「歎異抄」を読んで | マルフジノート

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 昔「自分は何宗や?」とある先生に聞かれた事がある。

「さぁ~親に曹洞宗って聞いた事があります」と答えたら「曹洞宗、自分お金持ちのボンボンやな~、わしら百姓の子やから(浄土)真宗や」って言われた。

 そんな自分のこと卑下するというかへり下る、この先生も彼のせいで浄土真宗もそれ以来敬遠していた。

 

 ところが西田幾多郎(彼の著書難しくて挫折するけど)は日本に「臨済録」と「歎異抄」があれば他の書物は燃えても良いと言い、三木清(彼の著「人生論ノート」はバイブル)も一つだけ書物を選ぶとしたら「歎異抄」と言い、司馬遼太郎も孤島に持っていくなら「歎異抄」と言わしめる。そんな凄い書物なんか?と読んでみようと買ってず~っと枕の横で熟成することほぼ1年、何にも読むもん無くなってようやく読んでみた(笑)

 

 

 一通り読んで感想は上記の偉~い人が評価しているけど「一体何が良いんや?」

というのが正直な感想である。

 

その理由は念仏を唱えようと思った瞬間、浄土に行ける。

そして極悪非道な行いをした人間も浄土に行ける。

 

なんでも有りの泣タン有り(麻雀用語)やん!

それやったら、そもそも宗教いらないのでは?

と思ったら「歎異抄」の何が良いのか分からなかった、

 

自分自身が良い行いや仏教の勉強(自力というらしい)しないでも阿弥陀様が浄土に連れて行ってくれる(他力というらしい)らしい。

「他力本願」ってここからきたのか!とそれだけは分かった。 

 

よー分からんので3回ほど読み返し、ぼんやりと見えてきたことは3つある。

 

 まず1つは歎異抄第四段に登場する「慈悲」の考え方、慈悲って初めて知ったのは学生時代読んだ手塚治虫さんの「ブッダ」(私の文字通りバイブル)である。そこで慈悲とは他人が酷い目にあって、それを実際助けれないでも可哀想と思う心を持つ事が大切でそれを「慈悲」と呼ぶと仏陀が言うシーンは今も忘れない。

 

この第四段は聖道門(自力の仏教のこと)では慈悲とは「憐れみ、悲しみ、保護しようとするもの」だけど思いのまま他人をたすけてあげることはできない。浄土門(他力の仏教)では今この世にあって、どれだけ他人に同情し、相手を気の毒に思っても(私の中では今のガザやウクライナやビルマなど)完全な意味で他者を助けてあげることできぬのであって、そういう慈悲は所詮中途半端と言い、ただただ念仏することだけが徹底的な大慈悲心だと親鸞は言う。

 

 2つ目は歎異抄第九段「浄土が恋しくないのは何故か?」である。

何もしないでも極楽浄土に行ける、となると今生の世はどうでも良くなる。

でも著者の唯円は何故(死に)急いで浄土に行きたい気にならないのは何故か?と師匠の親鸞に尋ねるシーンがある。それへの返答は煩悩(この世にまだ未練がるということ?)のせいと答える。

 

これは頂いた命を生き抜くって大事である。

例えばジハードや日本でも戦前(神道なのか)の殉死の考え方は人の尊厳を軽~くみていると思う。前段の煩悩(今生に未練)があるからこそ死に急がない、これを「煩悩を持った凡夫」という。

 

浄土真宗って一向一揆で武士と戦っても死ねば極楽浄土に行ける(ジハード)って考え方で怖~いと思ってたけど親鸞はそんなこと言っていないのが目から鱗だった。

 

 3つ目は歎異抄「結文」である。

どんなに知恵や広い学問をしても、文字の読めない人も信心は同じであるという事。

また年齢に関係なく、男女、体に不自由があっても信心においては同じであると言った。

人に序列をつけない一貫性は素晴らしい!

 

 おそらくこの著書は一生、読み進めるごとに発見があるように思えるし、冒頭の偉い人も繰り返し読んだ思う。だからずっ~と継続して読み返そうと思う。

 

 因みに冒頭の浄土真宗の先生にもし会うことあったら言い返してやろうと思う。

百姓だろうが貴族だろうが信心は同じと親鸞言ってませんでしたかと・・・