出雲国造の本貫地意宇に坐す熊野大社~初夏出雲行(24) | 日々のさまよい

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太陽は富士から伊勢を超え日御碕へ至る~初夏出雲行(23)←(承前)




月がまだ輝くしじまの中、熊野大社に到着しました。

県道53号線沿いの大きな駐車場へ車を停め、一の鳥居をくぐって参道を進むと、意宇川を渡る朱塗りの八雲橋手前に、この二の鳥居が建ちます。

玉造温泉を03:50ごろに出発し、ここでの時刻は04:20ごろ。
夜明04:18/日出04:55という6月4日となります。


熊野大社について、はじめに/歴史的混沌-祭神の多重性~初夏出雲行(2)から再録します。

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熊野大社
熊野大社ホームページ
Wikipedia/熊野大社
出雲國神仏霊場公式ホームページ/熊野大社

主祭神:伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命
・・(いざなぎのひまなごかぶろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)

長っいお名前ですね~。
意味は「イザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子」で「神聖なる祖なる神様」である「この熊野に坐します尊い神の櫛御気野命」。

「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解するのが通説」。
これは出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)に出てくる神名を採用したものであり、出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなごくまのにますかむろのみこと)」とある」。

出雲国造(いずもこくそう)とは、かつて出雲国を上古に支配した国造で、その氏族である出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いで、今に至っているということです。
Wikipedia/出雲国造

そして、出雲国造神賀詞とは、出雲国造が京まで出向いて天皇に奏上する寿詞で、出雲国と出雲神の完全服属を証す儀式となります。
Wikipedia/出雲国造神賀詞

そして、熊野大社ホームページによると、このクシミケヌ(櫛御気野命)という神名は、スサノオノの別神名、ということだそうです。

けれども、伊邪那伎日真名子のイザナギはそもそも淡路の神さまだと思いますし、スサノオも御食に関連するよりはむしろ金属に関連する神さまだと思いますから、記紀以前のことを考えれば、クシミケヌとは地元独自の穀霊である祖神としてあったのであろうと思われます。

第82代出雲国造の千家尊統による『出雲大社』にも、このように書かれています。
祭神クシミケヌノミコトをイザナギノミコトの聖なる御子神というところから、これをスサノオノミコトにあてて解してきたことは、賛成できない古典解釈であった。祭神はどこまでも熊野の大神であり、その御名をクシミケヌノミコトというとおり、穀物霊であったのである
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意宇川の下流方向を八雲橋の上から望む。
ここで川の流れは、ほぼ北東を向いています。

日の出はまだ少し先ですが、朝焼けが少しずつ
広がります




八雲橋を渡って三の鳥居をくぐると左に手水舎があり、随神門を前にして、左手向こうに社務所の明かりが灯っていました。

熊野大社の本殿は、北から東回りでほぼ120度の方向を向いており、冬至の日出と夏至の日入を結ぶ直線が中心軸となっていますので、これはそれと直交するおよそ南南西の方向となります。




随神門をくぐり、拝殿前から来た方向を振り返る。
電灯で照らされた随神門の向こうに、八雲橋の朱色が見えます。

少しずつ、辺りが明るくなってきました




境内から、日出の方向を望みます。
右の社殿は随神門。




中央が拝殿、右手は舞殿、左がお守り所。
朝陽はまだ、境内へ届いていません。

拝殿の屋根、左上あたりに本殿の千木が見えています。




拝殿でのお参りを済ませてから、とにかくそれまで真っ暗で何もハッキリと見えなかったため、明るくなってきたことでいったん八雲橋まで戻り、もう一度見えにくかった風景や社殿などを確かめます。

先ほどと同じ、八雲橋の上から望んだ意宇川の下流方向。
まだ太陽は顔を出していない04:40ごろ。




三の鳥居。
そこに随神門と拝殿の大きな注連縄が、重なるように見えています。




随神門と、その向こうに拝殿。
けれどもなぜか、拝殿での写真を撮っていませんでした~(泣)




仁王のような物腰で、Mさんが社務所の方へ歩いていきます。
その先では空の残月が、杜に寄り添い私たちを見つめます。




右の階段を上がると、瑞垣内の向かって左側にある伊邪那美神社の拝所。
以下、熊野大社ホームページの社殿説明その他の建物から引用します。


伊邪那美神社
素戔嗚尊の御母神がお祀りされています

祭神:伊邪那美命(いざなみのみこと)

