2009年も早や、師走となりました
1年のバイク旅を締めるツーリング納め、今年は栃木・足利へ走ってきました。早速スタートします
いつも北へのツーリングでは休憩に寄る東北道・蓮田SAですが、これまで気がつかなかった↑芭蕉の句碑を見つけました
"行く春や 鳥啼き魚の目は泪"
ご存知、芭蕉が奥の細道出発に際し詠んだ味わい深い句ですが、出立の地は江戸・深川のはず。なぜ蓮田にこの句碑があるかというと、蓮田は都内から東北道へ乗れば最初のSA、いわば"現代の、みちのくへの出発点"という、少々こじつけっぽい理由だそうですw
館林ICで降ります
途中で一瞬群馬県を通る東北道、館林から県道を抜けて栃木県へ入ります
両毛地区を貫く幹線道路・国道50号に出ると、↑の標識が増えてきます
足利学校への案内板です^
途中、JR両毛線の足利駅へ寄ります
新前橋~小山駅を結ぶ両毛線、足利駅の開業は1888(明治21)年で、120年以上の歴史を持つ路線です
かつては当地の特産、生糸や農産品の貨物輸送で重要な役割を果たしましたが、2004年に貨物列車が廃止。現在は地域の足を担うローカル線として活躍しています
駅舎は土木遺産に選定されています。
往時を偲ぶ貨物用電気機関車が、↑駅前に保存されていました。
EF60型、現在の新型電気機関車のルーツ的存在で、保存例が少なく大変貴重なものですが、屋根が付いてない事もあって、保存状態が残念ながら今一つでした
駅前から、市内中心部を走っている中央通を抜けて~
足利学校前にある観光駐車場に、Wo号を停めます。
駐車場には↑観光案内所&売店もあります
観光駐車場と道路を挟んで、反対側には・
お堀の対岸、↑綺麗に整備された生垣のむこうに、足利学校の建物がチラッと見えてきます
やってきました、足利学校です(※国史跡)
この足利学校には、3つの門があります。
その一つ、↑"学校門"です
↑"学校"だけが書かれた額、日本最古の学校ともいわれる足利学校のシンボルとなっています
入口近くにある、↑『遺蹟図書館』
貴重な当時の文献を保存しています。現在の建物は1915(大正4)年に建てられたもので、栃木県最初の公立図書館だったそうです。
現在も資料室として使われています(※足利市重文)
なお、同館内には当時の典籍約2000冊が現存し、国宝や国重文に指定されている書物もあるとの事です
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"門が3つある"と前述しましたが、一番奥にある3つ目の門、↑杏壇門をくぐると・
儒学の祖、孔子廟があります。
足利学校や閑谷学校等、我が国の古い学校では孔子を"学問の祖"として尊崇すると共に、その教えを教育の基本としていました。
足利学校でも時代によって変化はありましたが、この儒学を始め、易学、天文学、兵学、医学等、当時最先端の学問を授けていたそうです。
敷地の中心には、↑"方丈"と呼ばれる大きな本館があります。
授業や行事を行っていた、いわば本校舎と言える建物です
残念ながら、元々の建物は明治維新や廃藩置県の混乱の中で取り壊され、現在のものは1990(平成2)年に再建されたものです。
方丈の前は、↑庭園となっています
往時の姿を再現、実に美しい日本庭園でした
この足利学校、いつ頃創建されたかは諸説が入り乱れ、現在でも解明されていません。
(※創建時の記録が残っていないそうです)
古くは奈良時代の国学制度が起源だという説から、小野篁が興したという説、足利義兼創建説等、様々ありますが、15世紀には既にその名が轟いていたそうなので、いずれの説であっても、日本最古の"本格的学校"には違いないとされています。
↑土間には、かまども設えてありました
先程ご覧頂いた写真の、学校門に掲げられた"学校額"はレプリカで、本物は↑建物内に大事に保管されています。
廊下をすすんでいくと、↑孔子像が。
孔子ゆかりのものは、同校内あちこちに見られます
方丈の、↑メインの大部屋へ。
講義の場であり、行事の際や接客にも使われていました。
いわば、"教室兼講堂"です
外に目を移すと、↑美しい日本庭園が
勉強するにふさわしい、落ち着いた環境と思いました。
方丈の片隅に、↑"漢字試験"のコーナーがありました。
見学客は、ここの畳に座って勉強が出来ます^
足利学校の校訓は『自学自習』です。なのでここには、先生も係員も常駐していません。自分で解いて、自分で納得するんですw
又、同校には"徳川家代々将軍の位牌"が遺されています。
僕は日光東照宮にあるのでは?と思っていましたが、実はなぜか足利学校にあります。
当学校、足利時代は勿論、江戸時代にも徳川家の庇護をうけていました。貴重な史料が数多く残る、足利学校です
方丈の片隅には、↑なものも
『宥座之器(ゆうざのき)』といいます。
↑下部にある水盤の水を、ひしゃくで上部にぶらさがっている器に入れます。しかし、入れすぎると器は傾いて水は全部こぼれて水盤に落ちてしまいます。大体6-7分目位入れると安定します。
