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はじめに/地理的現実~初夏出雲行(1)←(承前)


次に、出雲がはらむ歴史的混沌について、どのような点が不可解と感じられたかを書き出してみたいと思います。

やはり祀られているご祭神やそれにまつわる神話や伝承によって、参拝する時の心構えというものもあるかと思いますし、それらがどうにも不明だったり不可解ですと、何だか気持ちも落ち着きません。




B-1)祭神の多重性


これは出雲に限ったことではないと思いますけれど、従来から祀られていた筈の地主神が、いつの間にやら記紀神話の神に擦り変えられている、という件です。

また何より、古事記神話のおよそ4割が出雲の神々にまつわる物語であるわけですから、出雲の主要な神社で主祭神が記紀以降で入れ替わっているとすれば、そもそも出雲神話とされている物語自体が、本来より出雲古来のものであったかどうかが疑わしくなってしまうと思うのですけれど、いかがでしょう?


試しに幾つか例を挙げてみますと、こんな感じです。




熊野大社
熊野大社ホームページ
Wikipedia/熊野大社
出雲國神仏霊場公式ホームページ/熊野大社

主祭神:伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命

    (いざなぎのひまなごかぶろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)

長っいお名前ですね~。
意味は「イザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子神聖なる祖なる神様」である「この熊野に坐します尊い神の櫛御気野命」。

「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解するのが通説

これは出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)に出てくる神名を採用したものであり、出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなごくまのにますかむろのみこと)」とある

出雲国造(いずもこくそう)とは、かつて出雲国を上古に支配した国造で、その氏族である出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いで、今に至っているということです。
Wikipedia/出雲国造

そして、出雲国造神賀詞とは、出雲国造が京まで出向いて天皇に奏上する寿詞で、出雲国と出雲神の完全服属を証す儀式となります。
Wikipedia/出雲国造神賀詞

そして、熊野大社ホームページによると、このクシミケヌ(櫛御気野命)という神名は、スサノオノの別神名、ということだそうです。

けれども、伊邪那伎日真名子のイザナギはそもそも淡路の神さまだと思いますし、スサノオも御食に関連するよりはむしろ金属に関連する神さまだと思いますから、記紀以前のことを考えれば、クシミケヌとは地元独自の穀霊である祖神としてあったのであろうと思われます。

第82代出雲国造の千家尊統による『出雲大社』にも、このように書かれています。
祭神クシミケヌノミコトをイザナギノミコトの聖なる御子神というところから、これをスサノオノミコトにあてて解してきたことは、賛成できない古典解釈であった。祭神はどこまでも熊野の大神であり、その御名をクシミケヌノミコトというとおり、穀物霊であったのである




美保神社
美保神社ホームページ
Wikipedia/美保神社
出雲國神仏霊場公式ホームページ/美保神社

主祭神:三穂津姫命(みほつひめのみこと)
    事代主神(ことしろぬしのかみ)

三穂津姫命とは、このような神さまです。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した
Wikipedia/三穂津姫

けれど、やはり元々の神さまがおられました。
『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる

美保神社は、国譲り神話をふまえた青柴垣(あおふしがき)神事と諸手船(もろたぶね)神事により有名で、ゑびす様の総本宮ということです。
けれど、ミホツヒメコトシロヌシを主祭神として、ミホツヒメを上位として扱っているようなのは、ゑびす総本宮とするわりに微妙ですね。
そもそもの主祭神がミホススミということから、その名前に似ているミホツヒメへ主祭神を変更したための名残でしょうか。

主祭神をミホツヒメに変更、あるいは習合してしまった理由は、オオクニヌシの子神コトシロヌシを記紀神話にちなみ主祭神として持って来たかった、ということかも知れません。
あるいは逆に、えびす神が漁師の守護神として古くから祀られていたところへ、記紀神話もあって先ずえびす神がコトシロヌシと習合したことから、主祭神のミホススミがミホツヒメへと変えられた、とも考えられます。

ちなみに、えびすと言えば兵庫県にもうひとつ、えびす宮総本社の西宮神社があります。
こちらは主祭神がイザナギとイザナミの第一子である蛭児(ひるこ)であり、不具のため葦の舟でオノゴロ島から流され捨てられた神さまです。




神魂神社
Wikipedia/神魂神社

主祭神:伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)

こちらは、そもそもの主祭神が不明とされています。
現在は伊弉冊大神(イザナミ)を主祭神とし、伊弉諾大神(イザナギ)を配祀するとしているが、これは中世末期ごろからのもので、それ以前の祭神は不明である

