「わたし」のことが書かれている本に出会った。

 

 

 

そう。

わたしも、ずーっとむかしから「消えたい」と思い続けてきた。

「死にたい」ではなく、「消えたい」なのだ。

 

希死念慮、という言葉があるのは知っている。

だけど、その言葉は、わたしの感覚とは、ちょっと違う。

 

自殺願望ではなく、ふっと消えたい。

なにもなかったように。

だって、なんにもないんだもの。

もともとなにもないんだから。

 

 

その感覚がどこから来るのか。

ほかのひとたちはどうやって生きているのか。

 

生きていることに、現実感がなくて。

ひととの関わりが、アクリル板越しのような。

 

ふわふわとして。

ぼんやりしていて。

 

というのを、ずっと抱えてきた。

笑っていても、次の瞬間、ふっと消えたくなる。

 

逆に、笑っているこの瞬間に消えられたら、幸せだな。

なんて思ってた。

 

 

 

ふわふわ、ぼんやりしたまんま。

だけど、実家からはとにかく離れたくて。

 

結婚して、出産して。

子どもを育てるにつれて、いろんなことがフラッシュバック。

 

わたしだったら我が子に絶対しないようなことを、あのひとたちはわたしにやってきた。

わたしだったら我が子と一緒に笑いたいし、我が子のやりたいことを応援するのに、あのひとたちはわたしの笑顔を無視し、わたしのやりたいことに水を差してばかりいた。

 

感覚を麻痺させなければ、生きていけなかったんだ。

そっか。

感覚を麻痺させてでも、本能として生きようとしたんだね。

 

でも、すっごく辛くて、しんどかった。

だから、死にたいではなく、消えたい。

 

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この本の中には、いろんなケースが紹介されている。

 

その症例のぞれぞれに、思い当たること多し。

 

あー、そうだったなぁ。

わたしも同じことをされたなぁ。

 

わたしが不登校にならなかったのは、家にいるより学校にいるほうが、よほどマシだったから。

 

 

この本、文庫本なのだけれど、読み終えるのには、2ヶ月くらいかかった。

読みやすい文章なのだけれど、内容がイチイチ痛い。

そのひとつずつに、当時のわたしを思い出した。

 

当時のわたしに、

「よく頑張ったね」

「あなたはちっとも悪くなんてないんだよ」

「もう大丈夫。おとなのわたしがいるんだから、もう大丈夫だよ」

と声をかけ、抱きしめ。

 

そうやって読み進めていった。

どの章も軽く流し読むなんてできなかった。

 

途中で、ドロドロとしたコールタールのような黒い感情が湧き出てびっくりしたり、

思い出し笑いならぬ思い出し怒りが起こって、ムカムカ腹が立ってとうしようもなかったり。

 

そういうときは、ひとりお風呂に浸かって泣いた。

そして、シャワーで洗い流した。

 

うん。

出せてよかった。

 

 

 

きっとあのひとたちは、少しも「悪かった」なんて思っていない。

自分たちを正当化し、

「わたしたちは一生懸命あんたのためにやったのに、文句を言われるなんて心外だ。やっぱりあんたは変わってる、変な子だ」

と、またわたしのせいにするだろう。

 

だけど、そうしかできなかったあのひとたちも、そうならざるを得ない理由があるんだと思う。

自分たちのやり方は間違っていない。これが普通だと思うような生育歴や環境だったのだろう。

 

そうやって、それぞれの家庭の雰囲気やルール、子育ての仕方などが受け継がれ、連鎖していくのだ。

 

 

 

わたしが、その連鎖を断ち切りたいと思ったのは、我が子からの猛烈な訴えかけがあったから。

 

でも、わたしも最初、その意味がわからなかった。

我が子に対し、

「わがまま」「変わってる」「変な子」

というレッテルを、うっかり貼り付けてしまうところだった。

 

だけど、思い出したんだ。

 

わたしも必死になって、あの人たちに訴えかけていたことを。

我が子が、当時のわたしと重なった。

 

それから、わたしは自分の身についてしまっているやり方を変えるように努力した。

そういうときには、あのひとたちの声が聞こえた。

(甘やかしていては、ろくなおとなにならないぞ)

(もっときつく躾けなければ、わたしたちが世間様に笑われる)

 

そういう脅しに屈しないよう、我が子を、そして当時のわたしを守るため、頑張った。

 

だけど、一番つらかったのは、わたしが我が子に優しく接していると、どうしようもない嫉妬の炎が心の奥でチロチロ燃えるのだ。

(この子はずるい。わたしは優しくされなかったのに!)と。

そういうときは、本当に苦しかった。

 

でも、嫉妬するのが当たり前。

(そうだよね。優しくしてもらえなかったもんね。理解しようとすらしてもらえなかったもんね。よく耐えたね)

と、わたしがわたしを抱きしめる。

 

 

いまのわたしは、我が子と、当時のわたしと、もうひとりのわたし、この3人を同時に育てているような感じ。

 

 

我が子の成長につれて当時のわたしも成長し、もうひとりのわたしの嫉妬心もずいぶん落ち着いてきた。

 

 

今後どうなっていくのか。

不安よりも、楽しみが大きい。

 

なんとかなる。

そう思える自分が嬉しい。

 

いつからなのだろう、、、。

いま小学校などでは、名前を呼ぶとき、男の子も女の子も関係なく「さん付け」で呼ばれているようだ。

 

「くん/さん」で育ったわたしには、ちょっと違和感。

 

でも、高校生になって、部活などで先輩を呼ぶときは、

「〇〇さん」

これに統一されていた。

 

また、社会に出れば、ほとんど「さん付け」である。

 

 

いまどきの小学生たちは、違和感を感じてないのかな。

 

と、つらつら考えていて、、、。

 

 

あ!そうだ!

