スメタナが作曲した交響詩「ブルタバ(モルダウ)」は、ブルタバ川の水源からエルベ川合流までの川の様子や人々、自然の様子を描いた標題音楽となっています。ここで「標題音楽って何だ?」ってことで、標題音楽について解説します。
歌詞のある音楽は言葉が付随していますから、その作品がどういうことを言おうとしているのか、具体的にわかりますよね。でも楽器だけで演奏される作品は言葉がありませんから、音楽は極めて抽象的で何を言いたいのかよくわからないということになります。
言葉がないと「この曲はノリのいい音楽だ」とか、「和音がきれいだな~」とか、「この旋律好き」などのような感覚的な印象をもつことはできますが、何を言いたいのかとなると極めて判断が難しくなります。
そこで器楽の作品に何を言いたいのかはっきりさせようということで標題音楽の登場です。つまり、作曲家が曲を作るときに、物語とか情景とかがまずあって、それを音楽に変換したというのが標題音楽です。イメージ的には、翻訳したって感じでしょうか。「英語を日本語にした」のように、「物語を音楽言語に変えた」って感じです。
標題音楽は作曲に先行して、必ず物語や自然情景があります。それを音楽言語に変換するわけですから、「ブルタバ」の場合は、「スメタナという音楽翻訳家がブルタバ川の様子を音楽言語に変換した」というようなイメージになります。
標題音楽は、器楽作品が何を言おうとしているのか明確にする音楽ですから、楽譜には、「ここはこういう場面だよ~」と言葉で説明が書かれていることが多いのです。こうして、演奏家や聴者に曲の方向性を明示していきます。
標題音楽は、ロマン派だけのものではなく、古き時代からありました。例えば、ヴィヴァルディの「四季」なんかも、自然の様子を物語仕立てで作られています。ここでもやはり作曲する前に、「自然」という先行するものがあって、その自然の様子をヴィヴァルディという音楽翻訳者が音楽言語化したわけです。
ただし、ヴィヴァルディの「四季」の場合は、ヴィヴァルディが季節の印象を作曲したのか、あるいは実在したある一定の時間を描写したのか不明です。もし印象を描写したとなると、標題性は少し薄くなりますし、実在した一定の時間の出来事となると標題性は濃厚になります。標題音楽は、どちらかといえば、「今、そこにあるそれ」を音楽化したものが多いようです。
「標題」の「標」の字は目標の標ですよね。つまり「しるべ」となるもの、つまり「題名」がしるべとなる音楽です。「あ、この曲は、ブルタバ川について語っているんだ」となります。
さて、標題音楽の対をなすものとして絶対音楽があります。絶対音楽は、音楽を創るときに標題音楽のように先行して何かがあるわけではなく、旋律やリズムなどを頭で創造することをはじめの一歩として創りあげていく音楽です。
何かを音楽言語に翻訳したわけではありません。
ロマン派時代には、標題音楽か絶対音楽か、ということで派閥ができ、かなり喧々諤々としたそうですよ。私なんか、「どっちゃでもいいべ」って感じですが・・・。
あ~、昔、年配の国語の先生がおっしゃっていた言葉を思い出します。「あらゆる芸術で音楽が一番難しい・・・」
だって、音楽って何を言いたいのか不明瞭ですもんね・・・。
というか、感性にフィットしてそれが自分の心や欲求を満たしてくれればそれでよくない?って感じもします。
ということで、スメタナさんの「ブルタバ」ですが、ブルタバ川という川の物語を音楽言語化した標題音楽でありました。
スメタナ作曲「ブルタバ(モルダウ)」考察①歴史背景
https://ameblo.jp/marubach140/entry-12536123116.html
スメタナ作曲「ブルタバ(モルダウ)」考察②楽曲について
https://ameblo.jp/marubach140/entry-12536850190.html
ブルタバのテーマを研究しよう
https://ameblo.jp/marubach140/entry-12547901376.html
もどうぞ。
ご精読ありがとうございました。