神魂神社は大庭大宮(おおばのおおみや)とも呼ばれ、かつてこの地に居住した出雲国造の私的な祭場、あるいは私邸内の社だったと考えられているそうです。
そのため、「出雲穀風土記」や「延喜式」にもその名はないとのこと。

ただし、出雲国造の祖神とされるアメノホヒ(天穂日命)がこの地へ降臨し、大庭大宮を創建したと伝えられるそうですから、主祭神はアメノホヒでいいんじゃないかと思いますけれど、不明っていうことは、どうしてなんでしょう?
少なくとも出雲国造にとって、ここは熊野大社に次いで重要な社である筈なんですが…
Wikipedia/アメノホヒ

ちなみに、造化三神の一柱であるカミムスビは、『出雲国風土記』では神魂命と表記されています。
同じ神魂という漢字ですが、全く関係ないのでしょうか?




佐太神社
佐太神社ホームページ
Wikipedia/佐太神社
出雲國神仏霊場公式ホームページ/佐太神社

主祭神:佐太大神(さだのおおかみ)

ホームページの御由緒2によれば、
主祭神である佐太大神の「サダ」とは伊予國の佐田岬、大隅半島の佐多岬等の地名にみられる岬の意味で島根半島一円、いわゆる『狭田国(さだのくに)』の祖神であり、出雲國における最も尊く、古い大神のうちの一柱であります

その上、Wikipediaでは、
明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ

ということで、佐太神社の主祭神は記紀神話に侵されることなく、祖神の名前を守り切っています。
スゴイですね。
ただ、現在はサルタヒコとの習合を受け入れているようですが。




須我神社
Wikipedia/須我神社
出雲國神仏霊場公式ホームページ/須賀神社

主祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
    稲田比売命(いなたひめのみこと)
    清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)

Wikipediaでは、
本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる

『出雲国風土記』大原郡の海潮郷には、

古老の伝えて言うことには、宇能治比古命が、御親の須美禰命を恨んで、北の方の出雲の海潮を押し上げ、御親の神を漂わせたのだが、その海潮がここまできた。だから、得盬という

とありますが、親を海に流すようなひどい息子を持った神さまが祖神って、何でなんでしょうか…?

なお『出雲国風土記』には、同じ大原郡の佐世郷で、スサノオの有名な伝承
があります。
古老の伝えて言うことには、須佐能袁命が、佐世の木の葉を頭飾りにして躍られたときに、挿していた佐世の木のが地面に落ちた。だから、佐世という



…というような感じです。




ここで、今度は記紀と風土記の歴史を見てみます。

681年頃:古事記・日本書紀の編纂開始
694年 :藤原京へ遷都
697年 :藤原不比等の娘宮子が入内
701年 :大宝律令の制定→令制国の確立
708年 :藤原不比等が右大臣
710年 :平城京へ遷都
712年 :古事記の成立
713年 :風土記編纂の官命
715年頃:播磨国風土記の成立
716年 :出雲国造神賀詞(初回?)
720年 :日本書紀の成立・藤原不比等が死去
721年 :常陸国風土記の成立
733年 :出雲国風土記の成立
733年頃:豊後国風土記の成立・肥前国風土記の成立

これらをザクッと見れば、
古事記成立→風土記編纂官命→播磨国風土記成立→日本書紀成立→その他風土記成立
という流れになります。

なお藤原不比等は、当時の最高権力者ということで、古事記・風土記・日本書紀編纂のプロデューサーという立場です。
Wikipedia.org//藤原不比等

もちろん、古事記には偽書説もあり、本当の成立時期がその序文通り712年かどうか怪しいとのことですし、風土記の成立時期も本当にそれぞれこの通りかどうか微妙です。

けれど、まあ大体このような流れだったと仮定すれば、あくまで、もしかしたらということですけれど、例えば、古事記、風土記、日本書紀の役割は、このようにも考えられます。




▼古事記

律令制を確立し中央集権を進める朝廷は、次に国外へ対しての公的な歴史書を持つことが必要となる。
そのため日本書紀を編纂するに当たり、天地開闢からその当時の近代に至るまでの歴史は、伝承に基づきながらも“創作”しなければならない。

それ以降の歴史については、比較的記憶と記録に新しいので創作の必要がないため、別途での制作進行が可能となる。
よって当時の近代から現代の編纂と並行し、天地開闢から推古天皇までについては先ず“準備稿”を稗田阿礼と太安万侶により纏めさせ、これを古事記とした。

