日々のさまよい

昔や今のさまよいなどなど。


テーマ:

はじめに/歴史的混沌-祭神の多重性~初夏出雲行(2)←(承前)


B-2)神話の多義性


出雲大社はオオクニヌシが
主祭神、というのが、ごく一般的な認識かと思います。
しかしながら、創建より千数百年という歴史の中で
数百年もの長きにわたり、主祭神はスサノオでした




千家尊統『出雲大社』から、また少し引用させて頂きます。

出雲大社の御祭神は『古事記』や『日本書紀』の記載に徴してあきらかなように大国主神であるが、『延喜式』の神名帳出雲郡の条には、杵築大社の前に大穴持神の社という社を記載してあるところをみると、中古はいつのころからか、スサノオノミコトが大社の祭神と考えられるようになっていたとみえる。
大社神域の荒垣正門にたつ碧銅の鳥居は、寛文六年(一六六六)六月毛利輝元の孫綱広の寄進になるものであるが、それにも
それ扶桑開闘してよりこのかた、陰陽両神を尊信して伊弉諾伊弉冉尊といふ。此の神三神を生む、一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚というなり。日神とは地神五代の祖天照大神これなり。月神とは月読尊これなり。素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり、云々(もと漢文)
と刻みこまれていて、祭神をスサノオノミコトと考えられていたことがこれでもわかる。本殿の背後真北、八雲山の麓にある摂社素鵞社の祭神がスサノオノミコトであるので、これとの混同でもあろうが、こうしてあやまって混同するだけ、それだけ出雲神話では、スサノオノミコトの神威がたかくうけとられていたということにもなるであろう





ということで、「
素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」だったとのことです。

けれども、やはり、出雲大社創建よりアマテラスの次男アメノホヒの子孫としてオオクニヌシの祭祀を今に至るまで担って来た筈の出雲国造なんですが、それほど後生大事に一系をもって守っている自らの主祭神を、上記引用のごとく、
中古はいつのころからか、スサノオノミコトが大社の祭神と考えられるようになって
素鵞社の祭神がスサノオノミコトであるので、これとの混同でもあろうが、こうしてあやまって混同する
ようなことが、そう簡単に起こり得るとは思えないんですけれど…

そこで、Wikipedia/出雲大社3.2 祭神の変化によれば、

出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主大神であった。
やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。
鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった。
14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。
さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。
また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。
これに併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した





ということで、出雲大社の別当寺(神宮寺)となった鰐淵寺の仏教勢力により、主祭神をスサノオとされていたようです。

こちら↓もご参照ください。
出雲大社紫野教会/出雲大社の御祭神が素戔嗚尊の時代があった
ここに引用されている國學院大學の西岡和彦教授によれば、

鰐淵寺を中心とした縁起(いわゆる中世出雲神話)に、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、それが一般に広まり出雲大社までが祭神を素戔嗚尊とするようになったのである

とのことで、またその下に続けてこうあります。

中世は神仏習合体制で、神社と寺院とかなり緊密な関係となっていたところが多く、出雲大社と鰐淵寺の関係もそうであったようです。最も神仏習合といっても、神社よりも寺院の方が力が強い事も多く、また学問といえば僧侶が中心でしたから、そのあたりも御祭神の変更に影響を及ぼしたのかもしれません




ということなのですが、それでは何故、鰐淵寺は日本書紀や出雲国風土記を無視して、わざわざ出雲の国引き・国作りの神をスサノオノとしたのでしょう?

