マルです。




今日は宍戸藩士 小幡友七郎 について、ざっくりまとめたいと思います。




小幡友七郎、名は通贇 (1829~1864)

常陸宍戸藩 幕末の武士です。

水戸藩内の取締りのため藩主 松平頼徳に近習頭として従い水戸に入るも、天狗党の乱に巻き込まれ、元治元年9月28日 (西暦1864年10月28日)下市会所にて自刃。享年36歳。



水戸天狗党の乱

元治元年8月4日(西暦1864年9月4日) 松平頼徳は水戸藩主の名代として水戸藩内を平定するよう幕命を受け、近習頭の友七郎もそれに従い水戸へ出発します。

しかし市川三左衛門の罠に嵌められ、主君 頼徳は [賊魁] の汚名を着せられ捕縛されてしまいます。これに憤慨し、主君の難を救えなかったことを悔いた友七郎は、同志6人と共に二畳の小座敷で自刃しました。



贈位正五位

大正7年、正五位を贈位される。

茨城県知事から内務大臣宛に送られた贈位之義内申の書です。



小幡友七郎の人となり

友七郎が正五位を贈位された際の文献に記されています。

【茨城県贈位者事蹟】より

宍戸公 松平頼徳に仕えて、近習頭となり通事を勤め、藩学脩徳館の教職を兼ぬ、資性謹直、学問武芸に達す、常に頼徳を輔翼して勤王の事業を成さんと欲し、丙忠孝節義を以て、一藩の子弟を励まし外緒藩の志士と交わり、尊攘の義を唱ふ、以下、省略

近習というと主君の身辺警護の任務なので、武芸に秀でていたのでしょう。そして藩学校の教職も兼ねていたと。近習頭として、武芸だけでなく才知も兼ね備えた優秀な人物であったようです。素敵!


【贈位緒賢伝】より

水戸支藩宍戸の重臣なり、仕えて近習頭と爲り、藩主 松平頼位父子の信任厚し、宗藩水戸の幕政参與に副ひ、尊攘の斡旋に方り、常に帷幕の議に参し、報效自ら期せり、以下、省略

近習は普通ならば警護が主な任務かと思いますが、友七郎は幕政など重要な会議に常に参加していたと記されています。[重臣] [藩主の信任厚し] と書かれているので、近習として以外のいろいろな役も任されていたのかも知れません。宍戸藩は小さな藩ですから。



小幡城との繋がり

宍戸藩の小幡氏は小幡城の子孫と考えられているそうです。きっと友七郎も小幡城の子孫!宍戸藩には友七郎の他にも、年代は違いますが家老や御用人に小幡の名前が見られます。

 



小幡友七郎のことは小幡城を調べていて知りました。小幡城の子孫かもしれないということで、とんでもなく興味を持った武士なのです。





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