なにか始めたとする。

個人だとそれほど感じないのだが、、、。

同じ時期に始めた「同期」と呼ばれるひとたちがいたり、先に始めた「先輩」と言われるひとたちがいる場合、ややこしい。

 

ヘタクソで、できないときは、いいのだ。

同期からは、

「大丈夫!一緒に頑張ろうね!」

先輩からも、

「焦らなくていいよ!その調子で頑張れ!」

などと、励ましの声を掛けてもらえる。

 

ひとは、相手より自分が優位にいると感じられている間は、けっこうやさしい。

 

 

ところが、自分より下だと思っていたものが、ぐんぐん力をつけてくると、急に態度を変える。

 

 なんで、急にできるようになってきたの?

 なんで、わたしより上手になってきているの?

 なんで、平然とわたしを追い越そうとしてくるの?

 なんで? なんで? なんで?

 

「なんで?」の答えはいろいろあるだろうけれど、わたしの場合、好きなこと、興味を持ったことへの過集中と、のめり込み。

かなりの時間をそのことに費やすことになる。

 

 だって、楽しくて面白いんだもの。

 だって、もっともっと知りたいんだもの。

 だって、知れば知るほど自分がまだまだだっていうのがわかるんだもの。

 だって、わからないことがわかるようになるって、すっごく楽しくて面白いんだもの。

 

と、突っ走ってしまうのだ。

 

そうなると、同期とは足並み揃わず、先輩のことも追い越してしまうこともあるわけで。

 

そして、嫌味や陰口、ときには面と向かって悪口などを言われることとなる。

 

 

 

あー、ちっさ!

ホント、ちいさい。

思いっきりちいさな世界。

 

そんな世界でごちゃごちゃ考えてる自分もちっさくて大嫌い。

 

で、わたしはすべてが嫌になる。

 

 

 

でもね、その「なんで?」の問いかけに、納得できる「理由」があれば、みなさん安心されるのよ。

 

「実は、小さいころにもやったことがあって」

「実はむかし、祖母から手ほどきを受けたことがあって」

「実は、親がそれを生業にしていて」

 

といったような、なにかしらの理由があれば、

「あら、そうなの。だったらできて当たり前よね」

に変わり、

「その割には、イマイチなんじゃない」

なんて、批判されたりもする。

 

その心理には、

(ふん、わたしだって同じような環境だったら、あんたよりもっと上手にできてたわよ。)

(よかったわね、恵まれた環境で。でもそれって、あんたの力じゃないじゃない。)

(あんたなんて、たいしたことないじゃない。)

と、安心したい気持ち。

 

 

 

こじつけてでも理由を探して、

「実は、、、」

なんて伝えてたこともあったなあ。

 

嫌われたくなくて。

仲間でいたくて。

 

 

 

だーけーどー!

身につけたのは、本人の努力なんだよね。

 

確かに、親が音楽家だったら、音楽の道に進むのに対しては、ある程度の環境が整っていると言えよう。

確かに、親が小説家だったら、文章を書くというのが当たり前の環境にいただろう。

確かに、親が書道家だったら、幼少期から文字に触れる環境であっただろう。

 

でもね、決してそれだけでは身にはつかないのよ。

何度も繰り返し練習し、推敲し、挑戦し続けないと、上手くなんてならないのよ。

 

そのうえ、やらされているなんて思いながらやってたら、いつまでたってもしまらないままなのよ。

 

結局は、本人次第。

 

 

でも、周囲のひとたちは、そういった「理由」を見つけて、安心したがる。

なぜなら、なんの理由もないのに、ぐんぐん上達されては、自分の立場がないからだ。

 

同時スタートしたのに、差が開く。

これといった理由もないのに。

 

ということは。

あいつに比べて、わたしは劣っているということか?

わたしの努力が足りないということか?

わたしには才能がないということか?

 

自分を振り返り、不安になる。

 

だからまた、安心したくて、同じようなひとたち、類友とつるんで、ターゲットをこき下ろす。

 

 だって、あいつ、ずるいんだもの。

 

 

なにがずるいのか、それさえわかってもいないのだろうけれど、自分たちよりできるひとは、とにかくずるい。

 

そうやって自分を安心させ、その場に留まる。

 

 

 

わたしは、わたしのなかに、妬む自分と妬まれる自分、両方がいるのを知っているよ。

 

 

 

うん。

そういうグチャグチャした場所からは、さっさと抜け出すのが一番。

 

それがひとつのステップアップであり、長く楽しく続けられるコツでもある。

 

 

 

 

さて、わたしの親だが、小さいころからのわたしの過集中とのめり込みが不安だったんだろうな。

 

だから、わたしが好きなことや楽しいことをやっているときは、必ず決まって水を差し、やる気を奪い、引き戻そうとした。

 

わたしのなかに、なんとも言えない異常性を見たように感じて、こわかったんだろうな。

親もきっと安心したかったんだ。

 

 

 

ひとはみな、安心したい。

 

もちろんわたしも。

 

安心が一番。