この器具は、"物事は中庸が大事だ"という戒めを体感させるためのものです
方丈の横には、↑寄宿舎があります。
全国から集まっていたという学生は、ここで寝泊まりしていました。当時の寮での勉学風景が再現されています。"宿で勉強"、これぞ"宿題"ですw
方丈の裏手に廻ります
↑この日、"曝書"をしていました
曝書とは、年に一度ここで保存されている古文書に風を通し、虫干しをする"本のひなたぼっこ"です
裏手にも庭があり、紅葉が見事です
裏手にあった小さな部屋、ここにも孔子像が。
往時の"天文図"も置いていました。当時の学生に最先端の学問を教えていた、足利学校です
当時使われていた調度品も一部現存していますが、↑の"爼"(そ)は"まな板"です。
慣用句、"○○の俎上にのぼる"の語源です。
敷地内には、竹やぶも
日本庭園とかもそうですが、足利学校は"庭"を重要な存在とみている印象をうけました
学校裏手にある、代々の校長のお墓(※謹写)
足利学校の校長は庠主(しょうしゅ)と呼ばれ、主に高僧が全国から招聘されて勤めていました。なのでお墓も、上部が丸い、僧侶の墓石となっています。
なお、ここに入学した学生も、在学中は僧侶の身分となり、卒業して郷里に戻るとまた還俗して元の身分に戻っていたそうです。
足利学校は、明治維新直後の1872(明治5)年に廃校となりました。
廃校後、建物は放置され、その多くは取り壊されましたが、前述の通り1990年に方丈などを復元、再び往時の姿を取り戻しました。
現在は足利市が管理し、観光資源としてだけではなく、入口近くにある管理棟では地元の生涯学習のセンターとして活用されています。
足利学校の校是"自学自習"は、現代に受け継がれています
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同学校見学を終え、入口近くの道路歩道橋で、↑足利学校全景を撮影
(※↑写真中央に入ってしまう街路灯が残念ですが)
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足利学校北隣にある、寺院へ行きます
名は、『鑁阿寺』(ばんなじ)という難しい漢字のお寺です。
その右が山門です
本堂は、↑覆いがかかっていて、工事中でした
本堂の入り口に鎮座されている、↑おびんずるさま(※謹写)
自身の体の調子が悪い場所に触ると、ご利益があるそうです
なお、同寺の山門を入ると注意書きの掲示があり、『当寺は単なる観光寺院ではありません。必ず本堂をお参りください』とキッチリ書いてあります。
この鑁阿寺、境内敷地が歴史的な場所でもあります。
というのは、室町時代を築き、全国にその名を轟かせた足利家の邸宅が同寺敷地にあったそうです。
現在敷地には何も残っていませんが、敷地跡が国重文に指定されています
そしてこの邸宅跡は、↑紅葉のきれいな公園でもあります
紅いもみじも美しかったですが、よりひときわ目を引くのが↑イチョウの萌えるような黄色
樹齢1000年以上との事、大変立派な古木でした。栃木県の保存樹にも指定されています。
↑鐘楼
静かなお寺でしたが、歴史の地・足利に残る数々の史実を今に伝えるお寺でした。
寺前のお堀で、のんびり泳ぐカルガモ^
足利学校エリアをあとにします
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『行道山浄因寺』の入口にたどり着きました。
寺域に入ると、↑ワイルドな坂道に
途中には滝もありました
"阿吽の滝"というそうです。
途中に駐車場があり、車/バイクはここまでです
さらに伸びる↑石段を上がっていきます
ひたすら昇る石段の坂、かなりキツかったですが、途中に置かれた素朴な石仏さんに励まされながら登ります
ようやく↑山門が見えてきました
境内に着きました。
紅葉に囲まれた山寺、浄因寺です(※臨済宗)
713(和銅6)年、行基によって開創された古刹です。
"和銅"って、アノ和同開珎が鋳造された年でしょうか、凄い歴史です^
この深山の絶景、さすがは"関東の高野山"と呼ばれるだけあります
境内の周囲は断崖絶壁、紅葉が目に鮮やかでした
↑が本堂なんですが、参拝者や観光客を受け入れるという感じではなく、ほぼ住職さんの住まいという雰囲気でした。僕は着いてしばらく、これが本堂だとわかりませんでした
同寺への公共交通はなく、来るためには車/バイクが必須で、僕以外の参拝者は、紅葉を撮りに来ていた人が数人のみでした。
古くは坂東の山岳信仰の中心であった浄因寺、さらに奥へすすむと、寝仏のある『奥の院』に辿り着きます。
この断崖絶壁に囲まれた山寺、足利市内からバイクでわずか20分程とは思えない浮世離れした光景です。栃木県の名勝第1号に指定されているそうです
時間がきました。2009年ツーリング納めここまで、帰京します
佐野藤岡ICから、高速の人となります
僕は冬が苦手なので、寒い間Wo号は冬休みです^
来年のツーリング作をお楽しみに^
(※2022.4 2024.2 文一部修正)