配祀:速玉之男命(はやたまのおのみこと)
・・・事解之男命(ことさかのおのみこと)
・・・大田神(おおたのかみ)
・・・衢神(くなどのかみ)
・・・埴山姫命(はにやまひめのみこと)
・・・天児屋根命(あめのこやねのみこと)

合祀:王子神(おおじのかみ)
・・・素戔嗚尊(すさのおのみこと)
・・・大山祇神(おおやまつみのかみ)
・・・戸山祇神(とやまつみのかみ)
・・・事代主命(ことしろぬしのみこと)
・・・応神天皇(おうじんてんのう)
・・・山雷神(やまいかづちのかみ)
・・・爾保津姫命(にほつひめのみこと)
・・・羽山祇神(はやまつみのかみ)
・・・岐神(ふなどのかみ)
・・・長道磐神(ながみちはのかみ)
・・・煩神(わずらいのかみ)
・・・開囓神(あきぐいのかみ)
・・・千敷神(ちしきのかみ)
・・・大雷(おおいかづち)
・・・火雷(ほのいかづち)
・・・土雷(つちいかづち)
・・・稚雷(わかいかづち)
・・・黒雷(くろいかづち)
・・・山雷(やまいかづち)
・・・野雷(のいかづち)
・・・裂雷(さくいかづち)
・・・菊利姫命(くくりひめのみこと)
・・・泉守道人命(よもつちもりのかみ)

明治39年政府の神社整理「一村一社制」により熊野村内にあった多数の神社を明治41年に稲田神社と伊邪那美神社に合祀しました。
伊邪那美神社には19社合わせて祀られています。
もともと熊野大社から400mほど離れた「上の宮」で祀られていましたが、上記の政府の政策により現在の場所に移され、祀られるようになりました



左が鑚火殿。

萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁がめぐらされています。
鑚火祭の舞台となる場所であり、燧杵・燧臼が保管されています。
又、出雲國造の「火継式」に使われます。
この建物は大正4年(1915)に鑚火祭が熊野大社で行われるようになったことから翌年氏子により建てられました。
他の神社では見ることの出来ない当社特有の建物であります。
現在の物は平成3年に奉新建されたものです



この鑚火殿前の参道を奥へ進むと、荒神社と稲荷神社が並び、荒神社の脇には御神水があります。
けれども今回、時間の都合でこちらの奥へは伺えませんでした。

何より御神水は頂きたかったのですが、お参りもせずお水だけ頂戴するわけにもいきませんから、涙の割愛となりました。orz




拝所から伊邪那美神社を望む。

外観は大社造と同じですが、扉が正面中央にありますから、屋内は田の字に仕切られていないかと思われます。




拝所の屋根と、向こうに伊邪那美神社の屋根。




伊邪那美神社の拝所から、本殿を望む。
右手前は拝殿


熊野大社本殿

祭神:神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)
・・・(素戔嗚尊(すさのおのみこと))

熊野大社のご祭神熊野大神がお祀りされています。
大社造り。入母屋の妻入り。内部は田の字型の4つの部分に分かれています。
現在のものの軸立は昭和23年(1948)、屋根は檜皮葺きであったが、昭和53年(1978)銅板葺きに改めました。
現在の社殿は昭和53年(1978)に幣殿と拝殿を増築して完成しました。
原始は現在の「天狗山」の山頂付近にある巨大な岩(磐座)があり、そこに祭祀され、その地は「元宮ヶ成(げんぐがなり)」と呼ばれています

1978年(昭和53年)の戊午遷宮を機に、本殿をはじめ諸社殿や境内が一新されたとのことで、一見、古色蒼然とした社殿ですが、実のところ意外と新しいようです。


そこで、どうしても気になるのが、主祭神のクシミケヌをスサノオと同一視する点です。

Wikipedia/熊野大社/祭神によれば、

現代では櫛御気野命と素戔嗚尊とは本来は無関係であったとみる説も出ているが、『先代旧事本紀』「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも現存する伝承が成立した時にはすでに櫛御気野命が素戔嗚尊とは同一神と考えられていたことがわかる。明治に入り、祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」としたが、復古主義に基づいて神名の唱え方を伝統的な形式に戻したまでのことで、この段階では素戔嗚尊とは別の神と認定したわけではない。後の神社明細帳でも「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、同一神という伝承に忠実なことでは一貫しており、別の神とするのはあくまでも現代人の説にすぎない

ということですが、ご紹介した通り、第82代出雲国造千家尊統『出雲大社』では、

祭神クシミケヌノミコトをイザナギノミコトの聖なる御子神というところから、これをスサノオノミコトにあてて解してきたことは、賛成できない古典解釈であった。祭神はどこまでも熊野の大神であり、その御名をクシミケヌノミコトというとおり、穀物霊であったのである

と明記されていますから、どうなってるんでしょうか???



