マルです。




笠間市立歴史民俗資料館へ行ってきました。実は随分前に。




【笠間市立歴史民俗資料館】

茨城県笠間市平町2―9  宍戸小学校前交差点門にあります。(画像お借りしました)


趣のある古い洋館です。そして、この建物にしっくりとくる穏やかで優しそうな男性の職員さんが1人いらっしゃいました。


1人です。1人だけ。1日中お一人なのかな。来場者が無い日もありそうですが寂しくはないかな、と余計な心配を。

 



私がここを訪れた目的は、宍戸藩士 小幡友七郎の出自や墓所に関する資料、幕末の宍戸藩士の分限帳などないかな~と期待しつつの訪問です。


まずは天狗争乱の殉難碑を写した拓本を発見!上段の右から5番目【小幡通という名が友七郎です。友七郎の名でお馴染みですが(馴染みでない?) 友七郎というのは通称でが正式な名前です。

水戸藩内の抗争を平定するようにとの幕命を受け水戸に入った宍戸藩主 松平頼徳の家臣62名

殉難碑は水戸市の回天神社、笠間市の養福寺などに建てられています。

殉難した頼徳の家臣62名。小藩といえど、水戸徳川家の支藩である宍戸藩の藩士の半数以上が切腹、斬首、獄死しています。しかも市川三左衛門の罠に嵌められ、賊魁の汚名を着せられたまま。

友七郎と共に自刃した同士6名の名も刻まれています。(海老澤鐵之介の名前が見切れてしまいました)

元治元年9月28日 (西暦1864年10月28日) 友七郎ら7名は主君である松平頼徳が捕らえられたことに憤慨し、その難を救えなかったことを悔い、水戸の下市会所にて自刃しました。


自分の命よりも大切な主君を奪われたのですから、「悔しい」 「辛い」 という言葉などでは言い表せないほどの絶望的な気持ちだったのではないかと思います。この碑に名のある藩士達一人一人が、無念の想いを抱えながら亡くなったのでしょう。

 



その他の小幡友七郎に関する資料は、職員の方に伺ってみましたが残念ながら見付かりませんでした。


他に何か宍戸藩に関する本などあれば~とお願いしたところ、こちらを見せて下さいました↓


本のタイトル何だっけ?○○郷史とか○○町史かな。

宍戸松平家三代目藩主 頼慶の代の家老に小幡権右衛門の名があります。【小畑】と誤字で印字されているようです。

次の四代目頼多の代になると用人にの欄に小幡権右衛門の名があり、もう1人小幡平馬の名が登場します。友七郎の先祖ではないかと。友七郎の親兄弟もいると思うのですが、まだ何の資料も見付けられていません。


これから色々調べていきたいです。見付かるかな。見付からないかな。

 



次は拓本でなく、本物の殉難碑を見に行きたいです。回天神社に行こうかな、養福寺に行こうかな。


神社って勝手に入ってもよさそうですが、小さめのお寺って黙って敷地に入ってもいいのでしょうか。






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