また、その古事記編纂と同時に、“創作”しようとする神話の骨格的な事績についてもアリバイ作りを始めたと思われる。
例えば、伊勢の神宮を整備したり、杵築大社(出雲大社)を創建しておくとか、三種の神器を揃えておくとか。
そうして朝廷はその古事記と名付けた“準備稿”を各令制国へと伝え、その内容に従うか、もしくは
異説異論あるようなら上奏するよう下命する。

なお、古事記はこのような用途であったため、各令制国においても出来る限り読みやすいよう、本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように漢文で代用しづらいものは一字一音表記とする。




▼風土記

日本書紀の“準備稿”古事記への恭順を表明させるため、風土記編纂の官命が各令制国へ下される。
もちろんそのためだけに風土記が必要であったわけではないが、国史編纂という流れの中で、そのようにも利用されたという可能性は捨てられない。

ならばそれ以降、各国の有力者と朝廷との間で、熾烈な交渉や駆け引き、様々な恫喝やら権謀術数が繰り広げられたことと思われる。
例えば、若狭国が多くの海産物を貢ぐ代わりに若狭彦姫を皇祖神とするなどの交渉や、出雲国造の始祖を、ダメな皇祖神のアメノホヒ(天穂日命)として意地悪な圧力を掛けるなど、あの藤原不比等ならではの怜悧狡猾な差配があったのではないかと推測される。

よって日本書紀に記された「一書曰」「一書云」「一本云」「別本云」「旧本云」「或本云」などは全て、これら交渉による妥協と折衷の産物ではないかと考えられる。
そうして、交渉に決着のついた国から順に風土記を成立させて行き、風土記成立の遅かった出雲、豊後、肥前などは、かなり執拗に朝廷へ抵抗したのかも知れない。




▼日本書紀

“準備稿”古事記を元にした調整を経て、日本書紀が成立する。
それに風土記成立が間に合わなかった出雲を始めとする国々にとって、この成立が最終的な問答無用の決着となる。

特に出雲国造は、古事記でアマテラスの次男アメノホヒを祖神としながら、そのアメノホヒが葦原中国平定のため出雲に遣わされたものの、大国主に手懐けられてしまい3年間も高天原に戻らず任務を遂行しなかったとされていたため、そのダメさ加減へ懸命に異議を唱えていたに違いないが、この日本書紀でも、その異議は一顧だにされることはなかった。

これはおそらく古事記の編纂時からすでに、藤原不比等が出雲国造との交渉で
甘言を弄しその祖神を皇祖神であるアメノホヒにすることを承服させていたところ、記紀編纂に並行して様々な手段により出雲の国勢を削ぎながら、遂にアメノホヒを任務不履行のダメ神として貶めたまま、出雲国造にとって不名誉極まりない結果へ嵌めてしまったということに相違ない。

やむをえなくなった出雲国造は、この点に関し何としても受け入れ難く、代替わりごとに朝廷へ参向して奏上する出雲国造神賀詞の中で、以下のように日本書紀とは全く異なる独自の
アメノホヒ大活躍譚を、天皇へ訴え続けるしかなかった。

(前略)高御魂命が皇御孫命に天の下の大八嶋国の国譲りを仰せになられました時に、出雲臣達の遠祖、天穂日命を国土の形成を覗う為にお遣わしになられました時に、(中略)復命して申し上げられました事は、「(中略)これらを鎮定服従させて皇御孫命には安穏平和な国として御統治になられますようにして差し上げます。」と申されて、御自身の御子、天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降しお遣わしになられまして荒れ狂う神々を悉く平定され、国土を開拓経営なされました大穴持大神をも心穏やかに鎮められまして大八嶋国の統治の大権を譲られる事を誓わせになられました。(後略)
日本神話と古代史/その他の文献/出雲国造神賀詞

それから“準備稿”としての古事記は、“決定稿”である日本書紀が成立した以上もはや不要となったため、人々からは遠く忘れ去られ、成立から1,000年という星霜を経た江戸時代、松坂で医師を開業していた本居宣長とようやく出会うことになる。



…というような妄想です。




ともあれ、主要な神社の祭神がおそらく記紀の成立を機に入れ替わり、記紀の出雲神話と出雲国風土記の神話は大きく相違しており、出雲国造が記紀の内容に異議を訴え続けたという状況ですから、出雲の混沌は深遠ですね~。

そして、そもそも先に申し上げましたけれど、記紀で出雲神話とされている物語自体が、本来より出雲古来のものであったかどうか、ますます疑わしいような気がします。

ならば、肝心要な出雲大社の主祭神は、一体どうなんでしょうか…?



(つづく)→ はじめに/歴史的混沌-神話の多義性~初夏出雲行(3)




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