マルです。




宍戸藩士小幡友七郎と藩主松平頼徳の主従関係について、まとめてみました。




まずは、主君 松平頼徳について↓

松平頼徳 1831―1864


1846年 父 頼位の隠居により後を継ぎ、常陸国宍戸国9代藩主となる。

1864年9月4日 幕命により水戸藩主の名代として水戸藩内乱の平定のため水戸へ向かうも、市川三左衛門らに入城を阻まれ那珂湊にて交戦。

同年10月28日 幕府追討軍総括 田沼意尊により賊魁の汚名を着せられ捕縛される。

同年11月4日 水戸藩支族 松平萬次郎邸にて切腹させられる。享年34。


※ 日にちは全て西暦です。

※ 宍戸藩は僅か1万石の小藩ですが、水戸徳川家の御連枝で家格の高い藩でした。


友七郎については【贈正五位事蹟】宍戸侯松平頼徳に仕へて近習頭となり通事を勤め、藩校脩徳館の教職を兼ぬ【贈位諸製賢伝】世々 水戸支藩宍戸の重臣なり、藩主松平頼位父子の信任厚し、常に帷幕の議に参し、(~略) などの記述があります。


近習というと主君の身辺警護が一般的な任務となりますが、その中でも友七郎は通事(取り次ぎ)や教職、幕政会議への参加など様々な役目を果たしています。


通常、近習は藩主と口を利けるほどの位では無いのかも知れませんが、友七郎は日頃から頼徳と会話が出来るくらいの立場にいたのかも知れません。


なぜなら小幡家は宍戸松平家が水戸徳川から分家するより前から水戸徳川家に仕え、宍戸藩でも代々家老や御用人など重役を担ってきた古参の家柄であるからです。(小幡城の子孫と云われています!)  友七郎は近習頭の地位で命を断ちましたが、その先があったならきっとかなりの昇進をしていたのだと思います。


そして何よりも宍戸藩が本当に小さな藩なので。たった100~120人程の藩士達の中では、例え低い役職であっても、藩主と直接言葉を交わす機会はあったのではないかと。



江戸での職務の中で、友七郎と頼徳にどれほど交流の機会があったのか実際のところ分かりませんが、水戸の内乱を鎮静するため江戸を出てからは確実に主従の絆は深まった筈です。


江戸を出た大発勢(頼徳軍)は、水戸藩からの加勢や途中勝手に合流した者達を含め、水戸に着くまでには1500人もの大軍に膨れ上がっていました。その中で宍戸藩士はたった63名です。


後から加わった数百人は皆、市川三左衛門ら諸生党に占拠された水戸城奪還のため水戸を目指します。しかし宍戸藩士達の最優先事項は、主君である頼徳公の補佐と護衛です。


近習頭の友七郎は江戸を出て約2ヶ月間、特に交戦が始まってからは常に頼徳の側に仕えていた筈。四六時中を共に過ごしていたのです。



頼徳は、鎮圧失敗の弁明のため訪れた下市会所にて「賊魁」の汚名を着せられ捕縛されます。頼徳が支族の松平萬次郎邸預けとなり迎えの籠に乗る際、家臣達は流涕の声を上げ泣いたそうです。


【近世日本国民史】従臣 小幡友七郎ら7人は、君辱しめらるれば臣死す、の大義に仗りて何れも當日切腹して死した


友七郎ら7名は憤慨し、主君の難を救えなかったことを悔い、ニ畳の小座敷で自刃しました。





頼徳の切腹の儀が執り行われる日、松平萬次郎の家臣 山崎直次郎は頼徳に、小幡友七郎ら頼徳の家臣達が既に亡くなっていることを伝えます。家臣達の死を知った頼徳の様子に胸が痛みます。


【水戸藩史料/山崎直次郎説話】委細に申上げたる時は、眞に御憤慨の気色面にれ、涙を含ませられながら、小幡等も死したる乎、と遊ばされたる御容は今尚現然と覚えて何共申上げ難き次第なり


私が見つけられた史料の中で、頼徳が涙を見せたという記述はこの場面だけです。切腹の直前には「我も大名の家に生まれたれば立派に死して見すべし」と落ち着いた様子を見せています。


友七郎ら家臣達が主君である頼徳を奪われ涙したのと同じように、主君である頼徳もまた家臣達の命を守れなかったことに涙を見せたのです。


主君と家臣という立場の違いはありますが、友七郎ら家臣達と頼徳侯の互いを大切に想う気持ちは同じだったのかも知れませんね。







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