もしかしたら、往事の僧侶らはハナからそれら日本の古文書を軽んじて、国造りを成しながらも戦わずに負けたオオクニヌシや、出雲国風土記にしか登場しないローカルな八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)ではカッコ悪いので、出雲の祖神でありヤマタノオロチを勇ましく退治し牛頭天王とも習合した荒ぶる神スサノオノの方が、単純にカッコ良く思ったのかも知れません。
何より、間違いなく武士ウケが良いのは、絶対にスサノオだろうと思いますし。

しかしながら、もし当時勢力を持っていた僧侶がそのような理由で強くゴリ押しをしたとしても、さすがにそうアッサリと主祭神を変更するなど、少なくとも出雲大社の祭祀を担う出雲国造ほどの宮司が行い得ることなのでしょうか!?
と、私などはつい疑問に思ってしまうのですけれど、第82代出雲国造は、
あやまって混同する
というような軽い言葉で祭神の変化を語っておられますから、意外と平気なのかも知れません。

それだけ出雲神話では、スサノオノミコトの神威がたかくうけとられていたということにもなる
と、何だかオオクニヌシがスサノオノと混同されるのもまんざらでないような感じさえあります。

『出雲大社』では、他に「志の継承」として、
日本人の心にあっては、父の志はその血ととともに子がこれをうけつぎ、父と子は一体として考えられるのだ
と述べ、父神スサノオと子神オオクニヌシの一体を強調されているほどですから、

しかし、やはりこれっていいんでしょうか?




もちろん日本書紀では、造化三神という最高神の一柱であるタカミムスビが国譲りに応じたオオクニヌシに対し、
汝の住処となる天日隅宮(あめのひすみのみや)を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、アメノホヒに祀らせよう
と約束して、アメノホヒの子孫とされる出雲国造がオオクニヌシを祀るのですから、いくらスサノオがオオクニヌシの父だとしても、オオクニヌシの代わりにスサノオを祀ってそれで済む筈はありません。

何より、そもそもスサノオは、アマテラスの弟でありながら天で罪穢れの限りを尽くし、逐降(かんやらひやらひ)の理に従って追放された神ですから、超偉いタカミムスビの命に背き朝廷にも無断でオオクニヌシの代わりにスサノオを祀ることなど、本来なら許されることとは思えません。

にもかかわらず、出雲国造は鰐淵寺の仏教勢力にアッサリと屈したのでしょうか?
その時、出雲国造は何としてでも自らの使命を果たそう、などと露ほども思わなかった、ということでしょうか?




…そこで、この不可解にひとつの可能性を考えてみました。

それは、出雲国造の本心では、もしかしたらオオクニヌシを祀らずに済むならそうしたい、という気持ちがあったのではないか、ということです。
何だか怒られそうですけれど、これはあくまで歴史の謎で思い悩む素人の思いついた可能性のひとつ、ということで何卒ご容赦ください。

ここから少し、出雲国造は本気でオオクニヌシを奉斎する気があったのかなかったのか、考えてみたいと思います。


もともと出雲国造は、出雲国府のある古代出雲の中心地であった意宇郡をその本拠地として郡司を務め、熊野大社でクシミケヌを奉斎して神魂神社を私的な祭場もしくは廷内社としていました。
しかし中央政権の命による杵築(出雲)大社の創建によって、その祭祀職務を兼任しなければならないこととなります。
そうして798年には意宇郡司職を支族に譲って出雲郡杵築郷へ拠点を移し、次第に出雲大社における祭祀へと専念するようになっていきます。

けれども、出雲国造にとって元来そもそも奉斎すべき祭神は熊野大社のクシミケヌであり、出雲大社のオオクニヌシは、あくまで記紀に描かれたような経緯により、後付けで付加された任務でしかありません。
そのため現在に至るまで、国造の代替わり儀式である火継式と毎年行われる古伝新嘗祭では、熊野大社と神魂神社にて儀式が取り行われています。




その上、千家尊統『出雲大社』には、このように記されています。

「風土記」に大社とあるのは熊野と杵築のそれだけである。しかし両大社を列挙するときには、熊野がつねに杵築の前に上位としてあり、逆になることはない。王朝時代に朝廷から授けられた神階も、熊野が杵築よりいつも一階だけ上であった。これというのも熊野の大社は、もともと出雲国造が奉斎していた社であったからなのである

