人生の大先輩のお言葉です。
歳をとれば,人にはできることとできないことがあることを思い知ります。
そしてやがて悟りを得た境地に至ります。
それは,できなくて悲しいというよりもあきらめることを知ります。
ここまで生きて,これだけのことをした,まあ,いいと思いましょうと,
自らに区切りをつけなくてはならないことを,次第に悟るのです。
老いるということは,
天へと続く,悟りの段階を上がっていくことなのかもしれません。
「私はいつ死んでもいい」と言う人がいます。
それは言っているだけで,人生やるべきことはやった,と自分で思いたいのです。
自分自身を納得させたくて,「いつ死んでもいい」と言うのです。
そう言うことで,自分が楽になります。
だけど,まだ死ねない。
これもあれもしなければと思うと,負担がのしかかってきます。
負担から逃れたい,負担を軽くしたい。
やるべきことはやったと思いたい。
いい加減はすばらしい。
日本人は,なにかあると「いい加減にしておきなさい」と言います。
ご飯がおいしいからといって,食べ過ぎてはいけない。
いい加減にしなさい。
口論が激しくなっていく様子を見てとれば,
いい加減にやめておきなさい。
「いい加減」は,すばらしい心の持ち方だと思います。
ほどほどに余裕を残し,決定的なことはしない。
日本の文化には,余白を残し,臨機応変に,加えたり減らしたりすることのできる「いい加減」の精神があります。
自分の目で見れば,新しい発見,新しい喜びがある。
あの人はなぜ自殺しなくてはならなかったのか,
自分に何かできたのではないかとの思いがある友人に,
私は,納得しようとするのは,あなたの思い上がりです,と言いました。
人というものは,納得できないことのほうが多い。
自分たちの知恵では,わからないことのほうがずっと多い,
と長く生きてきた年の功で教えました。
ですから,なぜ自殺したのかは誰にもわからない,と。
人というのは不思議な生き物。
かんたんに割り切れるものではないと私は思っています。
たとえばスポーツにしても,何もそんなに必死になって泳がなくたっていいはずです。
なぜそこまでして泳ぐのか?
それはこういう理由です,と明確に答えられる人はいないでしょう。
泳ぐからには,一番になりたい,記録を更新したい,ということです。
何かに夢中になるものがないと,
人は生きていて,なんだか頼りない,何かに夢中になっていたいのです。
それが,一番になりたい,記録を更新したいという思いにもつながっていきます。
何かに夢中になっているときは,ほかのことを忘れられますし,
言い換えれば,一つ何か自分が夢中になれるものを持つと,
生きていて,人は救われるのだろうと思います。
仕事に夢中になったり,趣味に夢中になったり,
宗教などに夢中になるのもそうだろと思います。
人はみな,何かにすがっていたい,どこかによりかかるものがほしい。
その一役を買ってくれるのが,何かに夢中になることだと思います。
夢中になれるものが見つかれば,人は生きていて救われる。
頭で納得しよう,割り切ろうとするのは思い上がり。
これくらいが自分の人生にちょうど良かったかもしれないと,
満足することのできる人が,幸せになれるのだろうと思います。
考えてみれば,人と人の関係においても,
真正面から向かい合うこともあれば,相手の背中を見ていることも,横から見て
いることもあります。
見方を変えれば,新しい発見があるかもしれません。
人生は山あり谷あり。
ようやく平地を得たとき,感謝して大事にする。
どんな斜面にも,つかのま安心できる場所がある。
「わが立つそま(杣)」
「そま」は,滑り落ちそうな山の斜面にある,ほんの少し平らになった場所を
指します。
・・・ 篠田桃紅「一〇三歳になってわかったこと」から抜粋