水琴窟"があります
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紀伊国屋を出て、さらに街ブラ
"寺道"と呼ばれる、お寺や神社が集中する小径があります
街道沿いには本陣跡の表示等もあり、宿場の面影が残ります。
なぜ、この小さな範囲に寺社が集まっているかというと、宝永地震で新居宿が壊滅して総移転した際、この山沿いの一帯に寺院を集中させたとの事です。
寺や神社以外には民家が並ぶごく普通の集落で、観光化はされていません。
ちなみにこのような小道を新居では、"小路(しょうな)"と呼ぶそうです。
諏訪神社の前に、↑悠然と立つケヤキの古木が立派でした
(※新居町指定保存樹)
・街ブラを終え、線路沿いを駅へ戻ります
線路の反対側にはオジサンの憩いの場w、↑浜名湖競艇場がみえます
新居町駅から再びJR東海の電車に揺られ、歴史ある関所の街をあとにします
東海道五十三次シリーズ第1回、以上です^
東海道の企画なので、今後も静岡県での撮影が多くなると思いますが、静岡といえば"JR東海独占地帯"、快速も無く、ロングシートの短い編成は昼間でも混みあい、静岡県鉄道の旅は決して快適とは言えません。でもそれに耐えw^、東海道53次シリーズをこれから楽しんでいこうと思います。今後の展開をお楽しみに^
(※2022.4 2024.2 文一部修正)