ということで、このような順位があったとは、出雲のことをよく知らなかった者にとって驚きの事実です。
出雲といえば何を置いても先ずは出雲大社、という単純な認識が普通だと思っていました。

いつもよく参照しているWikipedia/一宮/諸国一宮一覧でも、歴史的に一宮とされる神社のみを掲載ということで、『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院/2000年)を底本としているそうですが、ここに熊野大社は含まれていませんでしたから。
ただし、後で知ったのですが、全国一の宮会には加盟されています。
全国一の宮会/熊野大社




ちなみに、出雲大社と熊野大社をつなぐ道程はおおよそ45kmもあります。
これを休憩なしで歩くとすれば、普通の歩速(4km/h)で11時間以上かかる距離となり、
ちょっとした用事で出向くだけでも、徒歩なら往復で丸2日かかる大仕事になってしまいます。

意宇郡で熊野大社を奉斎し郡司職も担っていた出雲国造が、出雲郡杵築郷に創建された出雲大社の奉斎を兼務して以来、国造を始めとする神官たちは、この往復90kmもの道程を何かある毎に移動しなければならなくなった筈です。

それがどれほどの期間に渡り続いたのか、千家尊統『出雲大社』にはこうあります。

意字の郡司を兼帯していた出雲国造が、意字から杵築に移ったのはいつのことか。遠い上代のこととて、国造家にもしかとした伝承はなく、まことにこれはむずかしい問題であるが、その解明の一つの手がかりとなるものは、『類緊三代格』巻七の郡司の条にみえる太政官符である。それによると慶雲三年(七〇六)出雲国造は意字郡大領を兼帯して、延暦十七年(七九八)までにおよぶというのである。とするならば意字郡大領兼帯という政治的権威をうしなった平安初期に、意字郡には太庭の熊野の神の遥拝祠ならびに国造館をのこして、大国主神鎮座の杵築の地にあげて移転し、宗教的権威にひたすら生きることになったのではあるまいか




ここから考えると、706年から798年までの
少なくとも92年間、熊野大社から出雲大社へ足繁く通っていたと考えて良いかと思います。
しかし、牛馬か徒歩しかない時代にこれはさすがに負担が大き過ぎますから、出雲国造が杵築の大社を十分に奉斎できていたとは思えません。

そのため、おそらくそれを朝廷に見咎められ、出雲国造は郡司職を解任されて杵築への移住を厳命され、出雲大社を本気で奉斎するよう余儀なくされたのだと思います。

ところが、それでも懲りずに、出雲国造は意宇郡での奉斎を諦めません。
先の引用に続けて、『出雲大社』でこう記されています。

このことはそして国造家に深いゆかりをもつ熊野の神の祭祀を、けっして放棄するという意図をもつものではなかったことは、国造家と熊野の神との、それ以後の密接な結びつきを見ることによっても、うかがい知ることができるであろう。
前に述べた『令集解』の古記に、「出雲国造の斎く神」を天神とし、地祇なる「出雲大汝神」とはっきり区別しているのであるから、国造としては杵築へ移っても、出雲国内の総斎という大切な場合には、熊野大社に参向していたに違いないのである。神火の相続、古伝新嘗祭等、出雲国造にとっての重大な神事が、そのことをよく示している






つまり出雲国造にとって、古より奉斎して来た熊野大社のクシミケヌこそが天津神であり、その熊野の神は、出雲大社の国津神であるオオクニヌシより格段に重要と捉えていたようです。

何だかこうして見てみると、出雲神話で最大のヒーローであり出雲大社で盛大に祀られてきたと思っていたオオクニヌシが、少し可哀想にも思えて来ますね…



(つづく)→ はじめに/歴史的混沌-続・神話の多義性~初夏出雲行(4)




~いつも応援ありがとうございます~
AD
いいね!した人  |  コメント(16)  |  リブログ(0)

マルデンさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。