まあ、その謎はともあれ、ちなみにですけれど、熊野大社、その元宮ヶ成である熊野山(現在の天狗山)、そして八雲山、須我神社の位置関係は、このようになっています。


右上の赤マークが熊野大社、右下の黄マークが天狗山、その左上の黄マークが八雲山、左の橙マークが須我神社。

かつて出雲国造が、このように山奥となる天狗山の熊野大社から杵築大社までを往復し、奉斎を完璧に兼任できていたとは、やはりどうしても思われません。
今の熊野大社でさえ、杵築は遙か遠くですから…




瑞垣内の向かって右側にある稲田神社。
2人とも、かなり寒そうです。

ここ出雲では一般と正反対に、向って左が右より上位との通り、先の母神である伊邪那美神社は向かって左、こちらの后神は右となっています。


稲田神社
素戔嗚尊の御后神がお祀りされています

祭神:櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)
・・・足名椎命(あしなづちのみこと)
・・・手名椎命(てなづちのみこと)

配祀:御前神(みさきのかみ)
・・・速玉之男命(はやたまのおのみこと)
・・・奇八玉命(くしやたまのみこと)

合祀:火知命(ひしろのみこと)
・・・建御名方命(たけみなかたのみこと)
・・・大物主神(おおものぬしのかみ)

明治39年政府の神社整理「一村一社制」により熊野村内にあった多数の神社を明治41年に稲田神社と伊邪那美神社に合祀しました。
稲田神社には6社合わせ祀られています。
現在の社殿は明治42年(1909)に建てられたものです



そこでイザナミをスサノオの母神とすることについて、前から不可解に思っている事があります。

それはスサノオに限りませんが、あくまで古事記においてのことですけれど、イザナミの追撃を振り切って黄泉の国から逃れたイザナギが日向の阿波岐原で禊を行い生まれた子神たちの母は、少なくともイザナミではあり得ない、ということです。

日本書紀の本文では、
三貴子がイザナギとイザナミの夫婦神から生まれたことになっていますから、それはそれでイイんですけれど。

そもそも男神であるイザナギが子神を産む、と考えることに、かなり無理がありますけれど、どうにか百歩譲って神さまなんだからそれもアリかと納得するにしても、イザナミは黄泉の国へ行ってから体も腐ってますし、イザナギとは絶縁になって孕む機会もなかった筈です。

にも関わらず、何故かイザナミは記紀ともに三貴子の母神として扱われるのですから、不思議でなりません。

そこで例えば、もしかしたら黄泉の国で再会した際、イザナギとイザナミは知らぬ間に雌雄が逆転し、イザナミが自分の子種をイザナギへ宿らせていた、ということなのかと考えたり…

どうなんでしょう?(苦笑)




鑚火殿を正面から。
右奥には、稲荷神社の赤い鳥居が並んでいます。




狛犬、阿。

向こうの空が、朝焼けで朱色に染まっています。




狛犬、吽。

この、後ろ脚を伸ばしお尻を高く突き上げる姿勢の狛犬は、出雲で特有のものなのか、他で見た事がありませんでした。

おそらく威勢の良いところを表現しているんだろうと思われますが、どうにもサカっているようで、微妙です(笑)




八雲橋から、意宇川の上流方向を望む。

あまり自信がありませんけれど、向こうに聳えるのは、おそらく八雲山かと思われます。
もし間違っていたらゴメンナサイ。




ようやく明るくなったので、二の鳥居を撮り直しました。
八雲橋の朱い欄干が鮮やかです。




ここ八雲町の朝焼け。

松江市八雲町 ようこそ八雲へ
松江市八雲町 ようこそ八雲へ/八雲町マップ




県道53号線に向かって建つ一の鳥居。
時刻はちょうど05:00ごろ。


次は、八雲山の中腹にある須賀神社奥宮へと向かいます。

実のところ、熊野大社を出たらスグ近くにある熊野大社上の宮跡を見てみるつもりでしたが、県道を走りながら見落としたようで行き過ぎてしまい、これも割愛となってしまいました(泣)



(つづく)→ 八雲山に鎮まる須賀神社奥宮の夫婦岩~初夏出雲行(25)




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