川崎市の内陸部・多摩丘陵に、大きな公園、"生田緑地"があります
工業都市のイメージが強い川崎市ですが、長細い市域の内陸側には、武蔵野の面影漂う緑が残る所も多く見受けられます
川崎市の中部・多摩区、小田急線の向ヶ丘遊園駅近くにある生田緑地へ行ってきました。多摩丘陵の地形を生かした緑の公園です。ではご覧頂きます
この公園、広大な敷地(※約95ha)を持ち、いろんな施設がある事でも知られます。いくつか見ていきます
東門入ると、↑岡本太郎美術館が目に入ってきます
アノ"芸術は爆発だ!"の名言で知られ、大阪万博の太陽の塔を設計した事でも有名な、世界の芸術家・岡本太郎ですが、彼はここ、川崎市で生まれました
同館は内部撮影禁止で、当別荘で紹介しにくいので入っていませんが、今作メインで取上げたいのが、同公園内にある『日本民家園』です。
全国でも有数の、古民家を移設/展示保存している、野外博物館です。見学します
東門近くに、↑入口と本館棟があります。
常設展示室では、日本家屋の様式や地域ごとの特徴、さらには建築方法まで詳しく解説。コンパクトながらもかなり体系的/本格的な解説でした
ではこれから、全国から移設保存されている古民家を見ていきます
園内には、地元・川崎市や関東全域、さらには全国から移築してきた古民家、23棟(※2009年現在)が保存されています。
まず、地元川崎・中原区武蔵小杉の近くにあった↑『原家住宅』へ。
明治後期の豪邸で、完成まで22年(!)の歳月を費やしたと伝えられます
訪れた日が3月初旬だったので、ひな人形が飾られていました
井岡家には↑"床上"という案内板が。この"床上"表示のある家には上がって見学できるほか、ボランティアさんがいて解説してくれます
井岡家、かまどに火も入れられていました
実際にお湯を沸かしています
井岡家は店舗(油屋)を営んでいて、往時のままの帳場も
店舗スペースは、現在と同じく"みせ"と呼ばれていました
井岡家の↑外観です
ちなみにこの井岡家、奈良県から移設されたものです。
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歩いているだけで江戸時代にタイムトリップしている感もある、日本民家園です。次の保存民家は・
↑門のみを移設してきているものも。
愛知県にあった江戸時代後期の武家屋敷の門だとの事です
この門には、"部屋"が付いています
供待(※ともまち)と言われる、訪問してきた客のお供が主人を待つための場所だったそうです。
また、門番もここに控えていたそうです。
その門の奥にあったのが、↑薬屋を営んでいたという『三澤家』(※長野県より移設)
背後の丘陵の地形と緑が借景となって、この古い民家と見事に溶け込んでいます
"清掃法"、もしこの法律が現在も有効に存在しているのなら、昨今問題となっている"ゴミ屋敷"とかの取締根拠に活用できたら?とも思ったりしますが・
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野仏さんが、あちこちに置かれています
やさしく素朴なお顔立ちに癒されます
路傍に佇み、人々の心の拠り所になっていたであろう原始の神様、多数保存されていました。
この日ちょうどヒカンザクラも咲き、水車小屋と似合う風景を呈していました
修繕中の住居もありました。
↑の『佐々木家』住宅は1731年築(※国重文)、大規模補修中で、残念ながら見学中止になっていました。
ちなみに、この民家園で保存されている23棟の建物全てが、国/神奈川県/川崎市いずれかの、指定重要文化財です
見学順路中盤に、↑この民家園最大の見所、"合掌造り"を集めた一角があります
合掌造りといえば岐阜県は白川村が有名ですが、ここでは主に富山県南部から移築した民家を保存しています(※白川村からのものも1棟ありました)
重厚な佇まいの合掌造り、まさに"日本の原風景"と表現したくなるような家並です^
↑は、わらぶき屋根の端の骨組みにくくりつけられた藁縄。
職人技の真髄です。
写真では↑わかりにくいですが、手前の小さい建物はトイレです。
なんとトイレまで合掌造り^
合掌造りのうち1軒は、民家園が出来る以前、現地から民間人が購入して川崎に移築され、しばらく料亭として使用されていました。
その時改造された構造を生かして2009現在、園内のそば屋さんとして使われています
↑"合掌造りそば屋さん"の一角は休憩所になっていて、名物・民家園もなかを売る店も^
合掌造りの家のうち1軒も、↑床上公開されていました
いろりに火が入り、ボランティアの方が入館者そっちのけでw、囲炉裏端で話の花を咲かせていました^
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↑の石橋は、民家園近くの登戸にあったものを移設してきたものです