 

こどもたちが納得する《例え》が閃いた。

 

 

 おとうさん

 おかあさん

どちらも「さん付け」である。

 

 おとうくん

 おかあさん

とは言わない。

 

また、

 おとうちゃん

 おかあちゃん

これは、どちらも「ちゃん付け」だ。

 

ま、小学生に説明する機会もないのだが、、、。

自分が納得できて、すっきりした。

 

 

 

だけど、逆に国会では、男女関係なく「くん呼び」が主流のようで。

でも、これもまた「さん付け」に変わっていくかもしれないな。

 

なにか始めたとする。

個人だとそれほど感じないのだが、、、。

同じ時期に始めた「同期」と呼ばれるひとたちがいたり、先に始めた「先輩」と言われるひとたちがいる場合、ややこしい。

 

ヘタクソで、できないときは、いいのだ。

同期からは、

「大丈夫!一緒に頑張ろうね!」

先輩からも、

「焦らなくていいよ!その調子で頑張れ!」

などと、励ましの声を掛けてもらえる。

 

ひとは、相手より自分が優位にいると感じられている間は、けっこうやさしい。

 

 

ところが、自分より下だと思っていたものが、ぐんぐん力をつけてくると、急に態度を変える。

 

 なんで、急にできるようになってきたの?

 なんで、わたしより上手になってきているの?

 なんで、平然とわたしを追い越そうとしてくるの?

 なんで? なんで? なんで?

 

「なんで?」の答えはいろいろあるだろうけれど、わたしの場合、好きなこと、興味を持ったことへの過集中と、のめり込み。

かなりの時間をそのことに費やすことになる。

 

 だって、楽しくて面白いんだもの。

 だって、もっともっと知りたいんだもの。

 だって、知れば知るほど自分がまだまだだっていうのがわかるんだもの。

 だって、わからないことがわかるようになるって、すっごく楽しくて面白いんだもの。

 

と、突っ走ってしまうのだ。

 

そうなると、同期とは足並み揃わず、先輩のことも追い越してしまうこともあるわけで。

 

そして、嫌味や陰口、ときには面と向かって悪口などを言われることとなる。

 

 

 

あー、ちっさ!

ホント、ちいさい。

思いっきりちいさな世界。

 

そんな世界でごちゃごちゃ考えてる自分もちっさくて大嫌い。

 

で、わたしはすべてが嫌になる。

 

 

 

でもね、その「なんで?」の問いかけに、納得できる「理由」があれば、みなさん安心されるのよ。

 

「実は、小さいころにもやったことがあって」

「実はむかし、祖母から手ほどきを受けたことがあって」

「実は、親がそれを生業にしていて」

 

といったような、なにかしらの理由があれば、

「あら、そうなの。だったらできて当たり前よね」

に変わり、

「その割には、イマイチなんじゃない」

なんて、批判されたりもする。

 

その心理には、

(ふん、わたしだって同じような環境だったら、あんたよりもっと上手にできてたわよ。)

(よかったわね、恵まれた環境で。でもそれって、あんたの力じゃないじゃない。)

(あんたなんて、たいしたことないじゃない。)

と、安心したい気持ち。

 

 

 

こじつけてでも理由を探して、

「実は、、、」

なんて伝えてたこともあったなあ。

 

嫌われたくなくて。

仲間でいたくて。

 

 

 

だーけーどー!

身につけたのは、本人の努力なんだよね。

 

確かに、親が音楽家だったら、音楽の道に進むのに対しては、ある程度の環境が整っていると言えよう。

確かに、親が小説家だったら、文章を書くというのが当たり前の環境にいただろう。

確かに、親が書道家だったら、幼少期から文字に触れる環境であっただろう。

 

でもね、決してそれだけでは身にはつかないのよ。

何度も繰り返し練習し、推敲し、挑戦し続けないと、上手くなんてならないのよ。

 

そのうえ、やらされているなんて思いながらやってたら、いつまでたってもしまらないままなのよ。

 

結局は、本人次第。

 

 

でも、周囲のひとたちは、そういった「理由」を見つけて、安心したがる。

なぜなら、なんの理由もないのに、ぐんぐん上達されては、自分の立場がないからだ。

 

同時スタートしたのに、差が開く。

これといった理由もないのに。

 

ということは。

あいつに比べて、わたしは劣っているということか?

わたしの努力が足りないということか?

わたしには才能がないということか?

 

自分を振り返り、不安になる。

 

だからまた、安心したくて、同じようなひとたち、類友とつるんで、ターゲットをこき下ろす。

 

 だって、あいつ、ずるいんだもの。

 

 

なにがずるいのか、それさえわかってもいないのだろうけれど、自分たちよりできるひとは、とにかくずるい。

 

そうやって自分を安心させ、その場に留まる。

 

 

 

わたしは、わたしのなかに、妬む自分と妬まれる自分、両方がいるのを知っているよ。

 

 

 

うん。

そういうグチャグチャした場所からは、さっさと抜け出すのが一番。

 

それがひとつのステップアップであり、長く楽しく続けられるコツでもある。

 

 

 

 

さて、わたしの親だが、小さいころからのわたしの過集中とのめり込みが不安だったんだろうな。

 

だから、わたしが好きなことや楽しいことをやっているときは、必ず決まって水を差し、やる気を奪い、引き戻そうとした。

 

わたしのなかに、なんとも言えない異常性を見たように感じて、こわかったんだろうな。

親もきっと安心したかったんだ。

 

 

 

ひとはみな、安心したい。

 

もちろんわたしも。

 

安心が一番。