わかりにくい写真ですが、↑は沖縄県から持ってきた『石敢当』です。
(※シダの葉っぱの左にある石です)
↑は沖永良部島から移築してきた"高倉"。
はるばる南西諸島からも複数持ってきているのは驚き
穀物を、↑屋根のようにみえる倉庫部に保管し、ネズミの侵入を防ぐ工夫をしています。
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次は、↑美しくピシっとした深めの藁葺屋根が印象的な、大きい民家へ
↑は『広瀬家』、山梨県から移築した豪農の家です
↑は『太田家』
2棟つづきに見える、分棟型民家というつくりです。
(※内部は繋がっています)
広々としています
なぜか、この民家に貼られていた↑太政官の高札。"慶應4年"とあるので、江戸時代最後の年に掲げられたものです。
現代語に訳すと↓
1.倫理の道を心得て生活する事
2.未亡人や身障者等の社会的弱者をいたわる事
3.殺人・放火・盗み等は重罪である事
以上のような意が書かれていました。
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ここからは"神奈川の村"、地元神奈川県の家を集めた一角です
建築が1687年とはっきり判っていて、この年代の民家で建築年が明確に判明しているのは大変貴重なんだそうです。
北村家内部です。ここもいろりに火が入っていて、当時の暮らしが感じられました。
↑雛人形が飾られていました
同園は、その傾斜をうまく生かして民家を配置し、本当の昔の村に来たような視覚効果も出しています
路傍の地蔵さん、民家を見守りながら日なたぼっこ
↑は『清宮家』、地元・登戸にあった民家で、窓の少ない閉鎖的なつくりです
↑は、"船頭小屋"。生田緑地よりさらに北、多摩区菅(すげ)にあったものです。
戦前まで多摩川には渡し舟が各所にあり、船頭が客待ちや川の監視等をしていた小屋だったそうです
↑な建物も、川崎にもってきていました
三重県志摩地方にあった"漁村舞台"、かなり大きな建物です。
漁民の若者が歌舞伎等を演じていたという建物で、回り舞台も備えていた本格的なものです
昔の漁村の豊かさと文化の深さを感じます(※国重文)
さらには、↑な建物も。
養蚕の豊作を祈ったお堂です。川崎市北部・麻生区にあったものです。
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次は、『工藤家』
工藤家は岩手県より移築してきたもので、L字型の"曲り屋"造りです
うまやに、↑藁で編んだ馬が再現されていました
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月山山麓で見られたという、↑雪囲いを再現
いくつか紹介しきれてない民家もありますが、是非訪れてみて下さい。なかなか広大、見応えある日本民家園でした
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冒頭前述しましたが、面積約95ha、多摩区と宮前区に跨る、武蔵野の森を活かし、1941(昭和16)年に川崎市が"緑地"として指定。しかし時代は戦争に突入したため、公園としての整備は戦後始まりました。
なお、ここに隣接して、小田急が戦前から開発していた『向ヶ丘遊園』があり(※2002年閉園)、この両園が工業都市の川崎市に於いて"緑のオアシス"として親しまれてきました
繰り返しですが、武蔵野の原風景が気軽に味わえるいい所です^
生田緑地には、↓のものも展示されていました。
国鉄時代の客車が園内に置かれていました
懐かしの旧型客車、スハ42型です
手入れは行き届いていて、露天のわりには状態良かったです^
その横には、↑プラネタリウム
青少年科学館もあり、生田緑地は川崎市小学生が野外学習で訪れる場にもなっています
ホント広いです。"川崎"のイメージがかわります^
園の北側は、小高い丘になっていて、↑木道があったので登ってみます
先程入った民家園が、↑木道から見ると本当の山里の村のようにみえます
"枡形山"という丘の頂上です
この山には、↑展望台があります
登ってみます(※EVも設置)
かなり眺望がききます
展望台の手すりには、↑十二支の彫像が配置されています。
川崎はもちろん、横浜から都内まで一望の下
思いのほか眺望が良かったです
↑武蔵小杉の高層マンション群も
いろんな楽しみ方が出来る、川崎の広大な公園でした
生田緑地をあとにします。
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帰りは、緑地に隣接している↑専修大学バス停から、バスで向ヶ丘遊園駅に戻ります
新宿から小田急で20分余、多摩の緑を満喫できる川崎の穴場・生田緑地、のんびりと過ごす休日にお奨めです
(※2021.10 2024.2 文一部修正)